第17話 頑張れば救えると、思っていた
翌朝、リリィは小屋を出ると、真っ先にスライムのところへ向かった。
「食べてくれたかな……」
昨日作ったのは、今の自分に考えられる限りの食事だった。
根菜。
果実。
肉から取った出汁。
水分。
そして、この森でも特に魔力の強い木の実。
前世で学んだ栄養の知識と、この世界で知った魔力の性質を組み合わせた、スライム専用の完全食。
今度こそ何か変化がある。
そう思っていた。
だが、木陰へ着いたリリィの足が止まった。
「……食べてない」
皿には、昨日の食事がほとんどそのまま残っている。
それだけではなかった。
リリィはスライムへ近づいた。
「昨日より……」
輪郭が崩れている。
最初から不定形な身体ではあった。
それでも以前は、丸みを帯びた形を何とか保っていた。
今は身体の一部が地面へ広がり、縁が泥のように溶けかけている。
「悪くなってる?」
胸がざわついた。
銀狼と翼竜も小屋から出てくる。
二匹とも、いつものようにスライムから少し離れた場所で止まった。
「何が駄目だったんだろう」
リリィは皿を見る。
量だろうか。
味だろうか。
魔力が足りなかった?
それとも逆に、多すぎた?
「もう一度考えましょう」
食事を回収し、小屋へ戻った。
帳面を開く。
今まで与えたものを、最初から確認した。
甘い果実。
水分の多い実。
柔らかく煮た根菜。
魔力を含む木の実。
薄いスープ。
そして昨日の完全食。
どれも食べない。
「なら、もっと食べやすくすれば……」
今日はさらに形をなくした。
食材を煮込み、細かく潰し、ほとんど液体になるまで伸ばす。
スライムなのだから、固形物を食べる必要がないのかもしれない。
出来上がったものを、再び木陰へ運ぶ。
「これはどうですか?」
皿を置く。
待つ。
スライムは動かない。
「もう少し近くに置きますね」
距離を縮める。
それでも反応はなかった。
「味が嫌なのかな」
午後には果実の割合を増やした。
夕方には別の魔力の実を試した。
翌朝には、さらに水分を多くした。
けれど何も変わらなかった。
むしろ、スライムの身体は少しずつ崩れていった。
そのたびにリリィは新しい方法を考えた。
「もっと魔力が必要なのかもしれません」
魔力の強い木の実を増やす。
「量が足りない?」
少し多めに置く。
「匂いが分からないのかな」
香りの強い果実を混ぜる。
何をしても食べない。
それでもリリィはやめられなかった。
「まだ何かできるはずです」
口にした瞬間だった。
頭の奥で、同じ言葉が響いた。
『まだできます』
リリィの手が止まった。
白い廊下が見える。
前世の記憶。
夜なのか朝なのかも分からないほど明るい建物の中。
大人だった自分が歩いている。
身体は重い。
目の奥が痛い。
足もむくんでいる。
それでも、誰かに呼ばれるたびに走っていた。
『もう帰った方がいいですよ』
誰かに言われた。
『大丈夫です』
そう答えた。
『でも、昨日からほとんど寝てないでしょう』
『まだできますから』
患者がいる。
苦しんでいる人がいる。
なら、自分が休んでいる場合ではない。
もっとできる。
もっと頑張れば。
もっと救える。
そんなふうに考えていた。
「……違う」
リリィは小さく首を振った。
今は前とは違う。
ちゃんと休んでいる。
銀狼と翼竜にも無理をさせていない。
だから同じではない。
目の前のスライムへ視線を戻す。
身体の輪郭が、また少し崩れているように見えた。
胸が締めつけられる。
「この子は、まだ良くなっていません」
だから方法を探す。
それだけだ。
「私が見つけてないだけです」
もっと調べればいい。
もっと考えればいい。
銀狼も助かった。
翼竜だって飛べるようになった。
この子だけ無理なはずがない。
リリィはまた食事を作った。
その日の夕方。
銀狼が小屋の入口に座り、じっとこちらを見ていた。
「もう少しだけです」
鍋を混ぜながら答える。
銀狼は動かない。
「今日はちゃんと休みましたよ」
翼竜も銀狼の横にいる。
「大丈夫です」
そう言ってから、リリィは再び手を止めた。
大丈夫。
前の自分も、ずっとそう言っていた。
リリィは鍋から手を離した。
外を見る。
スライムは今日も来ている。
あの子は食事を求めていない。
それでも毎朝やってきて、リリィを見ている。
「一度、ちゃんと診てみよう」
今までとは違うやり方で。
食べ物から考えるのではなく、この子の身体そのものを見る。
リリィは清潔な布を持って外へ出た。
スライムのそばへしゃがむ。
「触ってもいいですか?」
返事はない。
「嫌だったら離れてくださいね」
ゆっくり手を伸ばす。
これまでは無理に触れようとしなかった。
警戒していると思っていたからだ。
だがスライムは逃げなかった。
リリィの指先が身体へ触れる。
「……冷たい」
驚くほど冷たかった。
銀狼を初めて触った時も身体は冷えていた。
けれど、あの時とは違う。
温度が低いのではない。
温かくなる力そのものが、存在しないような冷たさだった。
リリィは慎重に身体の表面を探った。
「どこかに核があるはず……」
スライムには普通、身体を動かす魔力核があると聞いたことがある。
だが、この子からはその脈動が感じられない。
「え……?」
もう一度。
場所を変える。
何もない。
リリィは自分の手首へ指を当てた。
とくん。
とくん。
自分の脈は分かる。
銀狼の身体へ触れれば、もっと速い鼓動がある。
翼竜にもある。
この子には。
「……ない」
呼吸も見てみる。
身体のどこかが膨らんだり縮んだりしているのか。
空気を取り込む動きがあるのか。
待つ。
さらに待つ。
何もない。
魔力の流れも感じられない。
なのに動いている。
毎朝、ここへ来る。
リリィを見る。
それだけはする。
「どうして……」
頭の奥で、別の知識がつながった。
アンデッド。
この世界には、死んだ生き物が魔力や呪いの影響で動き続けることがある。
骨だけの兵士。
死霊。
腐った獣。
そして、ごくまれに。
死者の残留思念を取り込み、形を変えた魔物。
リリィはスライムを見つめた。
濁った腐敗色。
崩れていく身体。
食事を一度も取らない。
心臓の音も。
呼吸も。
生命を維持する魔力の循環もない。
「この子……」
声が震えた。
「生きて、ない?」
言葉にしたくなかった。
けれど、もう分かってしまった。
この子は病気なのではない。
栄養が足りないのでもない。
食べ方が分からないのでもない。
すでに死んでいる。
死者なのだから、食べ物で生命を取り戻すことなどできない。
リリィはその場に座り込んだ。
目の前には、何日も試し続けた皿。
食材。
帳面。
工夫した記録。
全部が急に違う意味を持って見えた。
「私……」
唇から言葉が漏れる。
「この子を治そうとしてた」
銀狼が静かに近づいてきた。
翼竜もその後ろにいる。
リリィは俯いた。
「治らないのに」
もっと栄養を。
もっと魔力を。
もっと良い方法を。
食べない理由を考え続けた。
自分の工夫が足りないと思った。
でも違った。
最初から、食事で治る相手ではなかった。
「私が足りなかったんじゃない」
それを認めた瞬間、胸の奥が痛んだ。
前世でも、同じだったのかもしれない。
救えなかった人がいた。
どれだけ手を尽くしても、良くならない人がいた。
それでも自分は、
もっとできたはず。
もっと頑張れば。
自分が休まなければ。
そうやって、自分を追い込み続けた。
誰かを救うためだと思っていた。
けれど本当は。
「救えないって、認めるのが怖かったんだ……」
リリィは自分の手を見る。
十一歳の、小さな手。
できることには限界がある。
前世の大人だった自分にだって限界はあった。
それを認めないまま、全部を抱えようとして壊れた。
そして今も。
同じことを、この子相手に繰り返しかけていた。
「ごめんなさい」
スライムへ言った。
「あなたが何をしてほしいのかも聞かないで、ずっと治すことばかり考えてました」
スライムは動かない。
「私が助けられる形に、あなたを当てはめようとしてたんですね」
何も返ってこない。
当然だった。
リリィは目元を拭った。
もう、食事を押しつけるのはやめよう。
治せない。
その事実から逃げない。
そう決めて立ち上がろうとした。
その時だった。
スライムの輪郭が揺れた。
「……?」
ゆっくり。
本当にゆっくりと。
崩れかけた身体が地面を這う。
リリィの方へ。
一度止まり、また少し進む。
「どうしたんですか?」
リリィは動かなかった。
スライムはとうとう足元まで来た。
そして、靴の先へ身体をそっと触れさせた。
「……え?」
治せない。
食事もいらない。
それなのに、この子は毎日ここへ来た。
自分を見ていた。
そして今、自分から触れてきた。
リリィはしゃがみ込んだ。
「もしかして……」
スライムの崩れかけた身体を見つめる。
「あなた、治してほしいんじゃない?」




