第21話 森の入口で、伯爵家は足が止まる
巨大な狼の足跡を前にして、護衛たちは完全に足を止めた。
「全員、離れてください」
護衛隊長が剣へ手をかける。
土の上に残された足跡は新しい。
普通の狼とは大きさが違う。
しかも、一頭だけのものらしい。
「この大きさなら、かなりの大型魔獣です」
「リリィは……」
マリアンヌの顔が青ざめた。
「まさか、あの子……」
バルガスも足跡を見た。
数週間前、十一歳の少女を一人で置いていった森。
そこに巨大な魔獣がいる。
その二つを結びつける答えは、彼にとって一つしかなかった。
「襲われたのかもしれん」
「父上」
エドガーが顔を強張らせる。
「じゃあ、もう……」
「馬鹿を言うな」
バルガスは強く遮った。
「死んでいれば捜索隊が何か見つけている。あの娘ならどこかに隠れているはずだ」
自分に言い聞かせるような声音だった。
その時。
護衛の一人が空を見上げた。
「上!」
全員が反射的に顔を上げる。
木々の切れ間を、大きな影が横切った。
ばさっ。
翼が空気を叩く。
黒紫色の翼。
「竜……!」
クラリッサが悲鳴を上げ、マリアンヌへしがみついた。
翼竜は一度だけ上空を旋回した。
襲ってくる気配はない。
それでも護衛たちは剣を抜いた。
「旦那様、一度引き返しましょう」
「ここまで来て戻れるか!」
「大型狼に翼竜です。この先に何がいるか分かりません」
「だからこそ急ぐんだ!」
バルガスが言い返す。
「リリィが襲われる前に見つける!」
護衛隊長は何も言わなかった。
すでに襲われている可能性を考えているのだろう。
一行は足跡から距離を取りながら、森の奥へ進んだ。
だが。
しばらくして、先頭の護衛が妙なことに気づいた。
「……隊長」
「どうした」
「道があります」
「さっきから歩いているだろう」
「そうではなく」
男は足元を指した。
「整備されています」
確かにそうだった。
それまで草木に覆われていた細い獣道が、いつの間にか歩きやすくなっている。
邪魔な枝は払われていた。
地面から大きく飛び出していた石も端へ寄せてある。
ぬかるみには平たい石まで置かれていた。
「誰かが手を入れているな」
護衛隊長がしゃがむ。
「かなり頻繁に使われています」
「捜索隊ではないの?」
クラリッサが尋ねる。
「ここまで整備する理由がありません」
さらに進む。
今度は木の幹に、小さな木札が括りつけられていた。
『飲み水』
矢印まで描かれている。
「……何だこれは」
バルガスが眉をひそめた。
矢印に従って少し進むと、沢があった。
しかし昨日見つけた自然の水場とは違う。
石を並べて足場が作られ、上流側には水汲み用の場所がある。
その少し下流には、
『洗い物』
さらに離れた場所には、
『汚れた布はこちら』
と書かれていた。
護衛の一人が水を確認する。
「きれいです」
「誰がこんなことを?」
マリアンヌが呟く。
バルガスには心当たりがあった。
『飲む水と、洗う場所を一緒にしない方がいいです』
昔、屋敷の裏庭でリリィがそんなことを言っていた。
使用人から「細かい」と笑われていた。
「まさか……」
口にしそうになり、やめる。
こんな森の中で十一歳の娘にできるはずがない。
さらに進むと、今度は木の根元に小さな籠が置かれていた。
中には根菜と卵。
布をかけられた焼きたてらしいパンもある。
横には木札。
『リリィちゃんへ。昨日のお礼です』
全員が黙った。
「リリィ?」
クラリッサが先に反応した。
「これ、あの子のこと?」
マリアンヌが籠へ近づく。
「村の人が持ってきたのかしら」
「なぜ村人がリリィへ食料を?」
エドガーが言う。
バルガスには答えられなかった。
自分たちは、リリィが森で飢えていると思っていた。
助けを待っている。
困り果てている。
だから迎えに行けば、泣いて喜ぶ。
そう考えていた。
目の前にあるのは、その想像とは正反対のものだった。
「先へ行くぞ」
バルガスが言った。
誰も反論しなかった。
森を進むほど、奇妙なものが増えていった。
「隊長」
護衛が地面を示す。
また足跡だ。
先ほどと同じ巨大な狼。
その横に、人間の小さな足跡がある。
「……子供ですね」
マリアンヌが息を呑む。
「襲われてるんじゃないの?」
クラリッサが言う。
護衛隊長は首を振った。
「そうは見えません」
「どうしてだ」
バルガスが尋ねる。
「足跡が並んでいます」
逃げた形跡はない。
走った跡もない。
小さな足跡。
大きな狼の足跡。
二つは同じ速度で進み、同じところで止まり、また並んで森の奥へ続いている。
さらに少し先。
今度は大きな鳥のような足跡が加わっていた。
「翼竜か……」
護衛が呟く。
三種類。
人間。
巨大な狼。
翼竜。
まるで一緒に散歩でもしているように並んでいる。
「そんな馬鹿な」
バルガスが言った。
だが、誰も否定できなかった。
*
さらに森を進む。
やがて木々の向こうに煙が見えた。
「何かあります」
護衛たちが警戒する。
一行は音を立てないよう、ゆっくり近づいた。
森が開ける。
小さな狩猟小屋があった。
しかし、捨てられた小屋ではない。
周囲はきれいに草が刈られている。
薪が整然と積んである。
水桶には蓋。
洗った布が日当たりのいい場所で干されている。
小さな畑まで作られ始めていた。
「ここに……住んでいるの?」
マリアンヌが呟く。
そして。
笑い声がした。
バルガスの表情が変わった。
聞き覚えのある声だった。
一行が木の陰から見る。
小屋の前。
一人の少女がいる。
明るい髪を後ろでまとめ、袖をまくっている。
腕には籠。
頬には少し土がついていた。
痩せてもいない。
傷ついてもいない。
むしろ屋敷にいた頃より、ずっと顔色がいい。
「リリィ……」
マリアンヌが息を呑んだ。
リリィは何かを見て笑っている。
その隣には。
「な……」
バルガスが絶句した。
巨大な銀狼が昼寝をしていた。
森の入口で見た、あの大きな足跡の主。
黒い靄をわずかに残した身体は、横になっていても人間の子供より大きい。
赤い目は閉じている。
リリィは何の警戒もせず、その腹へ背中を預けていた。
さらに小屋の屋根では、先ほどの翼竜が休んでいる。
リリィが銀狼の耳を触る。
銀狼が嫌そうに顔を動かす。
「そこ、嫌なんですか?」
リリィが笑う。
銀狼の尻尾が地面を叩いた。
バルガスは目の前の光景を理解できなかった。
魔物に捕まっているわけではない。
襲われているわけでもない。
むしろ。
あの恐ろしい魔物たちの中心で、リリィは完全にくつろいでいる。
バルガスは木陰から出た。
「リリィ!」
少女の身体が止まった。
ゆっくり顔を上げる。
バルガスは大きく胸を張った。
ここまで自分が迎えに来たのだ。
当然、喜ぶと思っていた。
「迎えに来てやったぞ!」
リリィの顔から。
さっきまでの笑顔が、きれいに消えた。




