第22話 帰ってこい? どうしてですか?
「屋敷へ戻るぞ」
バルガスは、それが当然の決定であるかのように言った。
リリィは銀狼のそばから立ち上がったまま、叔父の顔を見ていた。
久しぶりに見る顔だった。
屋敷にいた頃なら、その低い声を聞いただけで肩が強張っていたと思う。何か失敗したのか、自分がまた余計なことをしたのかと、言葉を返すより先に考えていただろう。
けれど今、最初に浮かんだのは別の疑問だった。
「どうしてですか?」
「……何?」
今度はバルガスが固まった。
「どうして、私が屋敷へ戻るんですか?」
聞こえなかったのかと思い、リリィはもう一度尋ねた。
バルガスの眉がつり上がる。
「どうしても何もない。お前はアークライト伯爵家の娘だ。家へ帰るのは当然だろう」
「私は追放されました」
「それはもういい」
「いい?」
「過ぎたことだ。水に流せと言っている」
リリィは少し考えた。
「叔父様が、ですか?」
「何がだ」
「追放された私に、追放した叔父様が『水に流せ』と言っているんですか?」
護衛の一人がわずかに視線を逸らした。
バルガスの顔が赤くなる。
「子供が屁理屈を言うな!」
その声に銀狼の耳が動いた。
小屋の屋根にいた翼竜も顔を上げる。
リリィは二匹へ小さく手を向けた。
「大丈夫です」
それからバルガスへ向き直る。
「私は怒っているわけじゃありません。分からないから聞いています」
「何が分からん!」
「叔父様は、私を役立たずだから追放したんですよね」
誰も答えなかった。
あの日の言葉は覚えている。
治癒魔法も使えない。
伯爵家に置いておく価値がない。
穀潰し。
だから出ていけ。
「だったら、どうして今さら戻るんですか?」
今度はバルガスもすぐには答えなかった。
マリアンヌが間へ入る。
「リリィ。私たちは家族でしょう?」
「家族……」
「そうよ。いろいろあったけれど、もういいじゃない。あなたも一人で森にいるより、屋敷へ戻った方が安心でしょう?」
リリィは自分の周囲を見た。
修繕した小屋。
きれいな水桶。
村人たちからもらった食材。
銀狼。
翼竜。
少し離れた専用の寝床には、スライムもいる。
「一人ではありません」
「魔物のことを言っているの?」
「はい」
「そんなものは家族では――」
マリアンヌが言いかけたところで、リリィの表情が変わった。
強く睨んだわけではない。
ただ、はっきりと目を見た。
「私には家族です」
マリアンヌは続きを言えなくなった。
バルガスが鼻を鳴らす。
「馬鹿馬鹿しい。魔物と森で暮らして、家族ごっこか」
銀狼の尻尾が止まった。
「こんな小屋を掃除して、獣に餌をやって、村人から食い物を恵んでもらっている。それを暮らしているとは言わん。子供の遊びだ」
リリィは黙って聞いていた。
「お前は十一歳だ。世の中のことなど何も分かっていない。我々が今まで食わせ、着せ、育ててやったから生きてこられたんだぞ」
その言葉にも、リリィは以前のように俯かなかった。
確かに、伯爵家で育った。
服も与えられた。
屋根もあった。
けれど食卓では、自分だけ硬いパンと薄いスープだった日がある。
怪我をした使用人を心配すれば余計なことだと言われた。
魔獣の異変を伝えても、口を出すなと言われた。
そして最後には森へ捨てられた。
「育ててもらったことは分かっています」
「なら――」
「でも、それと戻ることは別です」
バルガスの顔から、わずかに余裕が消えた。
「何だと?」
「私はここで暮らしています」
リリィは小屋を見た。
「最初は、雨を避けるだけの古い小屋でした。でも掃除して、水を分けて、寝床を作りました」
銀狼を見る。
「この子の傷を治しました」
屋根の翼竜へ視線を移す。
「この子も元気になりました」
最後にスライムを見る。
「治せない子のお世話の仕方も、少し分かりました」
そして村へ続く道。
「村の人とも知り合いました。助けてもらっていますし、私もできることをしています」
「そんなものは生活とは呼ばん!」
「どうしてですか?」
また同じ問いだった。
バルガスが詰まる。
「食べるものがあります。眠る場所があります。水があります。困った時に助けてくれる人がいます。私も、その人たちを助けることがあります」
屋敷にいた頃より、ずっと生活らしい。
リリィはそう思った。
「私はここで暮らしています」
今度は迷わず言えた。
バルガスは苛立ったように息を吐いた。
「分かった。では条件を変えてやる」
「条件?」
「屋敷へ戻れば、お前にも仕事を与える」
リリィは首を傾げた。
「仕事なら、ここにもあります」
「そういう意味ではない!」
バルガスは懐から、あの小さな帳面を取り出した。
リリィのものだった。
「これを読んだ」
「……私の帳面」
「赤角馬も黒牙牛も、お前は異常を事前に見抜いていた。家族の体調についてもそうだ。そんな能力があるなら、最初からきちんと説明すればよかったのだ」
リリィは目を瞬いた。
「説明しました」
「何?」
「何度も」
右脚を庇っている。
水桶が汚れている。
寝床が湿っている。
食事が偏っている。
何度も伝えた。
そのたびに返ってきた言葉も覚えている。
「叔父様が、余計なことをするなと言ったんです」
「それは、お前の言い方が――」
「叔父様」
リリィは静かに遮った。
「私に謝りに来たんですか?」
森が急に静かになったように感じた。
マリアンヌも。
エドガーも。
クラリッサも。
護衛たちもバルガスを見る。
「……なぜ私が謝る」
結局、返ってきたのはその言葉だった。
リリィは小さく息を吐いた。
「そうですか」
「勘違いするな。私はお前を迎えに来てやったんだ」
バルガスは帳面を握る。
「伯爵家では今、人手が足りん。魔獣の管理も乱れている。お前が以前していたことを続ければ、それで済む」
ようやく理由が分かった。
心配して探していたのではない。
会いたかったのでもない。
必要になったから来たのだ。
「私に、また屋敷のみんなの体調と魔獣を見ろということですか?」
「当然だ」
「嫌です」
返事はすぐに出た。
「……何?」
「戻りません」
バルガスは呆然とした。
リリィ自身も少し驚いた。
こんなに簡単に言えるとは思わなかった。
けれど、一度口にすると胸の中が静かになった。
「私はここで暮らしています」
三度目だった。
今度こそ、完全な答えだった。
「銀狼たちのお世話をします。村の人たちとも約束があります。それに、ここが好きです」
「子供が勝手を言うな!」
バルガスが一歩踏み出す。
以前のリリィなら、その声だけで謝っていたかもしれない。
今は動かなかった。
「勝手ではありません」
「お前には判断する資格などない!」
「どうしてですか?」
また問い返され、バルガスの顔が歪んだ。
「私はお前の保護者だ!」
「私を森へ置いて帰った人がですか?」
バルガスが完全に黙った。
護衛たちの間にも気まずい沈黙が落ちた。
リリィは声を荒らげなかった。
ただ事実を言っただけだった。
それが余計にバルガスを苛立たせたらしい。
「もういい!」
大股で近づいてくる。
「話して分からんなら、連れて帰る!」
「叔父様?」
バルガスの手が伸びた。
リリィの腕を掴もうとする。
その瞬間。
低い唸り声が、森の空気を震わせた。
リリィの横で眠っていた銀狼が、ゆっくりと立ち上がっていた。




