第18話 治せなくても、できることはある
リリィは、その日初めて「治療をやめる」と決めた。
スライムの前に置いていた食事を、すべて片づける。
何日も工夫して作った果実の煮汁も、魔力の強い木の実も、昨日完成させた完全食も。
「もう、食べなくていいです」
スライムは答えない。
いつものように、崩れかけた身体でリリィの足元にいる。
「あなたは病気じゃなかったんですね」
その事実を口にすると、胸はまだ痛んだ。
この子はアンデッドだ。
すでに生命活動を終えた存在で、食べ物を与えても身体が回復することはない。
銀狼や翼竜と同じ方法では救えない。
昨日までのリリィなら、そこで「では別の治し方を」と考えていたかもしれない。
けれど、それではまた同じことになる。
治せないものを、自分の努力が足りないせいだと思い込む。
もっと頑張ればと、自分も相手も追い込んでしまう。
「だから、治すのはやめます」
言葉にしてみる。
怖かった。
何もしないと言っているような気がしたからだ。
前世の自分なら、きっとそう感じただろう。
それでもリリィは、目の前のスライムを見つめた。
「でも、何もしないわけじゃありません」
治療できないことと、世話ができないことは同じではない。
その考えにたどり着いた時、前世の記憶が別の形で戻ってきた。
白い部屋。
静かに横たわる人。
もう治療によって元気になることはないと分かっている人にも、看護師だった自分は触れていた。
身体を清潔にする。
同じ場所ばかりに負担がかからないよう、姿勢を整える。
傷んだ場所を保護する。
本人が少しでも不快にならないよう環境を整える。
そして、亡くなったあとも身体を丁寧に扱った。
治すためではない。
最後まで、その人を一人の人間として扱うために。
「……そうだ」
リリィは顔を上げた。
「治せない人にも、していたことがありました」
スライムへ手を伸ばす。
「触りますね」
昨日と同じく、逃げない。
表面へそっと指を触れる。
冷たい。
やはり生き物の体温ではない。
けれど今日は、その冷たさを治そうとは思わなかった。
代わりに身体の状態を見る。
輪郭が特に崩れている部分。
地面へ接し続けている部分。
黒ずみが強い場所。
表面には土や枯れ葉も付着していた。
「まず、きれいにしましょう」
リリィは小屋から水と柔らかな布を持ってきた。
水は一度沸かし、冷ましてある。
強く擦れば身体そのものを傷つけそうなので、布へ水を含ませ、表面を軽く押さえるように汚れを取った。
一度拭く。
布の一部が茶色くなる。
「痛くないですか?」
返事はない。
少し場所を変える。
今度も逃げない。
「嫌なら離れてくださいね」
何度か布を交換しながら、泥や枯れ葉を取っていく。
すると、腐敗色の身体の中にも濃淡があることが分かってきた。
黒ずみの強いところ。
まだ形を保っているところ。
特に地面へ押しつけられていた下側は、輪郭が崩れやすい。
「ずっと同じ場所にいるのも、よくなさそうですね」
前世で覚えた言葉が浮かぶ。
褥瘡。
身体の同じ部分へ長く圧力がかかり続ければ、そこから組織が傷む。
スライムに人間と同じ仕組みがあるかは分からない。
だが、少なくとも地面と接している部分ほど崩れが強い。
「柔らかい場所を作りましょうか」
リリィは乾いた草を集めた。
ただし、銀狼たちの寝床のようにそのまま敷くのはやめる。
草の先が身体へ刺さらないよう布で包み、厚みを持たせる。
その上へ、スライムが移れるくらいの浅い木枠を置いた。
「これなら少し楽かな」
スライムを無理に持ち上げるのは怖い。
リリィは新しい寝床をすぐ隣へ置いた。
「こっちへ来られますか?」
動かない。
銀狼が横から覗き込む。
「押しちゃ駄目ですよ」
銀狼は座った。
翼竜まで後ろから首を伸ばしてくる。
「二匹とも、近すぎです」
少し下がらせる。
リリィは再びスライムへ目を向けた。
「急がなくていいですよ」
そう言って待つ。
しばらくすると。
スライムの身体が、わずかに揺れた。
「あ」
ゆっくり。
本当にゆっくりと、木枠の方へ動く。
少し進んでは止まる。
リリィは手を出さなかった。
時間をかけて、スライムは布の上へ身体を移した。
「できましたね」
輪郭が柔らかな布の上へ落ち着く。
リリィは思わず笑った。
「こっちの方がいいですか?」
もちろん答えはない。
それでも、すぐに元の場所へ戻ろうとはしなかった。
次にリリィは、銀狼と翼竜の寝床から少し離れた場所へスライム専用の場所を作った。
食事を分けるのと同じだ。
身体が腐敗している以上、何かが他の魔物へ影響する可能性を完全には否定できない。
使う布も分ける。
水を入れる器も別。
世話をしたあとは手をよく洗う。
「嫌だから離すんじゃありませんよ」
スライムへ説明する。
「みんなが安全に一緒にいるためです」
その日の午後は、ほとんど食事を作らなかった。
代わりに何度かスライムの状態を確認した。
崩れた部分が急に広がっていないか。
身体の下側に強い圧力がかかっていないか。
汚れが付着していないか。
できるのは、それだけだった。
身体が元通りになるわけではない。
黒ずんだ部分も消えない。
命が戻ることもない。
それでも夕方になって見ると、朝より輪郭が安定しているように見えた。
「……少なくとも、悪くはなってない」
その程度だった。
銀狼の傷が塞がった時のような劇的な変化はない。
翼竜が翼を広げられた時のような分かりやすい成果もない。
なのにリリィは、不思議と落胆しなかった。
「これでいいんですね」
治すのではない。
今ある形を、できるだけ保つ。
この子がこの子のままでいられるよう支える。
それなら、自分にもできる。
リリィが立ち上がる。
その時。
ぽよん。
スライムの輪郭が、小さく震えた。
「……?」
リリィが振り返る。
もう一度。
ぽよん。
「今、動きましたよね?」
試しに一歩離れる。
足音。
スライムの輪郭が震える。
もう一歩。
また震えた。
「私の足音?」
少し遠回りして歩いてみる。
銀狼が何をしているのかと首を傾げる。
翼竜も同じ顔をしている。
リリィが戻ってくると、スライムの身体がわずかに前へ傾いた。
それは偶然とは思えなかった。
「分かるんですね」
言葉は通じない。
顔もない。
嬉しいのか、悲しいのかも分からない。
それでも、この子はリリィが来たことだけは分かっている。
だから毎朝、小屋へ来ていたのかもしれない。
食事が欲しかったわけではない。
治してほしかったわけでもない。
ただ、ここに来たかった。
「そっか」
リリィはスライムの隣へ座った。
「治すことだけが、お世話じゃないんですね」
スライムの輪郭が、また小さく揺れた。
*
翌朝。
リリィは銀狼と翼竜のために作った育成表を広げていた。
走る距離。
飛ぶ時間。
食事量。
休養日。
これまでは、少しずつ数字を増やしていた。
昨日より遠く。
昨日より長く。
もう少し強く。
健康にするための計画だったはずなのに、いつの間にか「もっとできる」を追いかけ始めていたことに気づく。
「これも変えましょう」
帳面へ書き込んだ距離を消す。
銀狼が覗き込む。
「毎回記録を伸ばす必要はありません」
翼竜にも言う。
「疲れていたら休みます。その日の身体を見て決めます」
銀狼には森を走ることが好きな日がある。
翼竜には空を飛びたがる日がある。
逆に眠そうな日もある。
なら、それを無視して予定通り運動させる必要はない。
「強くするんじゃなくて、元気に暮らせる身体にしましょう」
銀狼が尻尾を振った。
翼竜も小さく翼を広げる。
「今日はどうします?」
銀狼は森の方を見る。
走りたいらしい。
翼竜はその場へ伏せた。
「あなたは休みたいんですね」
翼竜が目を閉じる。
「じゃあ、それでいいです」
リリィは笑った。
同じ方法でなくていい。
同じ速さでなくていい。
治る子もいる。
治らない子もいる。
それでも、それぞれに必要なことはある。
ようやく少し分かった気がした。
その日の夜。
リリィは小屋の前に座り、スライムの身体を拭いていた。
銀狼は足元で眠っている。
翼竜も屋根の上で翼を休めていた。
森は静かだった。
風が枝を揺らし、遠くで虫が鳴いている。
その時。
銀狼が突然、顔を上げた。
「どうしました?」
耳が街道の方を向いている。
リリィも立ち上がった。
木々の間から、かすかな光が見えた。
一つではない。
二つ。
三つ。
いくつもの灯りが、森へ向かって近づいてくる。
「馬車……?」
こんな時間に複数の馬車が来るのは珍しい。
リリィは目を凝らした。
先頭の馬車に掲げられた旗が、夜風に開く。
その紋章を見た瞬間、身体が固まった。
何年も毎日のように見ていた。
忘れるはずがない。
アークライト伯爵家の紋章だった。




