第1話 白い嵐の夜に
雪は、音を食べていた。
夜空の低い唸りも、人の息の荒さも、白い粒に削られていく。前に進むたび、ライトの円が粉々になって視界に刺さる。先頭の北村は、何度目か分からない「あと少しだ」を繰り返しながら、踏み跡をつける役目だけに集中していた。振り返れば、四つの影がついてくる。田代、川上、真鍋、そしていちばん体が小さい佐久間。ロープは互いの腰をゆるくつないでいるが、吹き溜まりに足を取られた拍子にその緩みはすぐ無意味になる。
「止まるな。止まったら身体が固まる」
北村はマスク越しに言い、手首のコンパスをかざす。針は風に合わせて震え、たびたび立ち止まらせる。地図上では、この尾根の裏に古い避難小屋がある。だが低気圧の芯に近い今、この山は平時の形をしていない。斜面の凹凸は雪で埋まり、尾根は鈍い背中の連なりに化けていた。
川上が派手に転んだ。ロープが引かれ、後ろの三人がバランスを崩す。
「大丈夫か」
北村が近づくと、川上は親指を立ててみせた。だが、その手袋の人差し指と中指の先が薄く色を失っている。ライトにかざすと皮膚の色が鈍い鉛のように見えた。
「凍傷になる。指、挟んで温めろ」
北村は自分の脇に川上の手を押し込み、強く抱き寄せる。互いの身体が硬い装備越しにぶつかる音だけが、やけに鮮やかに響いた。
「この先に、風の弱い窪地がある。そこで雪洞を掘る」
田代が誰にともなく吐き捨てる。
「生き埋めってやつだな。棺桶に自分で入る練習」
冗談の形をしていたが、誰も笑わなかった。笑いのための顔の筋肉が、もう動かないのだ。
やがて北村のヘッドライトの光輪が、黒い裂け目を捉えた。真新しいクレバスではない。風に削られた雪庇の根本、硬い氷の壁と雪の層が作る影が口を開けている。
「ここだ。掘るぞ」
氷斧とスコップが交互に鳴る。積み上げた雪で風除けの壁を作り、内部の天井を丸く、厚くする。手袋の中の指は痛みと痺れで境目が分からなくなる。汗が背中に冷たく張り付き、動きを鈍らせた。
膝を突くスペースがどうにかできた頃、五人は雪洞の口を背中で塞いだ。外の風は少し遠くなる。風音が遠ざかると、耳にのこるのは自分たちの荒い呼吸と、服がこすれる乾いた音。暗さに慣れた目に、ライトの反射で天井から落ちる小さな氷の涙が見える。
「通信機、もう一度見てくれ」
真鍋がザックから防水パックを取り出す。昼間の転倒でアンテナは折れている。予備の短いアンテナに付け替えるが、インジケータの赤い点は点いたまま、青には変わらない。
「ダメだ。ノイズすら拾えない」
「燃料も底だ」川上が乾いた声で言う。「ストーブは、もう回せない」
「食い物は」
田代が、わざとらしく明るい調子を作る。「隊長の秘密のポケットから、からあげクンと肉まんが出てくる、とか」
「缶詰ひとつと、スープの粉」北村が短く答える。
「宴会だな」
狭い空間で、言葉が行き場をなくして漂う。
佐久間が毛布を取り出し、折り目を揃えてから一枚ずつみんなに手渡した。彼の手つきは、教科書のように丁寧で、恐ろしいほど静かだった。
「スープ、作ります。雪、溶かしますね」
小さな鍋に雪を何度も落とし、固形燃料の火にかざす。火はすぐ弱り、赤い芯だけになる。佐久間は手で風除けを作って息を殺し、焚きつけのように目だけを燃え残った炭に向けた。
湯気が一本、糸のように立った。粉末をひとつまみ落とす。塩の匂いが立ち上り、全員の喉が一斉に鳴った。佐久間はスプーンを数え、均等に分けるように、少しずつ、少しずつよそう。
北村は思わず言葉を探したが、「ありがとう」の音は凍って口からうまく出なかった。その代わりに、彼はその紙コップを両手で包み、熱の重さだけを受け取った。
田代が、湯気の向こうにぼうっと浮かぶ顔で言った。
「いっそ、誰かの足でも煮るか」
スプーンの触れる音が止まる。
風が遠くで鳴り、雪洞の天井から乾いた粉が落ちた。
田代は「冗談だって」と付け足したが、誰も補足を必要としていない表情だった。冗談にしがみつけば、その形をした現実が手の中に残る。
浅い暖かさが引いていくと、無言が戻ってくる。眠気は甘い誘いの顔をしているが、中身は冷たい。
「寝るなよ」北村が言う。「交代で起きていろ。身体をさすれ。指を動かせ」
川上がうなずき、真鍋が手袋の中で指を開閉してみせた。田代は壁に寄り掛かって、天井の丸みを眺める。そこでふいに、佐久間が穏やかな声で言った。
「ぼく、眠る前にパンの夢を見ました」
田代が顔だけ向ける。「パン?」
「丸くて、表面がパリパリの。お店の窓から、焼き上がるたびに出してくれて。朝の匂いで街全部が起きるみたいな……馬鹿みたいでしょう」
佐久間は苦笑し、コップの縁に唇を寄せた。
「馬鹿じゃない」北村は低く言った。「一番いい夢だ」
言いながら、自分の舌が塩を探しているのに気づく。夢のパンは、熱と香りまで持ってここへ来る。
時間の感覚がほどけ、光と闇の境が薄くなる。外では風が強弱を変え、雪洞の壁を指で弾くように叩く。その小気味よい振動が脈拍とまざり、五人のメトロノームはそれぞれに乱れ、たまにそろう。
やがて、体温と灯りと希望のどれもがわずかに薄くなった頃、北村は声を落とした。
「もし、明日も嵐なら」
全員の眼が、彼の顎の動きだけを見る。
「誰かを、減らすしかない」
その言葉は風ではなく、雪洞の空気を直接、冷やした。
即座の反論はなかった。声を出せば、その声で誰かの輪郭を描くことになる。描いた輪郭を消すのは、雪ではない。
田代は視線をそらし、真鍋は唇を噛む。川上は自分の膝に目を落として、指を数える仕草をした。
佐久間だけが、少し笑った。笑いの筋肉の場所を忘れてしまわないように確かめるみたいに。
「ぼく、パンの夢の続きが見たいです」
意味を問う前に、彼は続けた。
「だから、ね。誰かが眠るときは、ちゃんと起こして。交代で。順番で」
「順番の話じゃない」田代が荒く言う。「隊長は……人数の話をしてる」
「うん」佐久間はあっさりうなずいた。「でも順番は、人数の形だ」
北村は毛布を肩まで引き上げ、壁に背を預けた。雪の冷たさが背骨に沿って上がってくる。目を閉じれば、地図の等高線が浮かぶ。小屋の印は小さな四角で、そこだけが何の説明もなく、すべての説明になっている記号だった。
交代の番が回る。二時間と区切ったはずの時間は、じっさいには何分でもありえる。時計を見るたび、分針の動きが雪に埋もれている。
北村は起きる係のまま、意識の底を何度も行き来した。かじかんだ指で隣の肩を揺らし、別の肩に毛布をかけ直す。揺すると軽い。生きている重さは、限界に近づくほど紙に似ていく。
ふと、雪洞の口から、ほの暗い気配が吹きこんだ気がした。風ではない。気配だった。
北村は身を起こし、ライトを向ける。白い面が返す反射に、ほこりのような雪煙が舞う。
「外は……どうです」
声がした。川上だ。
「まだ、やまない。もう少し、待つ」
いつもの声で答える。隊長の声。肩書の声。自分の中には今、二種類の声があり、どちらを選ぶかは毎秒の作業だった。
佐久間が、北村の隣に腰を寄せた。毛布越しでも、彼の体温が薄く伝わる。
「隊長」
「なんだ」
「隊長は、パンなら何が好きですか」
北村は、返す言葉を持っていなかった。
「俺は……何でもいい。あったかければ」
「それ、いちばん贅沢な答えですよ」
佐久間は笑った。笑いのあと、彼は小さな声で続けた。
「誰かが減る、って言葉、怖くないわけない。でも、ぼくら、明日に自分を渡すために、何を持っていけるのかな。パンの夢でも、持っていけるかな」
北村は、自分の喉の奥に石のかけらがあるように感じた。答えは出せない。出してはいけない。出した瞬間、それは選択になる。
田代が急に身を起こした。
「クジにしよう」
声が大きく、天井が粉を降らせる。
「公平に。紙に印をつけて。引いたやつが……つまり、そういうことだ」
「紙?」真鍋が眉をひそめる。「紙なんか、あるか」
「報告用のメモ帳が」佐久間がポケットを探る。「少しなら」
「やめろ」北村が低く制した。「まだ決めない」
「いつ決める。朝までに、決めることは決めておくべきだ。そういうの、隊長がいちばん分かってるだろ」
田代の目は暗がりに馴れ、光のない怒りを宿している。
「決める訓練ばかりしてきたんだろ。誰かの役に立つために」
「訓練で決めるのと、ここで決めるのは違う」
「同じだよ。訓練は、こういうときのためにあるんだ」
雪洞の空気が、ほんの少しだけ薄くなる気がした。言葉が酸素を食う。
「ねえ、田代さん」佐久間が静かに割って入る。「クジ、引くのは簡単です。でも、引いたあと、引けなかった手のほうを、誰が握ってくれますか」
「……何を言ってる」
「クジって、公平な形をした逃げ道です。誰かのせいにしないっていう、優しい逃げ道。だから、ぼくはたぶん、それには入れない」
「じゃあどうする。どうしたい」
「順番の話をしませんか」
「順番?」
「眠る順番。起きてる順番。起こす順番。誰かが誰かの番を、少しずつ肩代わりし合う順番。……それで朝まで引っ張れたら、クジはいりません」
田代は舌打ちし、毛布を頭までかぶった。言い返さない代わりに、沈黙で殴るやり方だ。
冷えが骨にまで入る頃、北村は決めた。
「二時間交代を一時間にする。負担を細かく割る。スープは次で最後だ。水は雪で足す。……それで粘る」
誰も拍手しない。正しいかどうかも、誰も口にしない。その代わり、全員がうなずく。うなずきは生存の言語だ。
小さな鍋が、ふたたび薄い息を吐く。粉を落とす。塩の匂いがもうほとんどしない。湯気はただの湿り気に近い。
佐久間が、分ける。今度は自分の分を少し少なめにしているのが、手元の動きで分かった。北村は口を開きかけ、閉じた。その指摘は、正しさの仮面をかぶって、誰かの意地を奪う。
スープの熱が喉の奥に届くと、すぐに消える。熱はここでは液体でも固体でもなく、気分の種類に近い。あるときは勇気、あるときは慢心に変わる。北村は、勇気のほうに変わるよう、飲み込み方をゆっくりにした。
交代で立ち上がり、狭い雪洞の中を数歩動く。動くと壁が近い。壁の向こうは、無限の白だ。
真鍋が手袋を外し、裸の指で壁に触れた。
「冷たい」
「当たり前だ」田代が毛布の中から言い、すぐに顔を出した。「指、しまえ。千切れるぞ」
「分かってる」真鍋は歯を見せた。笑いではない。歯の音だ。
しばらくして、北村は雪洞の口に腹ばいで近づき、外の音を聞いた。風は、さっきより深いところで鳴っている。吹雪の芯が、少しだけ遠のいたかもしれない。耳を澄ますと、風の合間に、遠い何かの割れる音が混じる。氷か、枝か、それとも。
振り返ると、佐久間が起きていた。目が夜に馴染んで、黒目の輪郭がはっきり見える。
「隊長」
「何だ」
「明日、ですけど」
「明日は、来る」北村は言い切った。言い切ること自体が暖の代わりだと知っている。
「来たとき、ぼくらの顔、どうなっているんでしょうね」
北村は短く息を吐いた。白さが口の前で小さな雲になり、すぐ消える。
「全員、同じ顔だよ。ひげ面で、鼻が赤くて、目が腫れてる」
「じゃあ、ぼくの顔も」
「お前のも」
「よかった」
佐久間はうつむき、膝に顎をのせた。その姿勢は、学校の保健室のベッドの端に座る子どものように見えた。安堵と疲労の形が、年齢を均す。
うとうとが、雪洞全体を薄く包み込む。眠らない、でも休む。そのグレーの時間は危険だが、そこにしか身体を回復させる場所がない。
北村は、意識が落ちる瞬間の手前で、はっとして身体を起こす。隣の田代の肩を叩く。田代が無言で親指を立て、目を擦る。交代だ。
北村は毛布に潜り、目を閉じる。耳は開けたままだ。風の音、吐息の音、布の擦れる音。もう一つ、知らない音が混ざる。かすかな、こすれる音。外からではない。雪洞の口の、この側のどこか。
……爪が氷を引っかくみたいな、細い音。
目を開ける。暗闇が少し動いた。田代が口元に指を立てる。静かに、という合図。
音は続いている。つ、と止まり、また、つ、と。一定ではない。人が意識して止めたり、続けたりする時のリズム。
北村は腹ばいになり、雪洞の口へじりじり進む。ライトを消した。暗順応の眼に、白と黒の境目が浮かぶ。音は、口の縁、雪の縁からかすかに震えて入ってくる。
田代が背後で囁く。「獣か」
北村は首を振る。獣ならもっと直線的だ。迷いがない。今の音は、躊躇っている。
川上が、覆いかぶさるように近づいてきた。「風で何かが……」
「違う」北村ははっきり言った。「これは——」
そのとき、音がぴたりと止まった。代わりに、雪の向こうから極小の呼気が漏れた。かすかすの、壊れかけの笛のような音。
北村は反射で手を伸ばしかけ、こぶしを握って止めた。
外の白は、白のまま動かない。だが、熱の気配は確かにそこにある。雪は熱を抱えて、ゆっくり形を変える。
やめろ、と誰かが言いかけるより早く、北村は手袋の親指で雪の縁を押し、爪の先で硬い層をこそぎ始めた。
田代が肩を掴む。「開けるな。風が入る」
「少しだ」北村は目だけで返す。「少しだけ、口を作る」
真鍋が鍋の蓋を手に取り、風除けのように掲げる。川上はライトを逆向きに当て、内部に反射させて光量を上げる。
佐久間が、毛布をたたみ直して、出入口のそばに持ってきた。何も言わない。目だけが、北村の指先を追っている。
雪は、想像よりも軽く、そして重かった。
削るたびに、向こう側の音が小さく震える。やがて、指の腹が冷たい空気の糸に触れた気がした。外気だ。ほんの針穴ほどの隙間から、別の世界の温度が触ってくる。
北村は息を殺し、その針穴に耳を寄せた。
そこで、確かに聞こえた。
たった一文字分だけの、声。
……だれか。
北村は目を見開いた。田代が唇を引き結び、真鍋が鍋の蓋を固定する。川上はライトを少しだけ外に向け、反射を作るのをやめた。
佐久間が、毛布を両手で持ったまま、ほんの少し前に出た。
雪洞の口は、針穴のまま。そこに向こうの世界の呼吸が、こちらの世界の呼吸に合わせようとしている。
北村は、指先に力を集めた。押せば広がる。広げれば、風が入る。風が入れば、ここが崩れるかもしれない。けれど——その向こうにあるのは、確かに、声だった。
どれだけの時間がそうして流れたか、誰にも分からない。秒針は雪に埋もれ、分は凍り、時は毛布の中で丸くなっている。
北村は、息を吸い、吐いた。
「……もう一息、だ」
雪の向こうで、呼気が、かすかに答えた。
雪洞の中の五人は、同時に、自分の心臓が叩く音を聞いた。
外の風は、まだやんでいない。
朝は、まだ来ていない。




