第八章
三月下旬。卒業式の喧騒と、あの決定的だった夜から数日が過ぎた。
春分を過ぎた風はどこまでも柔らかく、神龍寺の本邸宅の広大な庭園では、
樹齢百年を超える見事な枝垂れ桜が、薄紅色の蕾を一斉に綻ばせ始めていた。
静謐な空気に包まれた奥座敷。微かに漂う伽羅の香の匂いの中、
雅由美は、療養中の祖父・虎一朗と、それに寄り添う祖母の前に端座していた。
「お祖父様、お祖母様。……本日は、お二人に見ていただきたいものがございます」
「……雅由美。改まって、どうしたというんだ」
虎一朗が、少し不思議そうに、けれど孫娘を慈しむような穏やかな目を向ける。
雅由美は深く一礼をすると、静かに立ち上がり、背を向けた。
今日、彼女が身に纏っているのは、白地の清楚な着物である。
鳶色の瞳を伏せ、雅由美は帯を解き、着物の背をゆっくりと肌脱いだ。
「な……っ!」
「雅由美……あなた、それは……!」
背後の二人から、同時に息を呑む音が聞こえた。
障子越しに差し込む春の柔らかな日差しが、白磁のような無垢な背中を照らす。
そこには、腰の深い位置から肩口にかけて、鮮やかな色彩を放ちながら、
今にも天を割って咆哮しそうな「昇り龍」が、生々しく息づいていた。
「私が……龍神連合会の代紋を、そしてお祖父様の居場所を継ぎますわ」
雅由美は着物を肩に掛け直し、再び祖父母の正面へと向き直って深く頭を下げた。
虎一朗の大きな手が、わななき、畳を強く掴んでいる。
「お前……これほどのものを彫るのに、どれほどの激痛が伴うか……っ」
「一月で仕上げましたの。少しばかり、熱が出ましたけれど」
「馬鹿な……! 一月で、これほどの彫り物を!? お前はまだ……っ」
虎一朗の言葉が、震え、途切れた。
極道の世界で生きてきた彼だからこそ、その痛みがどれほど凄絶なものか、
そして、それを一切表情に出さず学校生活を送っていた孫娘の精神力が
どれほど常軌を逸しているか、痛いほどに理解できたのだ。
「お祖父様が愛し、守り抜いてきた代紋です。私が背負うに不足はありませんわ」
「雅由美……ああ、なんて痛々しい……っ。でも、なんと見事な……」
祖母が両手で顔を覆い、とめどなく涙を流している。
虎一朗は、強く噛み締めた唇から血を滲ませながら、
ただただ、孫娘の真っ直ぐな、一切の迷いのない鳶色の瞳を見つめ返した。
「……血の雨が、降るぞ」
「私が、この傘で全て防いでみせます。誰の血も、流させはいたしません」
その言葉に宿る、圧倒的な気迫と覚悟。
虎一朗はゆっくりと目を閉じ、そして、絞り出すような声で言った。
「……見事だ。お前は、わしの誇りだよ、雅由美」
「ありがとうございます、お祖父様」
それから三日後の、吉日。
龍神連合会の本家、百畳敷きの大広間には、息詰まるような重い空気が満ちていた。
全国から集まった大幹部たちが、渋紙色の顔をして居並んでいる。
牙島の一件があり、組織の内部には疑心暗鬼と不穏な気配が渦巻いていた。
上座には、顔色こそ悪いものの、威風堂々たる会頭・虎一朗が座している。
その隣には、龍神連合会の副会頭であり、虎一朗の右腕として
長く組織を支えてきた隻眼の老極道、郷田の姿があった。
「皆の者、よく集まってくれた。本日は他でもない、わしの跡目の話だ」
虎一朗の重く響く声に、幹部たちの間にどよめきが走った。
「会頭、まさか……本当に引退なさるおつもりで?」
「ああ。そして、次期会頭となる者を、ここに紹介する」
大広間の襖が、静かに開かれた。
下座からゆっくりと歩みを進めてきたのは、豪奢な黒留袖に身を包んだ、
容姿端麗な十八歳の少女――神龍寺雅由美であった。
彼女の後ろには、護衛として鋭い眼光を放つ竜也が控えている。
「……なっ、会頭! いくらなんでも、ご冗談が過ぎますぜ!」
「お孫さんとはいえ、女子供にこの巨大な組織がまとまるわけがねえ!」
「そうだ! 他の組に舐められちまう!」
怒号にも似た反対の声が、大広間に響き渡る。
しかし、雅由美の表情は凪いだ水面のように穏やかだった。
彼女は上座の前に静かに座ると、居並ぶ幹部たちを見据えた。
「皆様方。龍神連合会の代紋は、それほど軽いものでしょうか」
凛とした、しかしよく通る冷たい声が、男たちの怒号をピタリと止めた。
雅由美は、ゆっくりと立ち上がり、黒留袖の帯に手をかけた。
「女子供と侮るのも無理はございません。ですが……」
シュッ、と衣擦れの音が響き、雅由美は着物の背を大きく肌脱いだ。
大広間の空気が、一瞬にして凍りついた。
「な……っ!?」
「こ、これは……見事な……昇り龍……!」
傷一つない白磁の肌に、凄まじいまでの迫力で咆哮する昇り龍。
それがただの刺青ではないことは、修羅場を潜り抜けてきた極道たちには
一目でわかった。彫られたばかりの、生々しいまでの色彩。
それを一月という短期間で、誰にも悟られずに完成させたという事実。
「……この痛みを、ただ一人で耐え抜いたというのか……」
最前列に座っていた歴戦の幹部の一人が、わななきながら呟いた。
「墨熱で狂うほどの激痛だったはずだ。それを、この細いお体で……」
「会頭の代紋を守るために、これほどの覚悟を……っ」
大広間のあちこちから、すすり泣くような音が漏れ始めた。
命のやり取りをしてきた男たちが、十八歳の少女の背中を見て、
その壮絶な覚悟と痛みを想い、次々と涙を流して畳に額を擦り付けていく。
竜也でさえ、その光景に目頭を熱くして奥歯を噛み締めていた。
「……見事な覚悟です、お嬢」
静寂の中、上座に控えていた副会頭の郷田が、ゆっくりと立ち上がった。
数多の抗争を生き抜いてきた隻眼の老極道は、雅由美の前に歩み寄り、
その場に深く、深く平伏した。
「この郷田、お嬢の……いや、八代目会頭のその心意気に、命を賭して応えましょう」
「郷田様……」
「皆の者! 見たか、このお方の覚悟を! 我が龍神連合会は、盤石である!」
郷田の力強い一喝に、涙を流していた幹部たちが一斉に頭を上げ、
そして地鳴りのような声で「おおおおっ!」と呼応した。
反対する者は、もはや誰一人としていなかった。
その日の夕刻。
桜の花びらが舞い散る庭園を望む大広間で、厳かに「跡目の盃」が執り行われた。
白無垢のような白の着物に着替えた雅由美が、上座の中央に端座している。
重厚な漆塗りの三方に乗せられた盃が、郷田の手によって雅由美へと差し出された。
「……頂戴いたしますわ」
雅由美は両手で盃を受け取ると、静かに口へと運び、飲み干した。
その美しい所作に、居並ぶ幹部たちは息を詰めて見入っている。
盃を下ろし、鳶色の瞳を真っ直ぐに前へと向けた瞬間。
彼女を包む空気が、ただの「完璧な令嬢」から、
数万の極道を束ねる「絶対的な頂点」のそれへと、完全に切り替わった。
「これより、神龍寺雅由美が、龍神連合会八代目を継承いたします」
「「「おめでとうござんす!!」」」
百人を超える幹部たちが、一斉に深く頭を下げる。
その壮観な景色を見下ろしながら、雅由美は心の奥底で静かに誓った。
(お祖父様。私は、必ず皆様の居場所を守り抜いてみせますわ)
血の雨を降らせることなく、優雅に、そして質実剛健に。
ここに、前代未聞の「完璧な令嬢にして極道のトップ」が、正式に誕生したのだった。




