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第十三章



六月上旬の銀座は、梅雨入り前の湿り気を帯びた夜風が、

街路樹の柳を重たげに揺らしていた。

華やかな表通りの喧騒を離れ、石畳の路地を一歩入れば、

そこには静謐な大人の街が広がる。

看板のない、ただ一輪の椿が活けられただけの入り口——。

そこが、政財界の重鎮も足を運ぶ予約困難な名店『すし匠・神谷』であった。


雅由美は、涼やかな絽の訪問着に身を包み、兄の貴哉、

そして妹の彩美と共に、白木のカウンターが美しい個室へと案内された。


「雅由美、改めて三月の件は済まなかった。

せっかくの卒業パーティーだったというのに、

兄としてエスコートできず、本当に心苦しくてね」


貴哉が、職人が差し出した極上のウニを雅由美の皿へ促しながら、済まそうに微笑んだ。

その瞳には、最愛の妹を放っておいた自分への不甲斐なさと、深い慈愛が滲んでいる。


「いいえ、お兄様。お仕事ですもの、仕方がありませんわ。

今日はこうして、お兄様や彩美と一緒に過ごせて、とても幸せですこと」


雅由美は、完璧な令嬢の微笑みを浮かべながら、

淡雪のようにとろける中トロを口に運んだ。

舌の上で広がる濃厚な脂の甘みと、酢飯のキリッとした酸味の調和。

その至福の味わいの中にあっても、彼女の研ぎ澄まされた感覚は、

兄の微かな落胆を敏感に感じ取っていた。


「……お兄様、何かお悩みでもありますの?

お顔の色が、少しお疲れのようですけれど」


雅由美が何気なく問いかけると、貴哉は一瞬だけ箸を止め、困ったように苦笑した。


「はは……雅由美には敵わないな。実はね、

上海での新規事業の件で、少々手こずっていて。

現地の『紅幇ホンパン』という組織が、

理不尽な横槍を入れてきているんだよ。

このままでは、プロジェクトが頓挫しかねない」


貴哉は、ため息をつきながら冷酒を煽った。

彼にとって雅由美は「守るべき無垢な妹」だ。

まさか彼女が、その紅幇をも震え上がらせる

龍神連合会のトップであるなど、夢にも思うまい。


「まあ、それは大変ですわね……。

お兄様の情熱が、形にならないのはとても残念だわ」


雅由美は、伏せられた鳶色の瞳の奥で、静かに冷徹な計算を始めていた。

愛する兄の、未来への歩みを阻む海外の賊。

(……お掃除、して差し上げなくては)


その時、ずっと黙ってガリを摘んでいた彩美が、

耐えきれないといった様子で顔を上げた。


「……お姉様。実は、私も相談があるの。

私の親友たちが、今、凄く怖い目に遭っていて」


「どうしたの、彩美。詳しく聞かせて」


雅由美が優しく促すと、彩美の瞳に涙が溜まった。


「原宿で、すごく悪辣なスカウトマンたちに付きまとわれているの。

最初はモデルにと誘われて……でも、断ってもしつこくて。

何人かの友達は、もう強引にガールズバーとかで、

働かされているっていう噂もあるのよ……」


「ガールズバー……。それは、看過できませんわ」


雅由美の声が、僅かに低くなった。

彩美は不安そうに、姉の顔を見つめる。


「噂では、何処かの組が裏で関わっているって。

警察に言っても、まともに取り合ってくれなくて。

お姉様、どうしたらいいの……?」


「大丈夫ですよ、彩美。私がついていますわ。

そんな不作法な者たち、この街には必要ありません」


雅由美は、最後に出された極上の玉子焼きを優雅に口に運び、ゆったりと味わった。

兄のビジネスを脅かす海の向こうの悪意と、妹の平穏を脅かす身近な街のダニ。


(点と線が、繋がり始めましたわね)


白木のカウンターに置かれた彼女の白い指先が、音もなく、静かに握りしめられた。

銀座の夜の静寂の中で、若き龍がその牙を研ぎ澄まし、真実の闇へと目を向ける。

家族の笑顔を守るための、令嬢の「大掃除」。

それは、今夜の極上の一献よりも遥かに

スリリングで、冷徹な物語の幕開けであった。



 銀座での夜から数日が過ぎた、初夏の陽気を感じる昼下がり。

 神龍寺本邸の奥座敷は、静寂と伽羅の香りに包まれていた。

 開け放たれた縁側の向こうには、青々とした苔が絨毯のように広がり、

 池を泳ぐ色鮮やかな錦鯉が、初夏の日差しを弾いて水面を揺らしている。


 雅由美は、白地に淡い藤の花が描かれた涼やかな単衣の着物を纏い、

 一枚の文机に向かっていた。手元には、最高級の玉露が湯気を立てている。

 完璧な令嬢としての顔は鳴りを潜め、その鳶色の瞳には、

 数万の極道を束ねる「会頭」としての、氷のように冷たく澄んだ光が宿っていた。


「竜也さん。……お兄様を悩ませている、上海の『紅幇』についてですが」


 背後に控えていた竜也が、静かに歩み寄り、深く頭を下げる。


「はっ。調べたところ、紅幇は上海を拠点とする歴史あるマフィアですが、

近年は日本の裏社会にも、フロント企業を通じて強引に進出を企てております」


「……なるほど。他人の庭を荒らすだけでなく、私の大切な家族の

正当な商いまで邪魔をするとは。実に、お行儀が悪い方々ですこと」


 雅由美は、白磁の茶碗を優雅な手つきで持ち上げ、一口だけ含んだ。

 玉露の豊かな甘みが舌に広がるが、彼女の心はすでに遥か海の向こう、

 上海の淀んだ闇へと飛んでいた。


「お嬢。我々が直接、紅幇の日本支部に圧力をかけましょうか。

彼らのフロント企業など、三日もあれば完全に潰してみせます」


 竜也の低い声には、明確な殺気が込められていた。

 しかし、雅由美は静かに首を横に振る。


「いいえ、竜也さん。日本国内で派手な動きを見せれば、

かえってお兄様の会社の評判に、傷がつくかもしれませんわ。

それに、海を越えた問題には、海を越えた解決法というものがあります」


 雅由美は、文机の上に置かれていた最新型のスマートフォンを手に取った。

 画面を数回タップし、極秘の暗号化された国際回線を開く。

 コール音が数回鳴った後、明るく、そして力強い少女の声が響いた。


「雅由美! あなたから連絡をくれるなんて、とても嬉しいわ!」


「ごきげんよう、美玲さん。香港の気候はいかがかしら」


「こちらはもうすっかり夏よ。日本でのあなたとのお茶会が恋しいわ。

……で、今日はどんなご用件? ただの挨拶じゃないことくらい、わかるわよ」


 受話器の向こうの王美玲は、香港マフィア『九龍会』の姫君らしく、

 瞬時に甘い声から、ビジネスを察知する鋭い声へと切り替わった。


「ええ。少し、美玲さんのお力をお借りしたいことができまして。

……上海の『紅幇』という組織に、心当たりはありますかしら?」


「紅幇……ええ、知っているわ。最近、上海の利権を巡って、

うちの末端組織とも少し小競り合いを起こしている、目障りな連中よ。

あそこが、日本のあなたに何か仕掛けてきたの?」


「私にではなく、私の兄の真っ当なビジネスに、理不尽な横槍を。

……お互いにとって目障りな存在ならば、少しだけ、

彼らにお灸を据えていただけないかと思いまして」


 雅由美の静かで、しかし絶対的な冷酷さを秘めた声。

 電話の向こうで、美玲が楽しげに、クスクスと笑う声が聞こえた。


「ふふっ……あはははっ! 最高よ、雅由美。

私のかけがえのない盟友の頼みとあらば、断る理由なんてないわ。

それに、紅幇の連中に九龍会の恐ろしさを教え込む、いい口実になる」


「助かりますわ。……あまり、血の雨は降らせたくありませんけれど」


「わかっているわ、あなたのお兄様のビジネスに影響が出ないように、

経済的な締め付けと、現地の流通ルートの完全封鎖だけで済ませる。

……明日には、紅幇の幹部たちは泣いて土下座することになるわ」


「ふふっ。頼りにしていますわ、美玲さん。

今度日本にいらした時は、最高級の玉露でおもてなしいたしますわね」


 通話を終え、雅由美はスマートフォンを静かに卓上へと置いた。

 その顔には、先程までの冷徹な会頭の顔はすでになく、

 花がほころぶような、年相応の可愛らしい微笑みが浮かんでいた。


「……これで、お兄様の肩の荷も、一つ下りるはずですわ」


「お見事な手腕でございます、お嬢。

まさか電話一本で、上海の巨大マフィアを黙らせるとは」


「同盟とは、こういう時にこそ活きるものですもの。

さて……あとは、彩美を悩ませている原宿の不作法なネズミたちね」


 初夏の日差しが、彼女の白く美しい横顔を眩しく照らし出していた。

 極道のトップとしての冷酷さと、家族を想う深い愛情。

 その二つが完璧な均衡を保ちながら、雅由美の中で静かに燃え続けている。





 数日後。神龍寺家の、朝のダイニングルーム。

 淹れたてのコーヒーと、焼きたてのクロワッサンの香りが漂う中、

 新聞に目を通していた兄の貴哉が、携帯電話に出ると突然、大きな声を上げた。


「信じられない……! 奇跡だ!」


「お兄様、朝からどうなさいましたの? そんなに慌てて」


 雅由美が、完璧な令嬢の仕草でティーカップを置き、小首を傾げる。


「雅由美、聞いてくれ! 先日話していた、上海の件だよ!

あの理不尽な横槍を入れてきていた組織が、突然、一切の手を引いたんだ!

それどころか、我々の事業に全面協力するとまで言ってきて……

一体、裏で何が起きたのか、現地のスタッフも混乱しているらしい」


 貴哉は、興奮を抑えきれない様子で、何度も新聞とタブレットを見比べている。

 その歓喜に満ちた顔を見て、雅由美は心の底から安堵し、

 ふわりと、この世の春を全て集めたような、美しい微笑みを浮かべた。


「まあ、本当ですの? それは素晴らしいことですわ!

きっと、お兄様たちの真摯な情熱が、相手の心にも通じたのですね」


「情熱が……そうだな、そう思いたいよ! これでプロジェクトは安泰だ。

ありがとう、雅由美。お前が話を聞いてくれたおかげで、運が向いてきたよ」


「ふふっ。私は何もしておりませんわ。全ては、お兄様の実力ですもの」


 無邪気に笑う最愛の妹の姿に、貴哉は深く頷き、コーヒーを飲み干した。

 彼が知る由もない。

 妹のその「何もしていない」という言葉の裏で、海を越えた二つの

 巨大な裏組織が動き、一国の経済をも揺るがす圧力がかけられていたことを。


 朝の柔らかな光に包まれたダイニングで、雅由美は優雅にダージリンを味わう。

 愛する家族の笑顔を守ること。

 それこそが、彼女が背中の龍と共に生きる、最大の理由なのだから。






初夏の陽気が肌に心地よい、週末の午後。

若者たちの熱気と喧騒に包まれた原宿・竹下通りに、

ひときわ目を引く、華やかな少女たちのグループが歩いていた。


「お姉様、今日は付き合っていただいて、本当にありがとうございます!」


「ふふっ、気にしないで。私も久しぶりの原宿で、とても楽しいわ」


彩美と、彼女の高校の親友である二人の少女たち。

そして、その中心で完璧な令嬢の微笑みを浮かべているのは雅由美だった。

淡いミントグリーンのサマードレスに身を包み、ツバの広い麦わら帽子を被った

彼女の姿は、このポップな街においても、圧倒的な気品と美しさを放っている。

すれ違う人々が、思わずた振りめ息をつくほどだった。


「あちらのお店、とても可愛いアクセサリーがありましたわよ。

せっかくですから、皆様でお揃いのものを買われてはいかが?」


「わあっ、神龍寺さん、ありがとうございます! 嬉しい!」


彩美の友人たちが、花が咲いたような笑顔で歓声を上げる。

姉妹での平和な休日のショッピング。

しかし、そのすぐ後ろ、数メートル離れた電柱の陰には、

深くキャップを被り、大きなサングラスとマスクで顔を隠した大男が、

電柱と一体化しようと必死に張り付いていた。竜也である。


(お嬢の私服姿が眩しすぎて、直視できない……っ。

いや、それより、いつあの悪辣なネズミどもが姿を現すか……)


竜也は変装のつもりだったが、その尋常ではない体格と、

漏れ出る極道の凄みのせいで、完全に「不審な追跡者」にしか見えず、

周囲の修学旅行生たちが怯えて避けていく事態となっていた。



一行がクレープを購入し、少し人通りの少ない裏路地へと

足を踏み入れた、その時だった。


「おっ、今日の獲物は極上じゃねえか。そこの可愛いお嬢ちゃんたち、

俺たちと少し、いいお茶しない?」


路地の奥から、派手なブランド服を着崩した、ガラの悪い男たちが三人、

ニヤニヤと下劣な笑みを浮かべて立ち塞がった。

噂に聞いていた、悪辣なスカウトマン(半グレ)たちである。


「あっ……!」


彩美と友人たちが、怯えて雅由美の背中に隠れる。


「嫌だって言ってるじゃないですか! つきまとわないでください!」


彩美が勇気を出して声を張り上げるが、男たちは鼻で笑った。


「ツれないこと言うなよ。モデルは嫌でも、割の良いバイトがあるんだ。

俺たちの先輩がやってる店で、おじさんたちとお酒を飲むだけで……」


男の一人が、強引に彩美の細い腕を掴もうと手を伸ばした。

その瞬間。


「……私の大切な妹に、薄汚い手で触れないでいただけますか」


スッ、と。

雅由美が彩美を庇うように前に出て、男の腕を優雅に払い除けた。

その右手には、生クリームと苺がたっぷり乗ったクレープが握られている。


「ああん? なんだお高くとまった姉ちゃん。痛い目見たいのか?」


逆上した男たちが、雅由美へと一斉に掴みかかろうとする。

しかし、雅由美は全く怯むことなく、左手に提げていた

高級ブランドの、分厚く硬い紙袋を盾のように構えた。


「レディのお茶の時間を邪魔するとは、万死に値しますわよ」


雅由美は、右手のクレープを一切揺らすことなく、

左手の紙袋の角を、向かってきた男の喉元へ的確に突き入れた。


「がはっ……!」


男が息を詰まらせて怯んだ隙に、流麗な合気道の足捌きで懐に潜り込む。

そのままサマードレスの裾を翻し、相手の力を利用して、

アスファルト舗装の路地へと音もなく投げ飛ばした。

残る二人も、雅由美の舞うような動きに全く反応できず、

一人は足元をすくわれ、もう一人は紙袋で視界を塞がれた直後に

急所を打たれ、瞬く間に路地へと沈んでいった。


「ひっ……! な、なんだこの女……!」


クレープの生クリームを一滴も落とすことなく、

息も乱さずに立つ雅由美の姿に、男たちは恐怖に顔を引き攣らせた。



「お姉様……すごいです……!」


彩美たちが目を丸くして見つめる中、

雅由美は何事もなかったかのように微笑み、クレープを一口かじった。


「幼い頃から、お祖父様に護身術の心得を少しだけ教わっていたの。

驚かせてごめんなさいね。でも、これで彼らも反省したでしょう」


天然な笑顔で完璧な言い訳をする雅由美。

遠くの電柱の陰でその光景を見ていた竜也は、胃薬の瓶を握りしめていた。


(ク、クレープを持ったまま、屈強な半グレ三人を無傷で……。

お嬢の強さが、日に日に人間離れしていく……っ)



数時間後。雅由美たちが買い物を終えて安全に帰宅した頃。

龍神連合会の地下室では、捕らえられたスカウトマンたちが、

竜也と黒服の組員たちによって厳しく締め上げられていた。


「……お嬢、報告いたします」


本邸の奥座敷に戻った雅由美に、竜也が恭しく頭を下げる。


「彼らの背後関係を洗ったところ、興味深い事実が判明しました。

あの半グレどもが資金を納めていた元締めは、先日、お兄様の事業を

邪魔していた上海の『紅幇』の、日本におけるフロント企業でした」


「あら……。それは、奇遇ですこと」


雅由美は、点てたばかりの抹茶を静かに口へ運び、

鳶色の瞳に冷たく澄んだ光を宿した。


「上海の件で美玲さんに資金源を絶たれ、焦った日本の残党が、

ガールズバーなどの違法な斡旋で、手っ取り早く小銭を稼ごうとした……

といったところでしょうか」


「その通りです。すでに組の若い衆を向かわせ、フロント企業ごと

完全に制圧いたしました。二度と、原宿の街をうろつくことはありません」


「ご苦労様でした、竜也さん。……これで、ようやく街も綺麗になりますわ」


雅由美は、庭先の青葉を見つめながら、ふわりと美しい微笑みを浮かべた。

愛する兄のビジネスと、妹の平穏な日常。

二つのトラブルの裏で繋がっていた点と線を、令嬢は華麗に見抜き、

その圧倒的な力をもって、完全なる「大掃除」を成し遂げたのだ。


「完璧な令嬢」にして「極道の会頭」。

その二つの顔は、誰にも知られることなく、

今日も大切な人たちの笑顔を、どこまでも優しく守り抜いている。




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