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第十章



四月も下旬。

宵の口の東京は、春の霞が晴れ、澄んだ夜空に都会のネオンがきらきらと瞬いていた。

都内を一望できる超高層タワーの最上階。

完全紹介制の最高級フレンチレストラン『ル・シエル・エトワレ』のVIP個室には、

神龍寺家の一家が揃い、雅由美の東京大学入学を祝うささやかな祝宴が開かれていた。


テーブルには、春の食材をふんだんに使った芸術品のような料理が並び、

バカラのグラスに注がれたヴィンテージのシャンパンが、

シャンデリアの光を反射して黄金色の泡を立てている。


「雅由美、改めて入学おめでとう。お前は我が家の、いや、私の最高の誇りだよ」


大企業CEOである父・隆之が、目尻を下げて嬉しそうにグラスを掲げた。

雅由美は上品なミッドナイトブルーのディナードレスに身を包み、

完璧な令嬢の微笑みを浮かべてグラスを軽く打ち合わせる。


「ありがとうございます、お父様。今日はお忙しい中、

このような素敵なお席を設けていただいて、本当に感謝しておりますわ」


「ふふっ。お父様ったら、雅由美の入学式の日は、

お仕事中もずっと式の映像をご覧になって、こっそり泣いていらしたのよ」


エレガントなシルクのドレスを着こなす母の百合子が、

口元を扇子代わりに手で覆いながら、楽しげに秘密を明かした。


「母さん、それを言うなら親父だけじゃない。

会社の役員会議で『うちの妹が東大の総代になった』って、

親父と俺で三十分も自慢話をしたせいで、会議が押しに押したんだから」


若手役員である兄の貴哉が、苦笑しながら子羊のローストを切り分ける。


「もう、お父様もお兄様も大袈裟ですわ。

ただ、代表としてご挨拶をさせていただいただけですのに」


「そんなことありません! お姉様のあの答辞、本当に素敵でした!

私、お姉様の妹に生まれて本当に良かったです!」


高校二年生になった妹の彩美が、目をキラキラと輝かせて身を乗り出した。


家族の誰一人として知らない。

目の前で優雅に微笑む完璧な令嬢が、その美しいミッドナイトブルーの

ドレスの下に、極道の頂点に立つ「八代目会頭」の証である

昇り龍の刺青を背負い、すでに数多の修羅場を潜り抜けていることを。


「そういえば雅由美。大学の生活には、もう慣れたのかい?

高校の時のように、気の合うお友達はできただろうか」


父の優しい問いかけに、雅由美は少しだけ鳶色の瞳を細め、

春の陽だまりのような温かな笑みを浮かべた。


「ええ。とても素敵な、新しいお友達ができましたの。

水無月さんといって、本を読むのが大好きな、優しくて静かな方ですわ」


「まあ、雅由美に新しいお友達が。それは安心したわ。

今度ぜひ、お家にも遊びにいらして頂戴ね」


「はい、お母様。彼女とは一緒に図書館で古い詩集を読んだり、

カフェでお紅茶の茶葉について語り合ったり……。

毎日が、とても穏やかで充実しておりますのよ」


嘘偽りのない、純粋な女子大生としての充実した日々の報告に、

家族は安堵の息をつき、和やかな笑い声が個室に満ちていく。

家族の愛情に包まれるこの時間こそが、雅由美にとって、

何よりも守り抜くべき「表の顔」であり、かけがえのない宝物だった。



食事も中盤に差し掛かり、絶品のデザートが運ばれてくる前。

雅由美はふと立ち上がり、家族へと優雅に一礼した。


「少し、お化粧室へ行ってまいりますわ」


「ええ、いってらっしゃい。デザートのミルフィーユ、

とても美味しいそうだから、早く戻ってきてね」


彩美に手を振られ、雅由美は個室を後にした。

防音の効いたVIPルームを出ると、レストランの長い廊下は

ダウンライトに照らされ、静寂に包まれていた。

雅由美はピンヒールの音を立てないように、滑らかな足取りで

化粧室へと向かって歩を進める。


しかし、廊下の角を曲がった奥。

他の客からは見えにくい、一番奥のVIPルームの半開きになった扉から、

ただならぬ怒声と、グラスが割れるような鋭い音が漏れ聞こえてきた。


「おい、いい加減に大人しくついてこい! ドンの孫娘とはいえ、

日本じゃ俺たちのルールに従ってもらうぜ!」


「……小姐(お嬢様)、お下がりください! ぐはっ……!」


重い打撃音と共に、年老いた男性のくぐもったうめき声が響く。

雅由美は歩みを止め、音のする方へと視線を向けた。

扉の隙間から見えたのは、ガラの悪い半グレ風の男たちが数人、

美しい翡翠の瞳を持つ、チャイナドレスを着た外国人の少女と、

彼女を庇うように倒れ込んでいる老護衛を取り囲んでいる光景だった。


(……あら)


雅由美の鳶色の瞳から、先程までの令嬢の温かな光がスッと消え去り、

氷のように冷たく、底知れぬ凄みを帯びた「極道のトップ」の光が宿る。


私を愛してくれる家族の、温かな祝宴が開かれているこの場所で。

お祖父様が治めてきた、この日本の美しい夜景が広がる場所で。


(このような野蛮な不作法は、決して見過ごせませんわね。

……それに、あの少女を見捨てるわけにはいきません)


雅由美は静かに息を吸い込むと、周囲を見渡し、

廊下の隅に置かれていたルームサービス用のワゴンから、

ピカピカに磨き上げられた「銀のトレイ」を一つ、優雅な手付きで取り上げた。

そして、ミッドナイトブルーのドレスの裾をわずかに持ち上げ、

足音一つ立てずに、半開きの扉へと近づいていった。


「……失礼いたしますわ」


鈴を転がすような、涼やかな声が室内に響いた。

乱暴に蹴り開けられた扉の隙間から、銀のトレイを胸元に抱えた雅由美が、

まるで給仕の続きでもするかのような優雅な所作で足を踏み入れる。


「なんだてめえ、入ってくんじゃねえよ!」


逆上した男の一人が、太い腕を振り回して雅由美に掴みかかろうとする。

雅由美は、鳶色の瞳をすっと細めた。

ミッドナイトブルーのドレスの裾が、夜の帳のように美しく翻る。

彼女は、男の突進を柳に風と受け流すと、手にしていた銀のトレイを

円を描くように一閃させた。


「あぐっ……!」


鈍い衝撃音と共に、トレイの縁が男の顎を的確に捉える。

男は声も上げられず、糸の切れた人形のように絨毯の上へ崩れ落ちた。

残りの男たちが驚愕に目を見開く中、雅由美はトレイを鏡のように構え、

そこに映る自分の乱れぬ髪を一瞬だけ確認して、微笑んだ。


「静粛になさい。ここは紳士淑女の集う場所……、

野良犬が吠えて良い場所ではございませんわ」


「このアマ……、ぶち殺してやる!」


残る三人が一斉に襲いかかる。

雅由美はヒールを履いているとは思えない流麗な足捌きで、

狭い室内をワルツを踊るように舞った。

突き出された拳をトレイの面で受け流し、その勢いを利用して相手を壁へと叩きつける。

さらにもう一人の首筋をトレイの角で鋭く突き、瞬時に意識を断ち切った。


「ひっ……な、なんだ、あんたは……!」


最後に残った男が、腰を抜かして後ずさる。

雅由美はゆっくりと歩み寄り、トレイを男の鼻先にぴたりと突きつけた。

鏡面のようなトレイに、男の怯えきった顔が歪んで映り込む。


「……私の家族の祝宴を汚した罪、万死に値しますわ。

今すぐ消えなさい。さもなくば、夜景の一部にして差し上げます」


その瞳に宿る、底知れぬ漆黒の威圧感。

男は悲鳴を上げて、逃げるように部屋を飛び出していった。



嵐が去った後のような静寂が、VIPルームに満ちる。

雅由美はふっと肩の力を抜き、倒れていた老護衛を助け起こした。


「大丈夫ですか? ……あなたも、お怪我はありませんこと?」


雅由美が視線を向けた先。

そこには、乱れたチャイナドレスを整えながら、

翡翠のような瞳を大きく見開いて立ち尽くす少女がいた。

美玲ワン・メイリン

彼女は、自分を助けた「日本一の令嬢」の圧倒的な美しさと強さに、

魂を奪われたかのように見惚れていた。


「……謝謝。あなたは、まるで月光の女神のようね」


「まあ。お上手ですわね。私はただ、通りすがりの学生ですわ」


美玲は、雅由美の手を取り、その指先に敬意を込めて唇を寄せた。


「私は王 美玲。香港の『九龍会』、王 ワン・ロンの孫娘。

この恩は必ず返すわ。……あなたの名前を教えて?」


「……神龍寺 雅由美。……それでは、私は家族が待っておりますので。

ごきげんよう」


雅由美は銀のトレイをそっとワゴンの上に戻すと、

何事もなかったかのような優雅な足取りで、自分の個室へと戻っていった。



個室の重厚な扉を開けると、そこにはデザートを前にした家族の笑顔があった。


「お帰りなさい、雅由美! 遅かったわね、もうミルフィーユが運ばれてきたわよ」


彩美が嬉しそうにフォークを振る。


「ごめんなさい。少しお化粧直しに手間取ってしまいましたわ」


雅由美は椅子に腰を下ろし、再び「完璧な娘」の顔に戻る。

数分前に銀のトレイで男たちの骨を砕いていたことなど、

微塵も感じさせない、甘く優しい微笑み。

家族に囲まれ、美味しいデザートを口にするその瞬間、

雅由美の心は、春の陽だまりのような穏やかさに満たされていた。





数日後の、昼下がり。

神龍寺の本邸、龍神連合会の本部に、一台の豪華なリムジンが乗り入れた。

正面玄関から現れたのは、数日前のチャイナドレスとは打って変わり、

洗練されたスーツに身を包んだ美玲であった。


「……お嬢、香港の『九龍会』から、正式な使者がお見えです」


竜也が緊張した面持ちで報告に来る。

雅由美は奥座敷で、静かにお茶を点てながら彼女を迎え入れた。


「……やはり。あの日の方が、龍神連合会の新会頭だったのね」


美玲は雅由美の前に座ると、翡翠の瞳を輝かせ、深く頭を下げた。


「私はあなたに、魂を奪われたわ。

香港と日本……私たちは、海を越えて手を取り合うべきよ」


美玲の言葉に、雅由美はふわりと微笑み、点てたばかりの茶を差し出した。


「ええ。不作法な者たちから庭を守るには、協力も必要ですわね。

……ようこそ、龍神連合会へ」


日本の極道と香港マフィア。

二人の若き女性トップが、国境を越えて強固な同盟を結んだ瞬間だった。

雅由美の背中で、昇り龍が新たな冒険を予感させるように、

静かに、そして熱く疼いていた。



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