↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/33

第19話 伯爵家、お金がなくなり始める

 アークライト伯爵家から、金が消えていた。


 治癒術師への支払い。


 魔獣の治療費。


 壊れた厩舎の修繕費。


 辞めた使用人の代わりを雇うための費用。


 さらに領内では、管理の行き届かなくなった水路や街道の補修まで重なっていた。


「……また増えているではないか」


 バルガスは執務机に広げられた帳簿を睨んだ。


 家令が向かい側で頭を下げている。


「今月分の支出でございます」


「それは分かっている。なぜ先月より多い!」


「治癒術師を呼ぶ回数が増えております。それと、西の飼育舎の修理がまだ終わっておりません」


「直したばかりだろう」


「黒牙牛が再び壁を壊しました」


 バルガスの眉間に皺が寄る。


「拘束魔法を使え」


「常時使えば術者が必要になります」


「なら雇え」


「その費用も、こちらに」


 家令が帳簿の一行を指した。


 バルガスは黙った。


 数字が並んでいる。


 どれも決して小さくない。


「では餌を減らせ」


「すでに減らした結果、一部の魔獣はさらに体調を落としております」


「高価な餌をやっていたのだから、多少減らしても問題ないだろう」


「種類によって必要量が違うようで……」


「なら管理人に考えさせろ」


「その管理人も三日前に辞めました」


「なぜだ!」


 家令が一瞬だけ視線を下げた。


「前任者の解雇以降、厩舎の負担が増えています。夜間の見回りも多く、交代要員が足りません」


「給金を払っているだろう!」


「ですが、すでに二名が体調を崩しております」


 バルガスは椅子へ深く座り直した。


 また体調不良。


 また人手不足。


 また金。


 問題を一つ処理するたび、別の問題が出てくる。


 以前はこんなことはなかった。


 そう考えたところで、机の端に置いてある小さな帳面が目に入った。


 リリィのものだ。


 まだ捨ててはいなかった。


 そこには魔獣の状態だけでなく、水桶の交換日、餌の量、運動不足、使用人の体調まで記されている。


 今になって読み返せば、屋敷で起きている問題の多くが、かなり前から兆候を見せていたことが分かる。


「……あの娘さえ戻れば」


 バルガスが呟いた。


 家令が顔を上げる。


「旦那様?」


「何でもない」


 バルガスは帳面を閉じた。


 だが、考えは消えなかった。


 リリィを戻す。


 それだけでいい。


 以前のように魔獣を見させる。


 使用人の体調も確認させる。


 食事にも口を出させればいい。


 そうすれば治癒術師へ払う金も減る。


 魔獣も暴れなくなる。


 屋敷は元に戻る。


 単純な話ではないか。


「捜索はどうなっている」


 バルガスが尋ねた。


「森へ向かわせた者たちですか」


「他に何がある」


「これまでに三組入っております。ただ、まだ発見には至っておりません」


「何週間かかっている!」


「森は広く、魔物も多いため……」


 家令は新しい書類を差し出した。


「それと、追加の捜索を行う場合の費用でございます」


 バルガスが受け取る。


 顔が引きつった。


「何だ、この額は」


「護衛費、馬車、食料、それに危険手当です」


「ただ森へ入るだけだろう!」


「先日の組は魔物に遭遇し、護衛が一人負傷しております」


「治癒魔法を使えばいい」


「その治療費も含まれております」


 また金だった。


 何をしても金がかかる。


 バルガスは書類を机へ放った。


「役立たずどもめ」


 家令は黙っていた。


 リリィを森へ捨てた時には、馬車一台で済んだ。


 それを探して連れ戻すだけなのに、なぜこれほど面倒なのか。


「村に聞き込みは?」


「しております。ただ最近、森の奥へ入る者自体が少なく……」


「賞金を出せ」


「旦那様」


「リリィを見つけた者に金を出す。そう言えば村人も動くだろう」


「その賞金をどちらから出しましょう」


 バルガスは言葉を失った。


 家令が帳簿を示す。


「今月は税収の一部を先に修繕費へ回しております。来月には商人への支払いもございます」


「では借りろ」


「すでに短期の借り入れがございます」


「……いつからだ」


「先月です」


 知らなかった。


 いや、報告は受けていたのかもしれない。


 だが、バルガスは細かな金の動きまで気にしたことがなかった。


 アークライト伯爵家なのだ。


 金など必要になればあるものだと思っていた。


「下がれ」


 低い声で命じる。


 家令は一礼し、部屋を出た。


 一人になると、バルガスは再び帳簿を開いた。


 以前なら気にしなかった数字が、今は重く見える。


 治療。


 修理。


 人件費。


 借入。


 そのすべてが、少しずつ家を削っている。


 扉が開いた。


「あなた」


 マリアンヌだった。


「今度は何だ」


「街道沿いの農家から苦情が来ているわ」


「私に言うな。管理官にやらせろ」


「その管理官が、予算がないと言っているのよ」


 バルガスは額を押さえた。


「水路の一部が詰まったらしいわ。放っておけば畑に影響が出るそうよ」


「なら直せ!」


「だから、お金がないの」


「誰も彼も金の話ばかりしおって!」


 マリアンヌが黙った。


 その顔にも疲れがにじんでいる。


「……リリィを連れ戻すの?」


「当然だ」


「見つかったとして、あの子が戻ると思う?」


 バルガスは怪訝な顔をした。


「何を言っている」


「森へ捨てたのよ」


「追放しただけだ」


「十一歳の子を、一人で」


「だから何だ」


 マリアンヌが息を吐いた。


「謝らないと、帰ってこないかもしれないわ」


「謝る?」


 バルガスは本気で意味が分からないという顔をした。


「なぜ私が謝る必要がある」


「あなた……」


「伯爵家が育ててやった娘だぞ」


 机の上の帳面を指で叩く。


「しかも、これだけの能力を持っている。それを家のために使わせるのは当然だ」


「でも、追い出したのは私たちよ」


「間違いだったなら訂正すればいい」


 バルガスにとって、それで終わる話だった。


 価値がないと思ったから追放した。


 価値があると分かった。


 なら戻す。


「伯爵家の娘なら、伯爵家のために働くべきだ」


 マリアンヌは何も言わなかった。


 その沈黙を、バルガスは同意と受け取った。


     *


 翌朝。


 バルガスは残っている資金を確認させた。


 余裕はない。


 それでも、もう探索を人任せにしている時間もなかった。


「馬車を用意しろ」


 家令が驚く。


「旦那様ご自身が?」


「私が行く」


「森は危険です」


「だから護衛を雇う」


「費用が――」


「分かっている!」


 バルガスが怒鳴る。


 これ以上金を失う前に、リリィを連れ戻す方が安い。


 そう判断した。


 護衛。


 食料。


 馬車。


 最低限の使用人。


 かなりの出費にはなる。


 それでも最後の投資だ。


「リリィを連れ帰れば取り戻せる」


 治療費も。


 魔獣管理費も。


 屋敷の混乱も。


 全部元に戻る。


 バルガスはそう信じていた。


 その日の午後、アークライト家の紋章を掲げた馬車が屋敷を出た。


     *


 同じ頃。


 リリィは森の小屋の前で、目を丸くしていた。


「……これ、全部ですか?」


「もちろん」


 村から来た男が笑う。


 荷車には山ほどの食べ物が積まれていた。


 じゃがいもに似た根菜。


 葉野菜。


 卵。


 小麦粉。


 燻製肉。


 乾燥豆。


 果実。


 さらに大きな瓶に入った蜂蜜まである。


「こんなにいただけません」


 リリィは慌てた。


「ガイルを助けてもらった礼だけじゃないよ」


「え?」


「森へ入る連中が、あんたたちのおかげで前より安心して歩けるようになったんだ」


 別の村人が続ける。


「薬草採りの婆さんも、あの銀狼が近くにいると魔物が寄ってこないって言ってたぞ」


 少し離れた場所では、銀狼が尻尾を振っている。


 翼竜は荷車の匂いを嗅ごうとして、リリィに止められていた。


「まだ食べちゃ駄目です」


 翼竜が不満そうに顔を上げる。


 村人たちが笑った。


「それに、リリィちゃんのスープの作り方を教えてもらってから、うちの爺さんもよく食うようになった」


「俺んところもだ」


「だから、お礼だよ」


 リリィは荷車を見る。


 屋敷にいた頃、自分には硬いパンと薄いスープしか与えられない日もあった。


 今は違う。


 何かを奪ったわけではない。


 誰かを命令したわけでもない。


 自分ができることをしたら、別の誰かができることを返してくれた。


「……ありがとうございます」


 リリィは深く頭を下げた。


「大切に使います」


 村人たちが帰ったあと、小屋の棚は初めて食材でいっぱいになった。


 銀狼と翼竜の食事にも余裕ができる。


 スライム用の清潔な布を洗う石鹸も分けてもらった。


 リリィは棚を見上げた。


「ずいぶん増えましたね」


 森へ追放された日には、小さな鞄一つしか持っていなかった。


 それが今では。


 食べ物がある。


 家がある。


 助け合える人たちがいる。


 そして、家族がいる。


 銀狼が足元へ寄ってくる。


 翼竜も反対側から顔を出した。


 少し離れた寝床では、スライムの輪郭が小さく揺れている。


 リリィは笑った。


「今日のご飯、少し豪華にしましょうか」


 銀狼の尻尾が勢いよく動いた。


 伯爵家から金が消えていく一方で。


 森の小さな家は、少しずつ豊かになり始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。