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氷の国の朝食  作者: 妙原奇天


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第4話 凍る指でスープを掬って

  朝という言葉は、白の中で溶けていた。外の風は夜より静かで、雪洞の口に置いた手のひらに、冷たいだけの空気が流れ込む。北村は腹ばいの姿勢から体を起こし、雪の縁を少しずつ崩していった。指先の感覚は薄い。薄いが、まだある。彼は手袋の上から指を曲げ伸ばして、合図のように自分の身体へ命令を送った。


  外へ出る。青白い空が広がっている。曇天と晴天のあいだの色。地平線は雪のうねりに飲まれ、遠くと近くの差が曖昧だ。風は弱く、音のない渦だけが漂っている。吐いた息がすぐに凍りそうな冷たさ。足を一歩出すと、雪が音を立てずに沈む。


  最初に見つけたのは、黒い点だった。新雪を汚すほどの濁りではない。風に埋もれきらなかった輪郭が、こちらの視線に気づいたかのように、静かにそこにあった。北村が歩を進める。田代と高梨が続く。真柴も出た。彼女の頬は固く、まぶたのふちが赤い。


  近づくと、それは人の形になった。雪に丁寧に包まれた、誰か。近づいてもなお、「誰か」と呼べる一瞬がある。最期の礼儀のような、距離。北村はしゃがみ、手袋の背で顔のあたりの雪を払った。現れた顔は、佐久間だった。眠っているような、静かな顔。まつ毛に白が宿り、唇は薄く閉じている。目は、起きたがっていない。


  真柴が息を吸い、すぐに吐いた。「佐久間」名前を呼ぶ声は、砕けないように置かれていた。触れれば粉になるものに向ける声だった。彼女は跪き、彼の肩口まで積もった雪を手で掬う。掬った雪はすぐに指に張り付き、指の色が、はっきり変わる。


  田代がゆっくりと首を振った。「外傷は、ない」歯の根が合わないまま、観察の言葉を選ぶ。「戻る途中で、力が切れた。風の筋が弱まったところで、座ったのかもしれない」

  高梨は口の中で短く何かを言って、口元を腕で覆った。胃袋が内側からねじれる。嘔吐は反射だ。反射は止められない。白い地面に、色のないものが落ちた。落ちた瞬間、音もなく凍る。氷は薄いが硬い。高梨はその薄さに足をとられ、膝をついた。


  「……食べるのか?」真柴の声は震えていない。震えないために、ずっと前から準備されていた声だ。

  北村は答えを探す時間を持たなかった。「食べなきゃ、死ぬ」

  言葉は刃物ほど鋭くはないが、空気を両断した。斜面の向こうで風が短く鳴る。誰もこちらの迷いに耳を貸さない、清潔な音。


  雪洞へ戻る。歩幅は短く、歩数は多い。足裏の感覚は遠い。天井の丸みの下に入ると、狭さが逆に落ち着きをくれた。北村は鍋を取り出し、固形燃料の台を用意する。燃料は少ない。火は作れないわけではない。作れるが、長くは続かない。


  田代は刃物を取り出し、布で拭き、砥石を当てた。砥石の面に凍った水を一滴落とす。冷たい面の上で刃が鳴る。鳴りは控えめで、慎重で、少し不器用だ。彼は仕事で使う人ではない。だが研ぐ行為が心を落ち着かせることを知っている。研ぐことで、決定は道具の側へ移される。責任は刃に乗る。刃は文句を言わない。


  高梨は雪洞の隅に座り、手袋を脱いで手のひらを見た。吐いたものの凍りが爪の間に白く残っている。彼はそれを歯でこそぎ、吐き出し、手袋を戻した。顔色は悪い。だが目は、現実の中に戻ってきている。戻ってきた目で、鍋と火を見守る。


  真柴は毛布をたたみ、端を鍋の風除けにあてた。指が震える。震えを抑えずに、そのまま使う。震えたまま布を押さえると、風は布の隙間から漏れ、音を立てる。音があることが、少し安心だ。


  北村は固形燃料に火をつけた。火は小さい。小さい火は、静かに真面目に燃える。真面目な火は、見ている者の背筋を伸ばす。鍋の底に雪をすくって入れる。雪は音もなく沈み、しばらくしてから少しだけ姿を変える。水の気配が、金属の匂いに触れて、薄い湯気を立てた。


  誰も言葉を選びたくなかった。言葉を選ぶと、何かが定義される。定義は、誰かを指す。指した指は、戻らない。


  外から戻した佐久間の身体は、雪洞の入口近くに置いた。直射の風にはさらさない。誰も顔を隠さない。隠さないのは、見ないためではない。ここにあると認めるためだ。北村は毛布を胸元までかけ、手をその上に揃えた。手袋は外さない。外せば、皮膚の色が目に入る。目に入った色は、長く残る。


  「どういう風に」田代が尋ねようとして、口を閉じた。「……やる」そこだけを言い直した。

  北村はうなずく。「最小限でいい。誰にも、余計な傷をつけない」

  余計という言葉が、雪洞の空気の中で一度反響した。余計ではない傷など、本来ない。それでも今は、言葉の枠が必要だ。枠がなければ、誰かの心が外へこぼれる。


  鍋の縁がわずかに鳴った。沸騰というほどではない。水が動いた音。動いた水は、そっと粉末を受け入れる。スープの粉を少量落とす。落とした粉は、色を与える。色は薄く、控えめで、雪の白に申し訳なさそうに広がっていく。


  真柴は両手を胸の前で組んだ。祈りの形と似ているが、祈っているわけではない。手の中で自分の指を確かめている。指は生きている。生きている指で、誰かのために何ができるかを探している。出てくる答えは少ない。少ないが、ゼロではない。


  「佐久間の……」真柴はそこで言葉に詰まった。名前が、空気に当たる前に自分の口の中で凍った。「彼の手帳、ここにある」胸から出した小さな手帳は、昨夜より冷たい。めくると、ページの角が固くなっている。彼女は指でめくり、昨日のページをもう一度開いて、閉じた。


  「彼は、朝食の準備をしに行った」田代が言う。

  「風の味を見に」高梨が付け足す。

  「風の味は、何だったろうな」田代が誰にともなく問う。

  「優しさの味だって」真柴が小さく答える。「温かいのに、舌に残らない味」


  鍋が、控えめな音で存在を主張した。湯気は細く、雪洞の天井に当たってすぐに白に戻る。湯気を見ていると、涙の温度を思い出す。涙は温かい。温かさは長く続かない。だからこそ、覚えてしまう。


  北村は、言いにくいように息を吐いた。「田代」

  「分かってる」

  彼は手元を整える。整えることで、手は少しだけ賢くなる。人の手は、心より賢くも愚かにもなる。賢すぎても愚かすぎても、誰かを傷つける。だから真ん中を選ぶ。真ん中は、いつも狭い。


  この先を、物語にすることは簡単だ。簡単にしてしまえば、誰かが軽くなる。軽くする権利は、ここにはない。だから描写は最小限に徹する。鍋のそばで、金属が触れ合う小さな音がする。布を湿らせる音。雪が溶ける音。誰かの喉が鳴る音。誰かの声が止まる音。止まった声の代わりに、湯気が増える。


  真柴は、祈りの形の手を少しだけほどき、膝の上に置いた。視線は逃げない。逃げないことは強さだが、罰でもある。彼女は唇を噛む。血の味はしない。唇が凍って、味覚が遅いのだ。


  「温度は」北村が問う。

  「十分」田代が答える。「長くは保てない」

  「分けよう」

  「分ける」

  北村は器を用意した。器と呼ぶには頼りない、金属のカップ。持ち手は冷たい。冷たさに指がすぐ吸い付く。四つ。ひとつは空のまま、そっと雪洞の入口側に置いた。


  スープが注がれる。注がれる音は、ささやきに似ている。薄い色がカップの底を覆い、湯気が立つ。香りは、香りと呼べるほど強くはない。だが、確かにある。食べ物の匂いは、人を子どもに戻す。子どもに戻ることは、ここでは罪ではない。許される数少ない逃げ道だ。


  真柴は、震える声で言った。「……いただきます」

  その言葉に、全員の背筋が伸びた。言葉は合図だ。始まりの形をしている。生きている人間が、何かを身体に入れる前に口にする、古い挨拶。古い挨拶は、いまほど新しく響いたことはない。


  スープを運ぶ。唇に触れる。熱は控えめだが、熱だ。舌に広がる塩の薄さ、脂の影、粉の輪郭。鍋と金属の匂いに、雪の匂いが溶ける。雪は香りがない。ないはずなのに、ここでは確かにある。外の温度を運んできた気配。空腹が、胸の奥で短く鳴る。喉が反射で飲み込む。


  香ばしい匂いが、雪洞に満ちる。香ばしい、という言葉をここで使うのは、間違いかもしれない。だが、そう形容するしかない温度がある。火が当たったものの匂い。命の側にあったものが、別の側に移るときに出す匂い。鼻の奥に残る。残ると、しばらく消えない。


  高梨はカップを両手で包み、額を縁に寄せた。唇が触れ、少量が入る。彼は目を閉じた。「……すまない」誰にともなく言った。謝罪は誰のためにもならない。ならないが、言葉の重さを身体の外に置ける。置いた重さの分だけ、両手に力が戻る。


  田代は静かに飲む。咀嚼のいらない液体は、理屈より先に身体へ入る。彼は一呼吸おいてから、二口目を飲み、短く目を伏せた。数字は何も言わない。言わないから、彼は数字に礼を言った。「ありがとう」その礼は、誰にも向かない。向けなかった。


  北村は最後に口をつけた。唇が、熱を知る。口内に流れ込んだほんの少しの温度が、喉と胸を通って胃に落ちる。落ちた先で広がり、背中の寒さを短く押し返す。押し返した分だけ、考えることが増える。考えることが増えると、決めなければならないことも増える。


  真柴は両手でカップを抱え、目をつむって飲んだ。飲み込む瞬間、胸の奥で何かが軋む。涙は出ない。涙は熱い。熱は奪えない。だから涙は出ない。彼女は一度だけ、カップの縁に唇を押し当てるようにして、目を開けた。


  入口側に置いた空のカップが、湯気に紛れて静かにある。空のままの器は、席の印だ。ここにいるはずだった人の、朝食の印。湯気はそこにも薄く流れ、白の向こうへ消えていく。


  しばらくの間、誰も言葉を持たなかった。鍋の底で小さな泡が立ち、すぐに消える。消えた泡を誰も数えない。数え始めれば、別のものまで数えることになる。数は、境界を引く。境界は、この場の呼吸と喧嘩をする。


  やがて、田代がノートを開いた。鉛筆は震えない。小さな字で、短い文を書いた。「朝食——摂取。四名。外気温、体感より低い。雪洞内、湿度上昇。判断——最低限の熱量確保、成功」

  書いて、閉じた。記録は祈りでもある。祈りは記録でもある。彼はノートの表紙に指を当て、しばらく動かさなかった。


  高梨がスコップを握り直し、入口の雪にそっと触れた。硬さを測る。まだ動かせない。動かせないという現実は、時に救いになる。動ける時、動かなければならない。動けない時、動かない言い訳はいらない。


  北村は鍋の火を弱めた。燃料は残りわずかだ。彼の頭の中で、道筋の地図がまた描かれる。吹き溜まり、尾根、谷。風の筋。日中に移動する可能性。夜営のための場所。目盛りの隙間で、雪が積もる速度。想像は、救いか罠か。どちらであっても、考えることをやめられない。


  真柴は手帳を膝に置き、指で角を撫でた。ページの端に、小さくこう書き足した。「朝食——いただきます。四人。ひとつ空席。風の味、未記載」書いてから、手を止める。「未記載」という言葉は、思ったより重かった。書いた本人の胸を押した。彼女は手を止め、目を閉じ、息を長く吐いた。


  雪洞の天井から、細かな雪が落ちた。白い粉は、湯気の上に乗り、すぐに消える。消える前に、きらりと光る。光は短い。短い光が、今日の全てだ。


  外の風が、ほんのわずかに表情を変えた。遠くで硬いものが割れるような音が、一度だけ、弱く。誰も確信を持てない大きさの音。四人は顔を上げた。誰も言わない。言うと、音は意味になる。意味は期待になる。期待は、ここでは簡単に刃に変わる。


  北村が、入口に目を向けた。「……昼までに、もう一度、外を見る」

  田代がうなずく。「装備の再点検をする。手の感覚を戻せ」

  高梨は拳を開いたり閉じたりした。「行ける時に、行く」

  真柴は手帳を閉じ、胸に当てた。「彼のページ、いつか埋める」声は小さい。小さいが折れていない。


  鍋の底から、また一つ泡が生まれ、消えた。消える音はしない。だが確かに、そこにあった。湯気は細く、天井に消える。消える手前で、四人の顔に触れ、頬に当たり、まつ毛の上で白くなり、何も残さず消えた。


  雪洞の外は明るい。明るさは温かさではない。温かさは、ここにある。誰の命から来た温かさか、全員が知っている。それを言葉にはしない。言葉にすれば、匂いが変わる。匂いは記憶になる。記憶は、長い。


  北村は立ち上がった。膝がわずかに鳴る。「準備だ」

  四人のうちの三人が動く。残る一人は、入口の空のカップに視線を置いた。空は軽い。だが、目が離れない。離せば、誰かが本当にいなくなる。


  準備の音は小さい。金具の触れ合う音、布の擦れる音、息の整う音。音ごとに、雪洞の内部の空気がわずかに揺れる。揺れは、崩れではない。生きている、という証拠だけを落とす。


  外は、待っている。待つというより、ただそこにある。そこにある世界は、優しさの味を知らない。知らない世界に、少しだけ温かい匂いが漏れた。漏れた匂いは風に混ざり、すぐに薄まる。薄まっても、ゼロにはならない。


  昼は、まだ来ない。だが、昼は来る。来るまでの間に、何を決め、何を捨て、何を持っていくか。それぞれの指が、冷たさの中で、その答えを探した。探す間にも、鍋の湯気は細々と上がり続け、雪洞の天井に触れては、消えていった。


  四人は、同時に息を吸った。吐いた息は、同じ白さで、同じ高さで、同じ早さで薄れていく。薄れた先で、音にならない声が一つ、重なった。


  ごちそうさま。


  声は、誰も聞かなかった。聞こえないように、置いた。置いた声は、空のカップの縁に静かに触れ、そこで凍って、光った。

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