第十一章
五月。風薫る季節を迎え、東京大学のキャンパスは眩しいほどの新緑に包まれていた。
銀杏並木の若葉が初夏の陽光を透かし、きらきらと風に揺れている。
喧騒から少し離れた静かなテラス席で、雅由美は新しい親友である瑞希と共に、
穏やかな午後のティータイムを楽しんでいた。
「瑞希さん。そのご本、とても読み応えがありそうですわね」
雅由美がダージリンのカップを置き、ふわりと微笑みかける。
瑞希の手には、まるで鈍器のように分厚い、海外の歴史専門書が握られていた。
「あ、はい……。中世ヨーロッパの、少し専門的な学術書なんですけれど……
読むのに時間がかかってしまって、恥ずかしいです……」
「そんなことありませんわ。ひとつの物事に深く向き合うお姿は、とても素敵よ。
よろしければ今度、私にもお勧めの章を教えてくださる?」
「ええっ、神龍寺さんになら、私でよければ喜んで……!」
分厚い眼鏡の奥で、瑞希が嬉しそうに目を瞬かせた。
そんな平和で知的な会話が交わされていた、まさにその時だった。
キャンパスの入り口付近から、にわかに学生たちのどよめきが沸き起こった。
「な、なんだあの美少女……留学生か?」
「後ろに黒服みたいなの連れてないか……? すげえオーラだ……」
ざわめきが波のように広がる中、カツ、カツとピンヒールの音を響かせて、
一人の少女がテラス席へと真っ直ぐに歩み寄ってきた。
艶やかな黒髪に、宝石のように輝く翡翠の瞳。
見事なプロポーションを包むのは、モダンにアレンジされた、
深い緑色のチャイナテイストの高級ブランドワンピースである。
「雅由美! 会いたかったわ!」
周囲の視線など全く気にする様子もなく、少女――王美玲が満面の笑みを浮かべた。
「あら……美玲さん。ごきげんよう。日本へ短期留学にいらしたのね」
雅由美が驚く素振りも見せずに優雅に微笑み返すと、
美玲は雅由美の隣で目を丸くして固まっている瑞希へと、鋭い視線を向けた。
「雅由美、そちらの方は? ……なるほど。あなたが雅由美の新しい護衛ね?」
「……えっ?」
「その分厚い洋書の中に、特殊な暗器(武器)を隠しているのでしょう。
学生に成りすますとは、素晴らしい偽装だわ。感服したわよ」
「えっ……!? あ、あんき……?」
突然の物騒な言葉に瑞希が震え上がると、美玲は「優秀な護衛には敬意を払うわ」と、
瑞希の手を両手でがっしりと握りしめ、情熱的に上下に振った。
「あ、あの……はじめまして……?」
「ええ、よろしく頼むわね、名もなき凄腕のボディーガードさん!」
海外特有の熱烈な挨拶なのだと完全に勘違いした瑞希は、
顔を真っ赤にしてペコペコと頭を下げている。
雅由美は二人の絶妙に噛み合わないやり取りを、ただ楽しそうに見守っていた。
一方、少し離れた木陰では、その光景を監視していた竜也が、
胃薬の瓶を握りしめながら、木に手をついてうなだれていた。
「お嬢が二人になったようなものだ……俺の胃壁はもう限界だ……っ」
香港マフィアの姫君の登場により、キャンパスの平穏な日常は、
あっという間に華やかで騒がしい狂詩曲へと変わっていった。
その日の放課後。日の落ちた神龍寺家の本邸。
静寂に包まれた奥座敷には、伽羅の香が微かに漂っていた。
昼間のキャンパスでの明るい表情とは打って変わり、
上座に座る雅由美の鳶色の瞳には、冷たく研ぎ澄まされた光が宿っている。
「……それで、美玲さん。日本へいらした『本当の理由』をお聞かせ願えるかしら」
雅由美が静かに問いかけると、向かいに座る美玲の表情が険しく引き締まった。
「単刀直入に言うわ、雅由美。……『黒蓮門』が動いたの」
「黒蓮門……香港で、九龍会と対立している巨大シンジケートですわね」
「ええ。奴ら、どうやら日本の極道の一部……牙島の残党と手を組んだようなの。
そして、私とあなたを同時に消すために、凄腕の刺客を日本へ送り込んできたわ」
美玲が、翡翠の瞳を伏せて悔しそうに唇を噛んだ。
「ごめんなさい、雅由美。私のせいで、あなたまで危険に巻き込んでしまって……。
あなたという強力な同盟者を、奴らは何より恐れているのよ」
沈黙が座敷に降りる。
控えていた竜也が、殺気を放って刀の柄に手をかけようとした、その時だった。
「まあ。……お茶が、少し冷めてしまいましたわね」
雅由美は涼しい顔で茶釜から湯を掬い、新しいお茶を静かに点て始めた。
そのあまりにも落ち着き払った優雅な所作に、美玲は小さく息を呑む。
「お友達を歓迎するのに、危険も何もありませんわ。
ここは私のお庭……龍神の庭ですもの。不作法な客は、共にお引き取り願いましょう」
点てられたばかりの、鮮やかな緑色をした抹茶が入った茶碗が、
美玲の目の前へと静かに差し出される。
「雅由美……」
「美玲さん。週末は、我が家が所有する日本庭園で、野点の茶会を開きます。
瑞希さんも、日本文化の勉強にお誘いしましたの」
「……茶会? 刺客が迫っているこの状況で?」
「ええ。美しい新緑を楽しみながら……お掃除には、絶好の機会ですわ」
完璧な令嬢の微笑みの奥に潜む、極道のトップとしての絶対的な自信と覚悟。
美玲は翡翠の瞳を輝かせ、差し出された茶碗を両手で受け取った。
「……ふふっ。本当に、あなたは最高に狂っていて、最高に美しいわ」
二人の若きトップの間に、言葉以上の強固な絆が結ばれる。
春の夜風が障子を揺らし、来るべき優雅な死闘の始まりを、静かに告げていた。
週末。雲一つない初夏の青空の下、神龍寺家が所有する広大な日本庭園は、
目に鮮やかな新緑と、心地よい静寂に包まれていた。
鹿威し(ししおどし)が時折、こおんと澄んだ音を響かせる中、
池のほとりに設けられた緋毛氈の席で、優雅な野点が催されている。
「瑞希さん。その薄桃色のお着物、新緑に映えてとてもよくお似合いですわ」
雅由美が、完璧な所作で茶筅を振りながら微笑んだ。
彼女自身は、格調高い若竹色の訪問着を、一切の隙もなく着こなしている。
「あ、ありがとうございます……! こんな立派なお庭で、
お茶をいただけるなんて、緊張してしまって……」
不慣れな着物姿で縮こまる瑞希の隣では、美玲が豪快に笑っていた。
彼女は、深いスリットの入ったチャイナドレス風に仕立て直された、
特注の真紅の着物を纏い、扇子を優雅に揺らしている。
「瑞希、もっとリラックスしていいのよ。雅由美のお茶は絶品だからね。
……それにしても、日本の庭園というものは、本当に隠れ場所が多いわね」
美玲が扇子で口元を隠しながら、翡翠の瞳をすっと細めた。
その視線の先にある茂みが、風もないのに微かに、不自然に揺れたのだ。
「……ええ。お庭の手入れが行き届きすぎているのも、考えものですわね」
雅由美は茶筅を置くことなく、涼しい声で応じた。
一般人である瑞希には感じ取れないであろう、濃密な殺気が幾つも、
木々の陰からこちらへと真っ直ぐに向けられている。
「瑞希さん。少し風が冷たくなってまいりましたね」
「え……? あ、はい。そう、でしょうか……?」
「あちらの東屋に、お茶菓子のおかわりが用意してあるの。
私と美玲さんは少しお話しがありますから、あちらで待っていてくださる?」
「は、はい! 私、行ってきますね!」
雅由美の優しくも有無を言わせぬ言葉に、瑞希は素直に頷き、
小走りで遠くの東屋へと向かっていった。
彼女の背中が見えなくなった瞬間。
庭園の静寂を切り裂くように、庭師の作務衣に身を包んだ男たちが、
木々の陰から一斉に姿を現し、二人の少女を取り囲んだ。
「……黒蓮門の暗殺部隊と、牙島の残党、といったところかしら」
雅由美が竹の柄杓を手に取り、静かに立ち上がる。
「雅由美。私の国からやってきた害獣の始末は、私に任せてもらえる?」
美玲は扇子をパチンと閉じると、真紅の着物の裾を翻して前に出た。
「ええ、美玲さん。ですが、日本のお庭を汚す者は、私が掃除いたしますわ」
「殺せっ!!」
男の号令と共に、複数の刃が二人に襲いかかる。
美玲は、チャイナドレス風の着物のスリットから美しい脚を閃かせ、
アクロバティックで華麗な中国拳法で、男たちの顎を正確に撃ち抜いた。
「ぐああっ!」
一方、雅由美へと刃を振り下ろそうとした男の腕は、
空を切り、そのまま池の方へと大きく体勢を崩された。
雅由美は一切の乱れを見せない完璧な和装のまま、
手に持った竹の柄杓で敵の関節の死角を的確に突き、
合気道の流れるような体捌きで、男たちを池の中へと次々に沈めていく。
ザバーンッ! という水柱が連続して上がる。
「美玲さん、お着物が汚れますわよ。少しお下がりになって」
「心配ご無用よ、雅由美。彼らの血を一滴も浴びるつもりはないわ」
背中合わせになった二人の若きトップは、まるで舞を踊るかのように、
美しく、そして冷酷に、刺客たちの力を奪っていった。
武器を持った屈強な大男たちが、一切の反撃もできず、
ただの小枝のように軽々と宙を舞い、大理石の飛び石や池へと叩きつけられる。
その圧倒的な強さと、凄まじい気迫の前に、
残った刺客たちは完全に戦意を喪失し、その場にへたり込んだ。
「……私が龍神連合会、八代目会頭です。二度と、私の庭に立ち入らせない」
雅由美が見下ろす冷たい鳶色の瞳に、男たちは恐怖に顔を引き攣らせた。
「お嬢っ! 申し訳ありません、警備の網を抜かれるとは……!」
遅れて駆けつけた竜也と黒服の組員たちが、血相を変えて飛び込んでくる。
「竜也さん。この方たちは少し池で水遊びをなさったようですわ。
瑞希さんが戻る前に、速やかにお引き取り願って」
「ハッ! ただちに!」
竜也の指示で、ずぶ濡れになった刺客たちは瞬く間に引きずり出されていく。
そして、庭園に再び静寂と鹿威しの音が戻ってきた頃。
「神龍寺さん、お待たせしました! お茶菓子、持ってきましたよ」
何も知らない瑞希が、両手にお菓子の入った重箱を抱えて、
東屋からニコニコと戻ってきた。
「ありがとう、瑞希さん。少しお待たせしてしまいましたわね」
雅由美は、何事もなかったかのように乱れぬ着物姿で座り直し、
新しい抹茶を静かに点て始めた。
美玲も、池の方を見て首を傾げる瑞希に向かって、楽しげにウインクをする。
「なんだか、池の鯉がとても元気みたいね。さあ、お茶にしましょうか」
刺客を退け、美玲との絆は真の「盟友」へと昇華された。
そして、裏の世界を知らない親友との穏やかな時間も、無事に守り抜いた。
完璧な令嬢、極道の若き会頭、そして国際同盟の中心。
三つの顔を使い分けながら、雅由美の美しくも忙しい日々は、
初夏の日差しの中で、さらに鮮やかに輝き続けていくのだった。




