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第九章



三月末。

東京ではまだ肌寒い風が吹く季節だが、飛行機を降り立った先は、

突き抜けるような青空と眩しい太陽が支配する、常夏の楽園であった。

激動の継承劇から数日後。雅由美は五日間の卒業旅行として、

沖縄にある最高級のプライベートリゾートホテルを訪れていた。


エメラルドグリーンに輝く海を望む、真っ白な砂浜のプライベートビーチ。

パラソルの下、雅由美は背中から腰にかけての昇り龍を完全に隠す、

風をはらんでふわりと揺れるエレガントなマキシ丈のリゾートワンピースに

身を包み、色鮮やかなトロピカルジュースのグラスを傾けていた。

完璧な令嬢にふさわしい、絵画のように優雅なバカンスの風景である。


しかし、その後ろに立つ二人の男の存在が、その完璧な風景を

見事なまでに異様なものへと歪めていた。


「竜也さん、黒田さん。せっかくの南国ですもの、もう少し

リラックスなさったらどうかしら?」


雅由美がストローから唇を離し、天然な笑顔で振り返る。


「お嬢……リラックスなど、できるわけがありません」


「この開けた視界、どこから狙撃されるかわかったものではありませんからな」


竜也と、長年神龍寺家の運転手を務める寡黙で屈強な組員の黒田。

二人は周囲の空気に溶け込もうと、わざわざハイビスカス柄の

派手なアロハシャツにハーフパンツという出で立ちに着替えていた。

しかし、鍛え上げられた分厚い胸板と、長年極道として修羅場を

潜り抜けてきたことで染み付いた「凄み」、そして鋭い視線を隠すための

真っ黒なサングラスのせいで、どこからどう見ても

「休暇中のマフィアとその用心棒」にしか見えなかった。


「お二人とも、アロハシャツがとてもよくお似合いですわよ。

でも、そんなに眉間に皺を寄せていては、せっかくのバカンスが台無しですわ」


「アロハを着ただけで誤魔化せるような我々ではありません。

すれ違う宿泊客が、皆一様に怯えて道を譲っていくではありませんか」


「あら、それは皆様が、お二人の紳士的なオーラに圧倒されているからですわ」


「お嬢のそのポジティブな解釈、時には胃に刺さります……っ」


竜也が胃のあたりを押さえながら、パラソルの陰で深いため息をつく。


「それに、お嬢。背中は見事に隠れておりますが、そのワンピース……

風が吹くたびに体の線がはっきりと出すぎです。護衛の身としては気が気でなく……」


「リゾート地での装いとは、こういうものですわ。黒田さんも、そう思いませんこと?」


雅由美がふわりと首を傾げて同意を求めると、黒田は微動だにせず、

サングラスの奥から真っ直ぐに海を見据えたまま、低くドスを効かせた声で答えた。


「……ハッ。お嬢の気高さと美しさは、沖縄の太陽よりも眩しく存じます」


「黒田、お前顔が完全にヒットマンになってるぞ! もう少し笑え!」


竜也の必死のツッコミに、黒田は口角だけを僅かに引き上げたが、

それが逆に「標的を見つけた殺し屋の笑み」にしか見えず、

近くを通りかかったホテルスタッフが「ヒッ」と短い悲鳴を上げて逃げていった。


「もう、竜也さんったら。黒田さんをいじめては可哀想ですわ。

ほら、あちらで冷たいジェラートでも買ってまいりましょう」


「お嬢、お一人で動かないでください! 黒田、周囲の警戒を怠るな!」


「ハッ。虫一匹、お嬢には近づけさせません」


美しい青い海と、純白の砂浜。

極道のトップに立ったばかりの十八歳の少女と、彼女を溺愛し守り抜く

不器用な男たちの、噛み合わないながらも和やかな笑い声が、

南国の暖かな風に乗って溶けていく。

雅由美にとって、肩の荷を下ろして心から笑える、束の間の優しい時間だった。



そして、旅行最終日の夜。

昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったプライベートビーチには、

満月がぽっかりと浮かび、海面に銀色の道を描き出していた。

雅由美は一人、波打ち際に面したホテルのテラスに立ち、

潮の香りを運んでくる穏やかな海風に目を閉じていた。


(……明日東京へ戻れば、いよいよ大学生としての生活が始まるのね)


ワンピースの薄い生地の下。

白磁の肌に刻まれた昇り龍が、南国の熱気を帯びて、

雅由美の心臓の鼓動と連動するように静かに脈打っているのを感じる。


八代目会頭としての、数万の人間を束ねる圧倒的な重圧。

そして、東京大学の学生として、新たな知を求める未来への期待。

決して交わることのない、あまりにも重く、そして美しい二つの世界。

普通であれば、その重圧に押し潰されてしまうだろう。


しかし、雅由美の鳶色の瞳に、恐れは一切なかった。


「……お祖父様。私は、どちらも完璧にこなしてみせますわ」


誰も血を流さず、誰も悲しませない。

極道としての義理と人情を重んじながら、令嬢としての気品を忘れない。

それが、神龍寺雅由美という「龍」の生き方なのだ。


寄せては返す波音が、彼女の静かなる誓いを祝福するように響く。

月明かりに照らされたその横顔は、少女のあどけなさを残しながらも、

圧倒的なカリスマを秘めた、美しく気高い統治者のそれであった。

南風のバカンスは、新たな戦いの舞台へ向かう彼女の心を、

静かに、そして確かに研ぎ澄ましていった。




四月上旬。

東京の空は、春の霞にふんわりと包まれていた。

日本武道館の周辺、千鳥ヶ淵から続く遊歩道には、

見渡す限りの満開の桜が咲き誇り、春の風が吹くたびに、

薄紅色の花びらが雪のように舞い散っている。


東京大学の入学式。

日本最高学府の門を潜る新入生たちと、その保護者たちで、

会場周辺は熱気と喧騒に包まれていた。

その人波の中を、神龍寺雅由美は一人、静かに歩いていた。


(……竜也さんたちには、申し訳ないことをしたかしら)


極道のトップという裏の顔を、この学び舎に持ち込むわけにはいかない。

「一人の学生として、静かに入学式を迎えたいのです」と、

涙目で護衛を懇願する竜也たちを屋敷に置き去りにしてきたのだ。


完璧に仕立てられた、濃紺のオーダーメイドスーツ。

少し癖のある鳶色のロングレイヤーヘアは、清楚なハーフアップにまとめられ、

凛とした顔立ちをいっそう引き立てている。

周囲の学生たちが、思わず振り返るほどの圧倒的な美しさと気品だったが、

彼女自身はそんな視線に頓着することなく、静かに会場へと足を踏み入れた。


式典が厳かに進行し、いよいよその時が訪れる。


「新入生総代。教養学部文科一類、神龍寺雅由美」


司会者の声がマイクを通して武道館全体に響き渡ると、

数千人の視線が一斉に、アリーナ席の最前列へと注がれた。


「はい」


透き通るような、それでいて芯のある美しい声が響く。

雅由美は静かに立ち上がり、背筋を伸ばして祭壇へと歩みを進めた。

スーツの下、白磁の肌に刻まれた昇り龍が、静かに眠っている。

極道の数万の命を背負った「会頭」としての重圧に比べれば、

数千人の視線など、春のそよ風のように心地よいものだった。


壇上に立ち、総代としての答辞を読み上げる。


「我々は今日、この歴史ある学び舎において、新たな知の探求へと……」


淀みない発声、洗練された美しい所作。

そこに立つのは、一人の完璧な令嬢でありながら、

どこか「人の上に立つ者」としての絶対的なカリスマ性を放っていた。

広大な武道館の空気が、彼女の声に支配され、水を打ったように静まり返る。

読み終え、優雅に一礼をした瞬間。

一拍の静寂の後、会場が揺れるほどの万雷の拍手が巻き起こった。

それは、新たな知の女王が誕生したことを告げる、祝福の嵐だった。



入学式から数日後。

春の柔らかな陽気に包まれた、東大の駒場キャンパス。

銀杏並木が続くメインストリートは、新入生を勧誘する

数多くのサークルや部活動の学生たちで、ごった返していた。

飛び交う歓声と、強引に押し付けられるビラの束。


その喧騒のど真ん中で、人波に飲まれ、おろおろと困惑している

一人の小柄な少女の姿があった。


「あ、あの、私は結構です……っ、すみません……っ」


分厚い眼鏡をかけ、少し長めの前髪で顔を隠すようにした彼女は、

両腕に抱えた数冊の重そうな本を落とすまいと必死だった。

しかし、熱狂する勧誘の波は容赦なく彼女を押し流そうとする。


(……あら)


少し離れた場所からその様子に気づいた雅由美は、

小さく息を吐くと、スッとキャンパスの雑踏の中へ足を踏み入れた。


「ちょっと、君! うちのテニスサークル、絶対楽しいから!」


強引に少女の腕を掴もうとした男子学生の手を、

横からすっと伸びてきた白く細い手が、優雅に、かつ的確に弾いた。


「……え?」


「ごきげんよう。彼女は、私との待ち合わせに遅れておりますの。

強引な勧誘は、そのくらいにしていただけますか?」


完璧な笑みを浮かべながらも、目の奥に一切の笑みがない雅由美の登場に、

男子学生たちは気圧され、思わず道を空けた。

雅由美は流麗な足捌きで少女の隣に並ぶと、彼女の肩を優しく抱いた。


「さあ、参りましょうか」


「あ……えっと……」


呆然とする少女を連れ、雅由美は喧騒から離れた、

静かな図書館裏の中庭へと向かった。

人の気配が途絶え、木漏れ日がベンチを優しく照らしている。


「お怪我はありませんでしたか? 大変でしたわね」


雅由美がふわりと微笑むと、少女はハッとして、慌てて頭を下げた。


「あ、ありがとうございます……! あの……神龍寺、さん、ですよね」


「ええ。……あら? 私のことを、ご存知なの?」


「そ、それは……同じ高校でしたから。私は、水無月瑞希と申します」


水無月瑞希。

その名前を聞いて、雅由美は目を丸くした。

麗華たちから「うちの高校から東大に進学したのは雅由美だけではない」と

聞いてはいたが、まさかこんな偶然で出会うとは思っていなかったのだ。


「まあ! あなたが水無月さんでしたのね。

同じ学び舎からこちらへ進学された方がいらして、心強いですわ」


雅由美が手を差し出そうとしたが、瑞希はびくっと肩を震わせ、

後ずさりをしてしまった。その拍子に、抱えていた本が数冊、

芝生の上にドサリと落ちてしまう。


「あっ……ご、ごめんなさい! 私みたいな地味な人間が、

神龍寺さんのような……雲の上の人と、お話なんて……っ」


高校三年間、図書委員としてひっそりと過ごしてきた瑞希にとって、

学校のカリスマであり「完璧な令嬢」である雅由美は、

住む世界が違いすぎる、眩しすぎる存在だったのだ。


「雲の上、だなんて……」


雅由美は少し困ったように微笑むと、しゃがみ込んで、

瑞希が落とした本を丁寧に拾い上げた。


「これは……『吉野朝太平記』に、フランスの古い詩集……?

とても興味深いご本を読まれているのね」


「え……? あ、はい……歴史と、文学が、少し好きで……」


「私も、古典文学はよく読みますのよ。特にこの詩人の紡ぐ言葉は、

情景が目に浮かぶようで、とても美しいと思いますわ」


雅由美が、拾い上げた本を大切に撫でながら、心からの笑顔を向ける。

その瞳には、令嬢としての驕りも、極道のトップとしての威圧感もなかった。

ただ、純粋に知的好奇心を共有できる相手を見つけた、

等身大の、十八歳の少女の輝きがあった。


瑞希は分厚い眼鏡の奥で、瞬きを繰り返した。

冷たくて近寄りがたい完璧な令嬢だと思っていた彼女が、

こんなにも温かく、気さくな人だったなんて。


「神龍寺さん……あの、もし、ご迷惑でなければ……」


瑞希が、少しだけ勇気を出して、小さな声で紡ぐ。


「この後、空きコマなんですけど……良ければ、その詩集のお話を、

もう少し、聞かせていただけませんか……?」


その申し出に、雅由美の顔がパッと華やいだ。


「ええ、喜んで! 静かで美味しいお紅茶を出してくれるカフェを

見つけたのです。ご一緒しましょう、瑞希さん」


「……はいっ」


春の木漏れ日の中、二人の少女は並んで歩き出した。

華やかな麗華や栞とは全く違うタイプだけれど、

裏社会のしがらみや、家柄の重さとは完全に無縁な、新しい友人。


雅由美にとって瑞希の存在は、重い代紋の刺青を下ろし、

「ただの等身大の女子大生」として呼吸ができる、

かけがえのない、清らかな居場所となっていった。

桜の花びらが、二人の新しい門出を祝うように、足元で優しく舞っていた。






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