10、届氷良近とは何なのか
何が何だかわからない。
ここが本当に現実世界なのか疑わしい。
思えば、そうだ。このブルーシートがところどころに見える天井なんてのも、二畳半の壁の薄い部屋も、現実感なんて無い。まったくもって見慣れないクソみたいに出来の悪い天井だ。
ふと、天井に向かって手のひらをかざしてみる。
手の甲を走る血管をもう片方の人差し指でなぞる。本物の手にしか見えなかった。俺は人間だ。本物の手なのは当然だ。いやしかし、どうにも自分が誰かに後付で作られた存在なんじゃないかって疑惑が頭の中で暴れまわって、今度は鏡を探した。鏡は無かったので、ノートパソコンの黒い液晶画面で代用した。鏡ほど鮮明には映らなかったが見慣れた顔だった。
ふと狐や狸の類に化かされてるんじゃないかと思い浮かんだ。
届氷良近とは何なのか。
簡単に確かめられることだと思っていた。でも、今では自分が何者なのかがわからない。人間だと頭ではわかっていても、何だかそれが疑わしい。
だって、記憶が、めちゃくちゃだ。
幼少期から、ずっと洋風の3LDKで暮らした記憶が俺にはある。最初はピカピカだったフローリングが経年劣化によっていよいよ味が出てきたくらいの頃に、俺は両親から家を出ていけと言われた。普段は厳しくない両親だったけど、さすがに無気力に生活してたらそういうことになった。住むところは母が用意してくれた。大学卒業後から半年経った頃だった。その頃から数えたとしても何度も届氷家には足を踏み入れているつもりだ。
つい三週間前にも橘の家から祖父が来るってんで、呼び出されて行ったら、仕事してないってこともあるだろう。ゴミを見るような目で睨まれた。さらに祖父は、ドラマの中の姑みたいに、掃除の行き届いてないさまを指先に埃をつけることで指摘して母に苦笑いさせたり、ピンと張った背筋を見せつけ猫背の父を含む届氷家すべてを溢れるハリボテの威厳でもって支配した挙句、これ見よがしに姉にだけ小遣いを置いて帰っていった。そこまで鮮明な記憶があるというのに、もうその家は、あるべき場所に無かった。
寂しいなんてもんじゃなかった。自分の育った場所が、何の予告も無しに削り取られて、自分という存在の三割くらいを毟り取られた気がした。
誰が、そんなことをしたのか。
考えられるのは、やはり一人だけだった。
不思議な出来事を引き起こせそうなのは彼女だけだ。
しかし、その一人の少女のような女は、ここしばらく姿を現さない。
なんだか、どうなっているか少しおそろしいけれど、まことちゃんが居そうな場所に行ってみようか。




