第14話 怪我人には、温かいご飯です
怪我人に必要なのは、治癒魔法だけではない。
少なくともリリィは、そう思っていた。
「……本当に、先に飯なのか?」
寝床に横になった旅人が、不思議そうに尋ねる。
「はい」
リリィは鍋へ水を注ぎながら答えた。
「出血していますし、昨日からほとんど食べていないんですよね?」
「まあ……」
「だったら、身体を動かす材料が足りません」
「材料?」
「元気になるための、です」
旅人は納得したような、していないような顔をした。
彼の名はガイルというらしい。
森の向こう側にある村へ商品を届ける途中、野生の魔獣に襲われたという。
右脚には深い傷があり、骨にも問題がある可能性がある。
幸い出血は止まっていた。
熱も今のところない。
だから次は、身体を休ませるための食事だった。
「治癒魔法は?」
ガイルが聞く。
「私は使えません」
「……使えない?」
「はい」
ガイルは目を丸くした。
自分の脚を見る。
きれいに巻かれた布。
添え木。
その横には、水の入った器まで置かれている。
「じゃあ、これ全部」
「私です」
「十一歳くらいだろ、君」
「十一歳です」
「そうか……」
ガイルは何かを諦めたように天井を見た。
「最近の子供はすごいんだな」
「たぶん、私だけだと思います」
リリィは真面目に答えた。
銀狼が暖炉の前で鼻を鳴らした。
翼竜はその隣で鍋を見ている。
「あなたたちの分じゃありませんよ」
二匹の視線が同時にリリィへ向いた。
「朝、食べたでしょう?」
銀狼が鍋を見る。
翼竜も鍋を見る。
「怪我人のご飯です」
ようやく二匹は諦めたらしい。
もっとも、鍋からいい匂いが漂い始めると、銀狼の鼻だけは忙しく動き続けていた。
今日は人間用だ。
干し肉は細かく刻み、一度湯に通して余分な塩気を抜く。
森で採った根菜は、小さく切った。
黄色い実は少量だけ。
香りの優しい薬草も刻む。
鍋の中で肉を煮ると、透明だった湯へゆっくり旨味が溶けていった。
そこへ根菜を加える。
白い根。
橙色の実。
柔らかな緑の葉。
煮込むほど角が取れ、スープへほのかな甘い香りが広がった。
「いい匂いだな」
ガイルが言う。
「食欲あります?」
「さっきから腹が鳴ってる」
「それなら大丈夫そうですね」
リリィは少し安心した。
食欲は重要だ。
身体が食事を受け付けるなら、回復のために使えるものが増える。
ただし、怪我をした直後に重い料理は避ける。
脂を増やしすぎない。
塩も控えめ。
身体が弱っている時は、食べられることを優先する。
根菜が指で簡単につぶれるほど柔らかくなったところで、リリィは最後に香草を散らした。
湯気と一緒に穏やかな香りが立ち上る。
「できました」
木の器へ注ぐ。
琥珀色のスープの中に、細くほぐれた肉と柔らかな野菜が沈んでいる。
ガイルが身を起こそうとした。
「待ってください」
リリィが止める。
「脚は動かさないでください。背中を起こしますね」
丸めた布を背中へ入れ、無理のない姿勢まで上体を起こす。
器を渡した。
「熱いのでゆっくりです」
「ああ」
ガイルがスプーンですくった。
まずスープだけを口へ入れる。
しばらく何も言わなかった。
リリィは少し不安になった。
「味、薄すぎます?」
「いや」
もう一口。
今度は柔らかく煮た肉も一緒に。
「……うまい」
「本当ですか?」
「ああ」
ガイルは少し笑った。
「すごくうまい」
派手な味ではない。
伯爵家で出ていたような大量の香辛料も、上等な肉も使っていない。
それでも肉の旨味と根菜の甘さが染み出した温かな汁が、疲れた身体へゆっくり入っていく。
柔らかく煮えた根菜は、ほとんど噛む必要もない。
ガイルは一口ずつ、時間をかけて食べた。
「急がなくていいですよ」
「分かってる」
そう返しながらも、スプーンは止まらない。
半分ほど食べたところで、ガイルがふと顔を伏せた。
「どうしました?」
「いや」
鼻をすすった。
「熱かったですか?」
「違う」
ガイルは目元を乱暴に拭った。
「こういう飯、久しぶりでな」
リリィは首を傾げた。
「温かいものですか?」
「俺みたいな行商人は、外じゃ干し肉とパンばっかりだ。村に着いても、腹に入れば何でもいいって食い方をしてる」
スープを見る。
「これは、俺が怪我してるから作ったんだろ?」
「はい」
「食べやすいように?」
「そうです」
「塩も?」
「出血していますし、喉も渇いていましたから、強くしすぎない方がいいと思って」
ガイルがまた黙った。
「……そうか」
味そのものだけではない。
自分の身体のために考えられた食事。
そのことが嬉しいのだと、リリィにも少し分かった。
屋敷にいた頃は、食卓に豪華な料理が並んでいた。
けれど誰が何を必要としているのかなど、ほとんど考えられていなかった。
たくさんあることと、大切にされることは、同じではないのかもしれない。
「おかわりはあります」
リリィが言う。
ガイルが顔を上げた。
「いいのか?」
「少しだけなら」
「頼む」
「でも、食べすぎは駄目です」
「そこは厳しいな」
「怪我人ですから」
ガイルが笑った。
その横で銀狼と翼竜が期待するように鍋を見る。
「あなたたちは駄目です」
二匹そろって顔を逸らした。
*
ガイルが小屋で休むようになって二日目。
熱は出なかった。
傷も悪化していない。
自分で身体を起こせるようになり、顔色も良くなっている。
ただし右脚にはまだ体重をかけさせなかった。
「村へ帰れるのは、まだ先ですね」
「心配してるだろうな」
「ご家族ですか?」
「いや。村の連中だ。いつも荷を届けてるから、道で何かあったと思ってるはずだ」
その言葉通り、その日の午後。
銀狼が突然立ち上がった。
森の入口へ顔を向ける。
「誰か来ます?」
翼竜も同じ方向を見る。
しばらくすると、人の声が聞こえた。
「ガイルー!」
「どこだ!」
「返事しろ!」
三人ほどの男が、棒や農具を持って森を進んでくる。
「迎えですね」
リリィは小屋を出た。
「こちらです!」
声を上げる。
男たちが気づいた。
「子供?」
一人が足を速める。
その直後。
リリィの後ろから銀狼が姿を現した。
三人が同時に止まった。
「……な」
黒い靄をまだわずかにまとった大きな銀狼。
赤い瞳。
さらに小屋の屋根から翼竜が降りてくる。
黒紫色の翼を広げた。
「魔物だ!」
一人が農具を構える。
「待ってください!」
リリィが銀狼の前へ出た。
「この子たちは何もしません!」
「退け! 襲われるぞ!」
「違います!」
騒ぎを聞きつけ、ガイルが小屋の中から声を上げた。
「おい!」
三人が振り向く。
「ガイル!」
「生きてたのか!」
「その魔物から離れろ!」
ガイルは壁へ身体を預け、片脚を浮かせながら入口まで出てきた。
「逆だ」
「何がだ?」
「こいつらが俺を助けたんだよ」
三人が黙った。
「……何?」
「森で倒れてた俺を、この子とそいつらが運んでくれた」
ガイルがリリィと銀狼、翼竜を順番に指す。
「傷の手当てもしてくれた。飯まで食わせてもらった」
一人が銀狼を見る。
銀狼は何もせず、リリィの横に座っている。
翼竜も翼を畳んだ。
「本当に……?」
「ああ。だから武器を下ろしてくれ」
三人は顔を見合わせた。
最初に農具を構えた男が、ゆっくりそれを下げる。
それでも魔物から目は離さない。
「その子が、治したのか?」
「治してはいません」
リリィは答えた。
「傷を洗って、血を止めて、動かないようにしただけです。脚はまだきちんと診てもらった方がいいと思います」
「それでも十分だ」
ガイルが言った。
「俺一人だったら、あそこで死んでた」
その言葉に、リリィは少しだけ困った。
何と答えればいいのか分からない。
村人の一人が帽子を脱いだ。
「……ありがとう、お嬢ちゃん」
リリィは瞬きをした。
「え?」
「ガイルを助けてくれて」
もう一人も頭を下げる。
「本当にありがとう」
聞き慣れない言葉ではない。
ミーナにも言われたことがある。
けれど、こんなふうに真正面から感謝されたことは、ほとんどなかった。
屋敷では。
水を替えれば、余計なこと。
食事について言えば、口を出すな。
怪我を心配すれば、魔法も使えないくせに。
そう言われてきた。
同じことをしているだけなのに。
ここでは。
「……どういたしまして」
少し遅れて答えた。
胸の奥が温かくなる。
「でも、この子たちも手伝ってくれました」
銀狼の頭へ手を置く。
「なので、二匹にも言ってあげてください」
三人の顔が再び引きつった。
「こ、この魔物にも?」
「はい」
「……ありがとう?」
恐る恐る言う。
銀狼の尻尾が一度、地面を叩いた。
村人たちはさらに驚いた。
*
ガイルを村へ戻すことになった。
村人たちが簡単な担架を用意し、交代で運ぶ。
「脚に体重をかけないでくださいね」
「分かった」
「帰ったらちゃんと診てもらってください」
「分かったって」
「傷が熱を持ったり、赤く腫れたりしたら――」
「リリィ」
ガイルが笑う。
「うちの母ちゃんより細かいぞ」
「大事なことです」
「はいはい」
森の入口まで見送るつもりだった。
ところが銀狼が当然のようについてくる。
翼竜まで頭上を飛び始めた。
「あなたたちも行くんですか?」
銀狼の尻尾が揺れる。
「村までですよ?」
銀狼は前を向いた。
帰るつもりはないらしい。
ガイルが笑った。
「護衛してくれるんじゃないか?」
「必要ありませんよ。村の人もいますし」
それでも銀狼は離れなかった。
翼竜も上空を旋回している。
「……仕方ありませんね」
一行は森を出た。
先頭には村人。
担架の上にはガイル。
その横を十一歳の少女と巨大な銀狼が歩き、頭上には黒紫色の翼を持つ竜。
村が見えてきた。
「あれが俺たちの村だ」
ガイルが指さす。
入口では、帰りを待っていたらしい人々が集まっている。
誰かがこちらへ気づいた。
「ガイルだ!」
歓声が上がる。
だが。
その直後。
「……待て」
銀狼が見えた。
翼竜も見えた。
歓声が一瞬で消える。
「魔物だ!」
「門を閉めろ!」
「子供が襲われてるぞ!」
村の入口が、一気に大騒ぎになった。




