第十二章
五月下旬。
東京大学の本郷キャンパスは、一年で最も熱気に満ちる「五月祭」の喧騒に包まれていた。
初夏の陽光が歴史ある赤レンガの講堂や、見事な銀杏並木を明るく照らし出し、
無数の模擬店から漂う香ばしい匂いと、学生たちの活気あふれる笑い声が交差している。
そんなキャンパスの一角、文学サークルが主催する「アンティーク・古書カフェ」は、
ひときわ異様な、しかし圧倒的な熱気に包まれていた。
「いらっしゃいませ。奥の席へご案内いたしますわ」
蓄音機からレトロなジャズが流れる教室で、完璧な大正ロマン風の
矢絣の着物に、海老茶色の袴を身に纏った雅由美が優雅に微笑む。
その凛とした美しさと完璧な所作に、並んでいた男子学生たちが次々と顔を赤らめた。
しかし、彼らがカフェの奥へと足を踏み入れた瞬間、その顔色は真っ青に変わる。
「……お冷でございます」
「ご注文は、以上でよろしかったですか」
完璧な仕立ての執事服(燕尾服)を着こなした、二人の大男。
竜也と黒田である。
雅由美の護衛として無理やり駆り出された二人は、白い手袋まで嵌めて
真面目に給仕を行っていたが、顔の傷と隠しきれない極道の凄み、
そして鋭い眼光のせいで、どう見ても「借金の取り立てに来たマフィア」だった。
「ひっ……! あ、ありがとうございます……っ!」
客の学生たちは震える両手でティーカップを受け取り、借りてきた猫のように
背筋を伸ばして紅茶をすすっている。
「竜也さん、黒田さん。とても板についていらしてよ。
でも、もう少し口角を上げて、にっこりと微笑んでみてはいかがかしら」
雅由美が楽しげに声をかけると、竜也は胃のあたりをきつく押さえた。
「お嬢……笑えとおっしゃいますが、俺たちが笑うと、
客が本気で命の危機を感じて逃げ出してしまうんです」
「黒田の奴など、先ほど『お代は結構です』と言っただけで、
学生が財布の中身を全額テーブルに置いて土下座しかけましたからな」
その時、教室の入り口からひときわ華やかな歓声が上がった。
「まあっ! なんて素敵なコンセプトカフェなのかしら!」
「本当ですわ! アンティークな洋書と、危険な香りのする執事たち……!」
麗華、栞、茉莉恵、そして美玲の四人が、連れ立って遊びに来たのだ。
瑞希が慌ててメニューを持って駆け寄る。
「あ、麗華さん、栞さん……いらっしゃいませ」
「瑞希さん、ごきげんよう! 雅由美お姉様から伺っておりましたわ、
このワイルドでスリリングな執事カフェ、最高です!」
茉莉恵が目を輝かせて竜也を見上げる。
「竜也お兄様、その執事服、とってもセクシーです!
なんだか、今にも銃を取り出して戦い始めそう!」
「茉莉恵、頼むから俺をこれ以上いじらないでくれ……っ。胃が……」
「フフッ。日本の学園祭というのも、なかなか刺激的で面白いわね」
美玲がチャイナドレス風のワンピースを翻し、楽しそうに笑う。
完璧な令嬢と、極道の執事たち、そして勘違いを加速させる親友たち。
古書カフェは、雅由美の二重生活を象徴するような、賑やかな狂騒に包まれていた。
しかし、五月祭の喧騒の裏側で、もう一つの顔が雅由美を呼んでいた。
キャンパスの奥、歴史的建造物である大講堂の特別室。
ここでは、大学の美術学部と財界が共催する、
VIP限定の「チャリティー・アートオークション」が極秘裏に開催されていた。
カフェを抜け出し、漆黒のイブニングドレスに着替えた雅由美は、
龍神連合会の会頭、すなわち若き財界のパトロンとして、
薄暗い照明に落とされた優雅な会場の最後列に静かに座っていた。
本日の目玉は、神龍寺家が寄贈した国宝級の日本画である。
(……やはり、入り込んでいますわね)
雅由美は、シャンパングラスを傾けながら、鳶色の瞳を冷たく細めた。
黒蓮門と繋がりのある国際的な窃盗団が、この日本画を強奪し、
神龍寺家の顔に泥を塗るために潜入しているという情報を、
竜也からの裏報告で得ていたのだ。
『それでは皆様、本日のメインピースをご紹介いたします——』
司会者が声を張り上げ、ステージ上のアンベールが行われようとした、その瞬間。
バツンッ!
突然、会場の全ての照明が落ち、完全な暗闇に包まれた。
「きゃあっ!」「なんだ、停電か!?」と、来賓たちのパニックの声が上がる。
同時に、ガラスの割れる音と共に、暗視ゴーグルと防毒マスクを装備した
武装集団が、窓から音もなく会場へと侵入してきた。
「動くな! 大人しくしていれば、命までは取らねえ!」
男の一人が天井に向けて威嚇の銃口を向けようとした、まさにその時。
暗闇の中、コツン、とピンヒールの響く音が静かに、しかし鮮明に鳴った。
「……お祖父様の愛した美術品に、薄汚い手を触れないでいただけますか」
非常灯の薄暗い赤い光の中。
漆黒のドレスに身を包んだ雅由美が、ゆっくりと立ち上がった。
その両手には、美術品を扱うための、純白の白手袋が優雅にはめられている。
「なんだこの女……構わねえ、やっちまえ!」
暗視ゴーグルをつけた男たちが、雅由美へと一斉に襲いかかる。
しかし、雅由美は全く怯むことなく、展示品を囲むために置かれていた
重厚な真鍮製の「パーテーションポール」を、片手で軽々と持ち上げた。
「ここは神聖な学び舎……野蛮な振る舞いは、お控えになって」
雅由美は、ポールに繋がれていた赤いベルベットのロープを鞭のように振るい、
向かってくる男たちの足を鮮やかにすくい上げた。
体勢を崩した男の胸元に、真鍮のポールの柄を的確に叩き込み、
流れるような合気道の体捌きで、次々と大理石の床へと沈めていく。
「がはっ……!」
「な、なんだこの女の動きは……見えねえ!」
白手袋が暗闇の中で優雅な軌跡を描き、漆黒のドレスの裾が舞う。
銃を抜く隙すら与えず、美術品にも、会場の来賓にも一切の傷をつけない、
極めて静かで、芸術的なまでの制圧劇であった。
数分後。
雅由美が最後の男をベルベットロープで縛り上げ、
真鍮のポールを杖のようにして美しく残心を解いた、その瞬間。
バンッ!
「雅由美さん! 停電しましたけれど、ご無事ですか!?」
大講堂の重厚な扉が開き、心配した瑞希、麗華、茉莉恵、
そして美玲たちが、スマートフォンのライトを照らしながら飛び込んできた。
彼女たちがライトの光の先で目にしたのは。
薄暗い非常灯の下、漆黒のドレス姿で純白の手袋をはめた雅由美が、
黒装束の男たちを赤いベルベットロープで縛り上げ、
真鍮のポールを持って美しくポーズを決めている姿であった。
静寂が、一瞬だけ会場を支配する。
そして。
「まああああっ!! なんて素晴らしいのでしょう!!」
麗華が、感動に打ち震えながら両手を胸の前で組み合わせた。
「これ、五月祭のシークレット・パフォーマンス劇ですのね!
停電の暗闇を利用した、怪盗と令嬢のアバンギャルドな死闘……!」
「なんて前衛的な芸術なのかしら! お姉様、最高にかっこいいです!」
「ブラボー! 雅由美、見事なアクションだわ!」
麗華、茉莉恵、栞、そして事情を察して話を合わせる美玲が、
割れんばかりの拍手喝采を送り始めた。
それに釣られるように、パニックに陥っていた来賓たちも、
「えっ、あ、そういう演劇のアトラクション……?」と勘違いし、
安堵と共に次々と万雷の拍手を送り始めたのだ。
床に縛り上げられ、痛みにうめいていた本物の強盗たちは、
自分たちが女子大生やセレブたちから拍手喝采を浴びているという、
あまりにもシュールで理解不能な状況に脳の処理が追いつかず、
次々と白目を剥いて気絶していった。
やがて、自家発電が作動し、会場に眩い照明が戻った。
遅れて駆けつけた竜也と黒田が、慣れた手つきで
「素晴らしい演劇の小道具ですね」と誤魔化しながら、
気絶した強盗団を秘密裏に裏口へと運び出していく。
守り抜かれた国宝級の日本画の前で、雅由美は純白の手袋を静かに外した。
「雅由美さん、お怪我はありませんか? すごく迫力のあるお芝居でした……!」
何も知らない瑞希が、目を輝かせて駆け寄ってくる。
「ええ、ありがとう瑞希さん。少し、熱が入ってしまいましたわ」
雅由美は、親友たちへ向けて、春の陽だまりのような温かい微笑みを向けた。
極道のトップとしての責務を果たし、悪を成敗しながらも、
親友たちの「平和で楽しい学園祭の思い出」を、完璧に守り抜いたのだ。
「さあ、オークションが再開する前に、カフェへ戻りましょうか。
竜也さんたちが、きっと今頃、接客で困っていらっしゃいますわ」
「ふふっ。あの強面執事さんたちの様子、早く見に行きましょう!」
名画の微笑む大講堂を後にする少女たちの、賑やかな笑い声。
完璧な令嬢にして極道の会頭。その痛快で優雅な二重生活は、
若葉の香るキャンパスの空へ、どこまでも明るく響いていった。




