18、たとえハリボテでも
「こいつは一体、どうしたことだ……」
俺は呟いた。
消えていたわけでは無かった。昔何度も見上げた『橘右近』という祖父の名が書かれた木製の表札があった。でも、そこが本当に、あの橘の家なのか疑わしかった。
門が、汚らしかった。木製の門が、シロアリにでもやられたかのようにボロボロになっている。
敷地も、以前より小さくなったように見える。俺の身長が伸びたからとか、そんな理由では絶対にない。本当に小さくなっている。広かった庭は、ずいぶん狭くなり、敷地を囲む木製の垣根は不自然な穴だらけ。
インターホンなんか蓋が外れたようで目玉が飛び出たみたいにビヨヨンとなっている。
たてつけの悪い門扉をこじ開けたときには、崩れてこないか心配になるくらいだった。
中に入って見えた家は確かに昔の面影を残していたけど、面影でしかなかった。
家が傾いたりしてるし。見た感じ廃墟じゃないか。
玄関の引き戸を開けて中に入る。ふすまを開けると、すぐに居間だった。
目を疑った。
そこには、祖父母が居た。
居たけれど、居なかった。
いや、居る。居るけれど、違う。こんな祖父母は知らない。祖父が背中を丸めて縁側のほうを眺めたり、祖母がその場に寝転がって尻をかきながらテレビを見ているなど、有り得ない。
他人の目が届かない場所でも、いつもビシッとしているから息が詰まると母が言っていた。母が言うように、実際、そうだった。誰に聞いてもそう言ったし、少なくとも、こんなボロボロの服を好んで着るような人ではなかった。
「あらら、良近くん、どうしたの。来たの?」
こんなゆるい挨拶をする祖母ではなかった。
「あー、よーく来たなぁ」
こんな優しい祖父ではなかった。俺の方に体も向けずに挨拶するような適当な人でもなかった。
今の俺は、そんなビシっとした格好してなかったし、寝癖のまま出てきてしまった状態だったし、そもそも仕事をしていない。
俺は何だか悔しくなって俯いた。
誇り高かったはずの人々が、俺と同じようなみすぼらしい格好になっていた。いつも凛として背筋を伸ばしていた祖父や祖母も、威厳もへったくれもない人間になっていた。
「あら良近じゃないの。どうしたの?」
母だった。俺と同じように寝癖が立っていた。
「おとうとー、久しぶりじゃーん」
姉が薄汚れたパーカーのポケットに手を突っ込みながら言った。
台所から出てきた母と姉も、汚い格好をして平気そうにしていた。
消えてなくてよかったとは思う。その部分は、大いに安心した。
でも何だこれは。おかしい。
橘家はこんな家じゃないはずだ。
こんな、何も無い家ではないはずだ。
飾ってあった感謝状とか賞状とか勲章はどこだ。何でいつも綺麗にしてあったはずの神棚がこんなにボロボロなんだ。
祖父はらしくないユルい声で言う。
「まだ仕事は見つからぬのか。仕方ないのー。だが元々、わしらの家から都会の大学を卒業できる子が居たというだけでも凄いことじゃろ」
そんなバカなことないだろ。早慶クラス以上でないと認めないみたいな姿勢は一体どこに行ってしまったんだ。二流になったら縁を切るとか言われた受験のプレッシャーは何だったんだ。結局二流未満になって大きな溜息を吐かれてしばらく口をきいてもらえなかったあの日々は何だったんだ。
たとえハリボテでも、形があったはずだ。そこに誇りが……。
背中を丸めた祖父は言う。
「届氷さんとこは良いねぇ。うちは跡継ぎが居ないから、ここで断絶だろうね。まぁ、わしらの代で絶えるのが、後々のためかもしれんね。何せわしらは犯罪一族のごくつぶし。周りの人々のために、ここらで橘家は消えるべきかもしれんね」
俺は耳鳴りがするくらい強く奥歯を噛んだ。こみ上げる涙を何とか抑えたかったから。
でも抑えられなかったから、せめて拭った。
犯罪一家って、何だよ。功労者だろう。なんだ、あれか、俺のせいか?
誇れるものが、何も無くなってしまったように思えた。
消えていたのは、功績。連綿と紡がれてきた家の歴史。積み上げられてきた善行。
そりゃ昔はプライドが高いだけの腐った家だと思ってたよ。見掛けだけで中身が無いのは無意味だと思ってたよ。
でも、いざ祖父や祖母や母や姉がそのプライドを欠片も残さず失っているのを見たら、誇りというのがいかに大事なものだったのか理解することができた。
いや、こんな状況にならなくちゃ理解も納得もできなかったんだ。
俺は、ひどいバカだった。
なんて頭が悪いんだ、俺は。
俺という存在にとって、いかに「昔は名家」というのが重要なものだったのかを痛感した。ひとつの大きなアイデンティティだった。それまでも失って、何も無くなった今、ただの天使みたいな女の子に莫大な借りを抱えているマイナス人間でしかなくて、心の犯罪者で、取り戻そうにも、その足がかりすら見つからない。
いや、見つからない振りをしている。
この期に及んで、まだ……。
このままじゃいけない。
絶対に、このままにして良いはずがない。
代々、受け継がれてきたものを俺が滅茶苦茶にしたのなら、俺が何とかするべきだ。
「今まで、ごめん。俺、やるよ」
そんな言葉が、自然と出ていた。
「無理することないんだよ。わしらは良近が生きていてくれるだけで――」
と、祖父の言葉は途中で途切れた。
二階から俺の父親が降りてきたのだ。
父は姿を見せるなり、俺にこう言った。
「何しに来た」
普段からは考えられない、厳しい口調で。
「いや、消えてなくて、よかったなって、思って……さ」
何言ってんだ、お前。という顔をされた。顔をしかめていた。そりゃ普通に考えれば変なこと言ったと思われることではあるだろうけど、それでも、過ぎるくらいに優しい父のイメージとは違った。
「良近」
「な、なんだよ、親父」
「仕事しろ」
こんなことを言う父ではなかった。面と向かって言える父ではなかった。いつも母を経由してきた。本心を俺にぶつけて来られないような、威厳も何もない父だった。でも、この時は、まっすぐに、俺にぶつけてきた。
なんだか、それが、何て言ったら良いんだろうな。妙に、心に響いた気がした。
俺はふと思い立ち、ポケットに手を突っ込んで折れ曲がった切符を取り出した。
父親に切符を広げて渡した。
「別にもう、集めてねぇよ」
父はそれを受け取ると、苦笑いしていた。
いつの間にか父は、生き方を変えていた。
じゃあ俺も、変わっていけるかもしれないと思った。




