第20話 森へ行くだけなのに、どうしてこんなに大変なの?
アークライト伯爵家の馬車が、街道を外れた途端に止まった。
「なぜ止まる!」
バルガスが車内から怒鳴ると、御者が困った顔で振り返った。
「旦那様。この先は馬車では進めません」
「道があるだろう」
「これは人が歩くための道です。車輪では厳しいかと」
窓の外には、確かに細い道が森へ続いている。
だが地面には木の根が張り出し、大きな石も転がっていた。道幅も狭く、馬車が通ればすぐ車輪を取られそうだった。
「では、どうしろというのだ」
「ここからは徒歩になります」
バルガスはしばらく御者を見つめた。
「徒歩?」
まるで初めて聞いた言葉のようだった。
今回、森へ来たのはバルガスだけではない。
妻のマリアンヌ。
息子のエドガー。
娘のクラリッサ。
それに護衛四人と使用人二人。
当初、バルガスは自分だけで行くつもりだった。
しかしマリアンヌが「家族で迎えに行った方が戻りやすい」と言い、結局一家で来ることになった。
もちろん誰も、本格的に森を歩く準備などしていない。
「どれくらい歩くの?」
クラリッサが不安そうに尋ねた。
護衛の一人が地図を開く。
「捜索隊が最後に確認した辺りまでは、一時間ほどかと。そこから先は分かりません」
「一時間!」
クラリッサの声が裏返る。
エドガーも顔をしかめた。
「そんなに歩くのか?」
バルガスが苛立った。
「騒ぐな。その程度で音を上げるな」
そう言った本人が、馬車から降りた瞬間に顔をしかめた。
右足首がまだ少し腫れている。
「旦那様、大丈夫ですか」
「問題ない」
護衛の言葉を切り捨て、歩き始めた。
*
三十分後。
「水をくれ」
バルガスはすでに三度目の休憩を要求していた。
使用人が水筒を差し出す。
バルガスは何口も飲んだ。
「私にも」
マリアンヌが手を伸ばす。
「私も喉が渇いた」
クラリッサも続いた。
使用人が次の水筒を取り出す。
護衛の一人が眉をひそめた。
「少し控えた方がよろしいかもしれません」
バルガスが睨む。
「水くらい好きに飲ませろ」
「帰路の分も必要です」
「沢があるだろう」
「安全な水場が見つかるとは限りません」
「なら探せばいい」
護衛は黙った。
出発時に用意した水は十分だと思われていた。
ただし、それは適切に飲めばの話だった。
暑くなる前から大量に飲み、休むたびに水筒へ手を伸ばしていれば減るのも早い。
「それより、もう少しゆっくり歩けないの?」
マリアンヌが言った。
「足が痛いわ」
「さっき休んだばかりだろう」
「この靴、森を歩くためのものじゃないもの」
彼女が履いているのは革製の上等な靴だった。
屋敷や街中なら問題ない。
だが斜面や石の多い森には向いていない。
クラリッサも同じだった。
「私も痛い……」
「我慢しろ」
バルガスが言う。
それを聞いた護衛の一人が、わずかに顔をしかめた。
彼らは歩きやすい靴を履いている。
水も少量ずつ飲み、汗をかきすぎない速度で進んでいる。
最初から山歩きの基本を知っているからだ。
問題は、主人たちがその助言を聞かないことだった。
さらに三十分後。
「腹が減った」
エドガーが言い出した。
使用人が保存食の袋を開く。
中には肉、チーズ、パン、果物。
伯爵家らしく質のいいものを大量に持ってきていた。
しかし。
「……これ、大丈夫か?」
護衛が肉を見て呟いた。
「何がだ」
「朝から日の当たるところに積んでありました」
「干し肉だろう」
「こちらは干したものではありません」
エドガーが持ってきた包みには、屋敷の厨房で焼かせた肉が入っていた。
「せっかく遠出するんだから、冷たい保存食なんて嫌だと言ったんだ」
「この気温で半日持ち歩くのは……」
「昨日焼いた肉だぞ」
エドガーは気にせず食べようとした。
「お待ちください」
護衛が止める。
「臭いを確認してからにしてください」
「面倒だな」
バルガスが苛立つ。
「森へ行くだけで、なぜいちいちそんなことを気にする必要がある」
護衛たちは顔を見合わせた。
その言葉を聞いて、一人がふと思った。
この一家は、本当に十一歳の少女をこの森へ一人で置いていったのか、と。
その少女を今度は「連れ戻す」と言っている。
しかも自分たちは、半日も経たずに水と食事と靴で困っている。
「とにかく先へ進むぞ」
バルガスが立ち上がった。
右足を少し引きずっている。
誰もそれを指摘しなかった。
*
昼を過ぎた頃には、護衛たちの不満も目に見えて増えていた。
「そちらへ行かないでください!」
先頭の護衛が叫ぶ。
クラリッサが道から外れ、花を摘もうとしていた。
「どうして?」
「足元が見えません。蛇や毒虫がいるかもしれません」
「そんなもの、魔法で追い払えばいいじゃない」
「先に避けられる危険なら、避けた方がいいんです」
クラリッサは不満そうに道へ戻った。
少し進むと、今度はマリアンヌが言う。
「また休みたいわ」
「奥様、先ほど休んだばかりです」
「足が痛いのよ」
靴擦れができていた。
使用人が布を出し、足へ巻こうとする。
「もっと柔らかいものはないの?」
「こちらしか……」
「どうして用意していないの」
使用人が困った顔になる。
護衛の一人が無言で自分の予備布を差し出した。
その少し先では、エドガーが腹を押さえている。
「お腹が痛い」
「だから、あの肉はやめた方がいいと……」
「少ししか食べてない!」
先ほどの焼き肉だった。
まだ原因と決まったわけではない。
だが護衛たちの表情はますます険しくなった。
水の残りは少ない。
食事の一部は傷んでいる可能性がある。
家族は疲労している。
そして森の奥はまだ見えない。
「一度戻るべきでは」
護衛隊長が提案した。
「何?」
バルガスが足を止める。
「このまま奥へ入るのは危険です。準備を整え直してから――」
「ここまで来て戻れるか!」
「しかし」
「十一歳の娘が何週間も暮らしているのだぞ。この程度の森で何を大げさな」
護衛隊長は口を閉じた。
それ以上言っても無駄だと判断したらしい。
*
同じ頃。
森のさらに奥では、まるで別の時間が流れていた。
「今日は豆も入れてみました」
リリィが鍋をかき混ぜる。
村人からもらった野菜と豆、それに少量の肉。
根菜は柔らかく煮え、豆は指で潰せるほどになっている。
銀狼はいつもの場所で鍋を見ていた。
「あなたの分もあります」
尻尾が動く。
翼竜は小屋の屋根で日向ぼっこをしている。
スライムは専用の寝床。
今日は輪郭の崩れもあまり進んでいない。
小屋の前には、村から来たガイルと老人が座っていた。
「うまそうだなあ」
ガイルが鍋を覗き込む。
「まだです」
「銀狼と同じこと言われた」
「同じ顔してますから」
「俺、狼と同じ扱いか?」
「待てないところは」
老人が笑った。
食事が完成すると、それぞれの器へ分けた。
ガイルと老人。
リリィ。
銀狼。
翼竜。
もちろん量や中身は少しずつ違う。
食べる必要のないスライムには食事を置かない。
代わりに寝床の布を新しくした。
「いただきます」
リリィが食べ始める。
豆のほくほくした食感。
よく煮込まれた根菜の甘み。
肉の出汁がスープへ染みている。
「うまいな」
ガイルが言う。
「村でも作れそうですか?」
「ああ。今度嫁に教える」
「塩は入れすぎないでくださいね」
「それも言うと思った」
笑い声が森へ響く。
水もある。
食べ物もある。
疲れたら休める場所もある。
無理に予定を詰める者はいない。
誰かが具合を悪くする前に、互いに気づく。
リリィにとっては、もう特別なことではなかった。
*
夕方近く。
バルガスたちは、ようやく森の入口と呼ばれる場所へ到着した。
「ここか……」
バルガスは額の汗を拭った。
服には泥がつき、靴も汚れている。
マリアンヌは近くの岩へ座り込んだ。
クラリッサも疲れきっている。
エドガーは相変わらず腹を押さえていた。
護衛たちだけが周囲を警戒している。
ここから先は木々がさらに深い。
光も少ない。
獣の鳴き声が遠くで聞こえる。
バルガスは森を睨んだ。
「馬車も入れず、水場も分からず、歩くだけでもこれほど時間がかかるとは」
「一度野営の準備を――」
護衛隊長が言いかける。
バルガスは首を振った。
「必要ない。すぐ見つける」
「根拠は?」
「十一歳の娘だぞ」
当然のように答える。
「こんな場所で、一人で暮らせるはずがない。どうせ森の浅いところで、助けを待っている」
その時。
護衛の一人が声を上げた。
「隊長」
「どうした」
「これを」
全員が足元を見る。
柔らかな土の上に、大きな足跡が残っていた。
狼のものに似ている。
ただし。
「……大きすぎないか?」
エドガーが呟いた。
一つの足跡だけで、人間の顔ほどある。
しかも新しい。
まだ土が崩れていない。
護衛隊長がしゃがみ込み、慎重に確認する。
「大型の魔獣です」
「どのくらいだ」
「少なくとも、普通の狼ではありません」
さらに視線を先へ向ける。
同じ足跡が。
一つ。
二つ。
三つ。
森の奥へ続いていた。
バルガスは初めて、口を閉ざした。




