第五話 氷の国の朝
一日目の朝は、締め切りだった。二日目の昼は、ただの空白だった。そして三日目の朝は、音から始まった。遠くの空を叩く、鈍い回転の音。最初にそれを拾ったのは高梨で、雪洞の口に耳をつけたまま、肩で息をした。
「……来る」
北村は体を起こし、入口の縁を手袋で崩した。冷気が新しく入り、白い光が鋭くなる。田代が装備袋を引き寄せ、真柴は急いで毛布を畳んだ。鍋の底にはもう湯気の名残しかない。寒さの粒は細かく、肌に触れるたび、指先の迷いを凍らせる。
外へ出る。三日ぶりに、空が空らしい顔をしていた。青と灰のあいだで揺れる天井は低い。雪面は風に櫛でといたような筋を見せ、その向こうで回転音が段々と大きくなる。ヘリか、雪上車か、判断はすぐついた。旋回の音に上下の揺れが混ざる。回転翼だ。
北村は肩から信号布を外し、両手を広げて振った。体重が軽くなったような錯覚が走り、すぐに膝に重みが戻る。田代は赤い煙筒を取り出し、火口をひねる。小さな火花が雪に飲まれかけ、次の瞬間、鮮やかな色が白を破った。赤い煙は風にちぎられ、ちぎれながら真上へと伸びる。
ヘリは高度を落とし、低く唸って尾根を越えた。雪面の粉が一斉に舞い上がる。白の砂嵐が彼らの視界を覆い、ゴーグルの内側で世界が粒になった。ローターの風が胸を叩く。頬の皮膚が引っ張られ、氷の味が口に入った。機体が彼らの上に停まり、サーチライトが降りる。光の柱の中、隊員が二人、ロープで滑り降りてきた。橙のヘルメット。黒い縁取りのゴーグル。無駄のない動き。
「生存者四、遺体一!」北村が叫ぶ。声は風に削られるが、手信号はきれいに通る。救助隊の一人が親指を立て、もう一人が担架を降ろした。動作の合間に、目が一瞬だけ北村の目と合う。その短い確認の合図が、言葉よりも長く続いた。
遺体は雪洞の口のそばに置いていた。北村が先に跪き、毛布の端を丁寧に畳んで脇に寄せる。顔は隠さない。隠さない、という行為を、救助隊員も察した。彼らの手は静かで、速かった。肩と腰を支え、雪面から持ち上げ、担架のベルトを交互に留める。金具が小さく鳴り、その音の清潔さに、真柴は一歩後ろに下がって呼吸を整えた。
「通信は?」救助隊の声がマスク越しに届く。
「壊れている。位置は予定ルート通りだ」
「よく保った」
その短い言葉が、褒め言葉にも慰めにもならないことを、互いに知っている。ここでは、生き延びたという事実以外の評価は薄くなる。生死の線は髪の毛より細く、その上を歩いた時間は数字にできない。
機内への収容は手順通りに進んだ。吹き上がる雪に視界を奪われながら、四人は背中を押され、フックに繋がった。真柴は梯子の縁に足を取られ、小さく息を呑む。高梨が腕を支え、彼女は頷いた。田代は最後に雪洞の中を一度だけ振り返った。鍋の銀色、空の器、整然とたたまれた毛布。その小さな秩序が、ここでの彼らの全てだった。
ヘリのドアが閉まり、音が内側の唸りに変わる。ベルトが体を固定し、ローターの振動が骨に移る。窓の外で、さっきまでの世界が名もなく遠ざかっていく。雪の谷筋、尾根、影。白は上空から見ると柔らかく見える。柔らかいものが硬いものを飲み込む光景は、綺麗だ。綺麗に見えるほど、内側の何かが痛む。
医療隊員が順に検温し、脈を数え、乾いた毛布を掛ける。点滴の針が皮膚に入ると、微かな熱が血の中に滲んだ。真柴は目を閉じ、まぶたの裏に、昨夜の手帳のページを重ねた。いちご。焼きそばパン。カレー。黒パン。誰かの好きな食べ物の並びは、今も整っている。
「遺留品は?」
北村は胸ポケットから小さな手帳を取り出し、医療隊員ではなく、救助隊のリーダーに渡した。「彼のだ。名前は佐久間。最後に、これだけは持っていてくれと……」語尾がほどけ、声が薄くなる。「届けたいところがある」
リーダーは手帳を受け取り、軽く頷いた。「預かる」
ヘリはベースへ向けて直線を描く。回転音が規則正しく耳に刺さる。機内の温度は徐々に上がり、凍った感覚が痛みに変わる。血が端まで戻ってくるその過程は、救いでもあり罰でもあった。指先がじんじんと痛み、頬の皮膚が痒くなる。痛みと痒みは、生きている証拠だと誰かが言った。証拠は証拠でしかない。意味は乗せられる。だが、今は重い。
着陸の衝撃が足先から背に抜け、世界が止まる。扉が開けば、冷気の代わりに人の声が流れ込んだ。ストレッチャー、ライト、白衣、問診票。四人は次々に室内へ運び込まれ、灯りの下で、順に名前を確認される。名前は簡単な儀式だ。名乗った瞬間に、体が少しだけ軽くなる。
「彼は」真柴が言う。「彼は、佐久間は」
「遺体は別室へ」看護師が優しく答える。「ご家族への連絡は、こちらで」
「手帳……」
「預かった」北村が短く言った。「あとで、読む」
ベースの食堂には、薄いスープの匂いが漂っていた。正午前、鍋の群れが一斉に湯気を上げる。救助された者の身体が温度を取り戻すのを待って、医療チームは指示した。「少しずつでいい。焦らないで」
金属のスプーンが器の縁を叩く音。マグカップの白い湯気。温度はゆっくり戻り、味覚も戻る。真柴は匙を持つ手を、意識して震えさせないようにした。カップから立つ湯気はここでも白いが、雪洞の白とは違った。人の気配が混じる白だ。
田代は机の上にノートを広げ、一行目に迷いなく書いた。
——三日目、生存四。救助完了。状態、維持。備考、感謝。
「全員無事、って書くなよ」高梨が苦笑に似た顔で言う。
田代はペン先を止め、少しだけ笑って首を横に振った。「……書かない」
書かないことでしか守れないものが、確かにある。言葉が真実を傷つけるとき、沈黙は真実の側につく。田代のノートに、白い余白が残った。余白は、ここでは嘘ではなかった。
夕方、管制棟の小さな会議室に四人が集められた。担当官が淡々と、経過の確認と必要な手続きを説明する。北村は頷き、短く答え、必要なところだけ視線を上げた。説明がひと区切りついたとき、担当官は小さな封筒を取り出す。
「預かり物だ。手帳。遺体のそばに」
北村は受け取り、封筒を破って中の小さな手帳を出した。角が丸く、紙は濡れて乾いた跡で波打っている。最終ページに小さな折り目があり、そこから破られた走り書きの紙が一枚、挟まっていた。北村は一度呼吸を置き、丁寧に広げる。視線が一か所に止まり、動かなくなる。
——みんなの朝食が、温かいものでありますように。
読むのに時間はかからなかった。理解に時間はかかった。短い文は、予想していた形をして、予想していない重さを持っていた。誰かの願いが「ありますように」という形で置かれていることに、北村は耐えられなかった。「しますように」ではないのだ。「ありますように」。望みは自分の手を少し離れ、風に乗っていた。
「……っ」
胸のどこかが急に熱くなって、北村は喉の奥で音を抑えた。目の前の文字が水に滲む。涙は温かい。温かさは短い。その短さに気づいた瞬間、頬を伝う筋が冷えた。手帳が震え、紙が小さく擦れる。
真柴は席に座ったまま、その紙を見ようとはしなかった。見れば、何かが確定してしまう。彼女は代わりに、自分の胸元にある、もう一冊の手帳を握った。ページの角が指に刺さる痛みを、今は信号のように受け取る。
「佐久間は」担当官が静かに言う。「立派だった」
北村は首を振った。「違う。彼は、普通だった。普通のまま、優しかった」
その言い方は、彼なりの最大の賛辞だった。英雄にしてはいけない。聖人にしてもいけない。普通の人間であることを、そのまま差し出した。その事実の前で、言葉はどれだけでも足りない。
夜、ベースの寝台の天井は低い。蛍光灯を落としてもなお、白色は残る。北村は横になってから何度か寝返りを打ち、起き上がって窓の外を見た。曇天は変わらず、太陽は顔を見せない。気象報告では翌日も同じ空が続くらしい。雪原に朝は来る。だが、太陽は昇らない朝もある。
鼻の奥に、あの薄いスープの匂いが残っていた。鍋の金属、塩、粉、湯気。匂いは記憶と繋がる。記憶は長い。北村は目を閉じ、長い記憶の入り口だけを息で温め、眠気のほうへと身体を傾けた。
翌日、簡単な会見が開かれた。発表用のパネルの前、記者たちのマイクが花のように開く。フラッシュの光は冷たいが、集める視線は熱い。北村は所定の位置に立ち、定型の言葉を口にした。関係者への感謝。救助隊の尽力。装備の反省。質問は事前に集められていたが、その場でも手が上がった。
「あなたたちは、何を食べて生き延びたんですか?」
沈黙が、マイクの群れの上に落ちる。短い間を置いてから、北村は答えを探すふりをやめた。ふりをやめると、言葉は少しだけ楽に出てくる。
「……優しさを、少しだけ」
質問者の手が下がり、背後の人垣がざわめきを飲み込む。言葉はきれいすぎる、という批判にも通じるだろうし、何も言っていない、という責めにも耐えるだろう。それでいい。この言葉は、説明ではなく、配分だった。ここで余った言葉は、あとで遺族に回す。
会見が終わり、人の波が引いた廊下で、真柴は窓の外を見ていた。曇天の向こう、雪原の白が遠くまで続く。彼女は胸の手帳を取り出し、最後のページを開く。空白の行の下、細い字で書き足す。
——朝食、二回。ひとつは雪洞、ひとつはベース。両方、温かかった。
ペン先が止まり、彼女はふっと笑った。涙の出ない笑い方。笑いは短い。短くても、ゼロではない。
田代は物資庫で装備のリストを作っていた。欠品、破損、交換。ペンはよく走り、紙は淡々と黒で埋まる。最後に一行だけ余白を残し、そこへゆっくりと書いた。
——全員無事、とは書かない。
高梨は外に出て、風の匂いだけを吸い込んだ。塩の匂いはしない。土の匂いも薄い。鉄の匂いは遠い。彼は目を閉じ、何もない匂いの中に、鍋の湯気を一滴だけ思い出した。舌に残らない味。温かいのに、残らない。残らないから、覚えている。
北村は管制棟の階段に一人座り、手帳を膝の上で閉じた。外の天井は相変わらず低く、太陽は気まぐれに顔を隠し続けている。ポケットから空のケースを取り出し、もう一度だけ唇に当てた。吸うふりをする。吐くふりをする。肺の奥に、何も入らない。何も入らなくても、少しだけ楽になる。
彼は立ち上がり、ドアを押して外へ出た。冷気が頬に触れる。頬はもう、凍らない。指先も、もう、凍らない。歩き出すと、足音が雪に沈んで消えた。消える音は静かで、静かさは、今は優しかった。
曇天のまま、空は明るい。太陽は昇らない。だが、どこかで誰かの鍋から、湯気が細く上がる。香りは薄く、朝のように漂っていく。誰の命から来た温かさかを、知っている者は、もう何も言わない。言葉にすれば匂いが変わる。匂いは記憶になる。記憶は、長い。
氷の国の朝が、終わらない。




