第23話 うちの子たちを怒らせないでください
銀狼が立ち上がった瞬間、森の空気が変わった。
先ほどまでリリィの隣で昼寝をしていた姿は、もうどこにもない。
銀色の毛並みの隙間から、消えかけていたはずの黒い靄が滲み出す。赤い瞳がバルガスを捉え、喉の奥から低い唸り声が響いた。
「ひっ……」
クラリッサが息を呑む。
護衛たちは即座に剣を抜いた。
「旦那様、下がってください!」
「何を――」
「早く!」
その声に重なるように、頭上で大きな羽音がした。
翼竜だった。
小屋の屋根から飛び降りると、リリィの背後へ着地する。黒紫色をまだ残した翼が大きく広がった。
ばさり、と風が巻き起こる。
マリアンヌの髪が乱れ、エドガーが数歩後ずさった。
「竜まで……」
しかし翼竜は襲わない。
銀狼も飛びかからない。
二匹がしたのは、ただ一つだった。
リリィとバルガスの間へ立つ。
「どけ!」
バルガスが叫んだ。
銀狼の唸り声が一段低くなる。
リリィには分かった。
怒っている。
いつもなら、ご飯の時間になると真っ先に器の前へ来る銀狼。
食べすぎを止められると、露骨に耳を下げる銀狼。
子供に怖がられれば自分から距離を取る、あの優しい子が。
今は牙を見せている。
翼竜も同じだった。
荷物を抱えて村人の横を歩き、疲れれば小屋の屋根で丸くなる。寝起きには翼が変な方向へ曲がっていて、リリィに直されることもある。
そんな翼竜が、今は身体を大きく見せるように翼を広げていた。
「なんなのよ、こいつら……」
クラリッサの声が震える。
「私たちを襲うつもり?」
「違います」
リリィが答えた。
「でも、怒っています」
「十分危険じゃない!」
クラリッサが叫んだ直後。
森の奥から、がさりと音がした。
一か所ではない。
右。
左。
背後。
いくつもの茂みが揺れる。
護衛隊長が顔色を変えた。
「囲まれている……?」
木々の隙間に、小さな光が見えた。
獣の目だ。
一対。
二対。
さらに奥にも。
大型魔獣ばかりではない。小さな角を持つ獣、鳥に似た魔物、木の陰からこちらを覗く丸い影。
普段ならリリィの小屋へ水を飲みに来たり、銀狼の後をついて歩いたりする森の魔物たちだった。
けれど伯爵家の者たちは、そんな日常を知らない。
「魔物の群れだ……」
護衛の一人が呻く。
「旦那様、もう刺激しないでください」
「馬鹿な。たかが魔物だぞ」
「この数を相手にはできません!」
バルガスはようやく周囲を見回した。
自分たちを囲む気配。
目の前には巨大な銀狼。
その後ろには翼竜。
そして、その中心にリリィが立っている。
「お前……」
バルガスの顔に、初めて戸惑いが浮かんだ。
「こいつらを従えているのか?」
「従えてはいません」
「では、なぜお前を守る!」
リリィも一瞬考えた。
なぜ、と聞かれると難しい。
銀狼を助けた。
翼竜を看病した。
食事を作った。
一緒に暮らしてきた。
でも、命令して自分を守らせたことなど一度もない。
「家族だからだと思います」
「またその話か!」
バルガスが苛立って一歩出た。
銀狼の前脚が地面を踏む。
黒い靄が一気に濃くなった。
「止まってください!」
今度は護衛隊長がバルガスを制した。
「こいつ……本気です」
銀狼の足元の土が、わずかに沈んでいる。
翼竜も姿勢を低くした。
戦えばどうなるか。
答えを知る必要はなかった。
護衛四人のうち一人が、ゆっくり剣を下げた。
「おい!」
「刺激しない方がいい」
もう一人も続く。
「こいつら、こちらから動かなければ襲ってこない」
言われてみれば、その通りだった。
これだけ殺気を放ちながら、銀狼は一歩もリリィの前から離れていない。
翼竜も同じだ。
森の魔物たちも近づいてこない。
目的は人間を襲うことではない。
ただ。
リリィへ近づかせない。
その一点だけだった。
マリアンヌが娘を見る。
「リリィ……あなた、この魔物たちに守られているの?」
「はい?」
リリィは首を傾げた。
少し違う気がした。
自分も銀狼たちを守る。
銀狼たちも自分を守る。
どちらか一方ではない。
「一緒に暮らしているだけです」
「それで、こんな……」
マリアンヌは言葉を失った。
伯爵家にいた頃のリリィは、誰かの後ろに隠れる子だった。
叱られれば俯く。
怒鳴られれば謝る。
誰かを守ることはあっても、リリィを守ろうと前へ出る者はいなかった。
今は違う。
巨大な銀狼が身体を張り、翼竜が翼を広げ、森の魔物まで集まっている。
彼らはリリィに守られているだけではない。
リリィを守ろうとしている。
「これ以上近づけば、本当に襲われます」
護衛隊長が警告した。
バルガスの顔が歪んだ。
「私を脅すつもりか、リリィ!」
「私、何も命令してません」
「なら止めろ!」
「あ」
リリィは銀狼を見た。
確かに、このままではみんな疲れてしまう。
翼竜も翼を広げ続ければ負担になる。
何より、必要以上に興奮させたくない。
「大丈夫です」
リリィは銀狼の背中へそっと手を置いた。
「まだ何もしなくていいですよ」
それだけだった。
銀狼の唸り声が止まった。
濃くなっていた黒い靄も、ゆっくり薄れていく。
「翼竜も。大丈夫です」
翼竜が広げていた翼を畳んだ。
森の奥の気配も変わった。
一頭、また一頭と目の光が消えていく。枝が揺れ、魔物たちが森へ戻っていった。
護衛たちは呆然としていた。
「……命令したのか?」
一人が呟く。
「お願いしただけです」
「それで聞くのか?」
「いつも聞いてくれますよ」
リリィには、それほど不思議なことではなかった。
銀狼の体調が悪ければ走らせない。
翼竜が疲れていれば休ませる。
嫌がることは無理にさせない。
二匹もリリィが困っていれば助けてくれる。
それを繰り返してきただけだ。
けれどバルガスの目には、別のものが映っていた。
巨大な銀狼。
翼竜。
森中から集まった魔物。
そして、たった一言でそれらを静めた十一歳の少女。
「……そういうことか」
バルガスが低く呟いた。
リリィは嫌な予感がした。
「叔父様?」
「帳面だけではなかったのだな」
「何の話ですか?」
「魔獣の異常を見抜くだけではない。これほどの魔物を従わせる力まで持っていたとは」
「違います」
リリィはすぐ否定した。
「従わせていません」
「同じことだ」
「違います」
「なら、なぜお前の言葉を聞く!」
リリィは銀狼を見た。
銀狼もリリィを見る。
そこに主従という言葉は、どうしても似合わなかった。
「この子たちが、私を信じてくれているからです」
バルガスは聞いていなかった。
むしろ目の前で、自分が失ったものの価値を計算し始めている。
「銀狼だけでも相当な戦力になる。翼竜までいるなら、領地の警備にも使える」
「使う?」
「森の魔物まで動かせるなら、街道の安全も確保できる。騎士を雇う費用も減らせるだろう」
リリィの表情が硬くなる。
「叔父様。この子たちは道具ではありません」
「伯爵家のために役立てると言っているんだ」
「嫌です」
「お前が決めることではない!」
バルガスは先ほどまで魔物を恐れていたことすら忘れたように声を張った。
「これだけの魔物を従わせられるなら、なおさら伯爵家へ戻れ!」
リリィは、ようやく完全に理解した。
叔父は自分を迎えに来たのではない。
自分が持つものを、取りに来たのだ。




