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第十四章



七月。

梅雨の湿り気が完全に拭い去られ、刺すような真夏の日差しが東京の街を白く染め上げ始めた頃。

神龍寺家の冷房の効いた涼やかなサロンには、少女たちの弾むような声が響いていた。


「まあっ! クイーン・オブ・パシフィック号の処女航海ですって!」


「ええ。お父様が、私の大学合格と彩美の進級祝いにと、

スイートルームのチケットを手配してくださったの。

皆様もご一緒に、サマークルーズはいかがかしらと思って」


雅由美が、美しい銀のトレイに乗せられた招待状をテーブルに置くと、

麗華や茉莉恵たちが一斉に歓声を上げた。


「素敵ですわ、お姉様! 船上のフルコースに、夜の舞踏会!」


「瑞希さんも、ぜひご一緒に。潮風の中での読書も、格別ですわよ」


「わ、私なんかが、そんな豪華客船に……! でも、神龍寺さんが

誘ってくださるなら、ぜひご一緒させてください……!」


分厚い眼鏡の奥で、瑞希が嬉しそうに目を瞬かせる。

少女たちが華やかなバカンスの計画に花を咲かせる中、

サロンの隅に控えていた竜也だけが、この世の終わりのような

絶望的な表情で、胃のあたりをきつく押さえていた。


「……お嬢。少し、よろしいでしょうか」


「あら、竜也さん。どうなさいましたの?」


親友たちから少し離れ、廊下の陰へと移動した雅由美に対し、

竜也は血の気を失った顔で、もう一枚の「黒い封筒」を差し出した。


「たった今、裏の情報網から入った知らせです。

お嬢たちが乗られるその客船の、地下VIPデッキにおきまして……

関東一円の極道と海外マフィアのトップが集う、

極秘の『裏社会サミット』が開催されるとのことです」


「……裏社会サミット?」


「はい。龍神連合会の会頭として、お嬢の出席は絶対条件となっております」


その言葉に、雅由美は鳶色の瞳を丸くして、ふわりと微笑んだ。


「まあ。表は親友たちとのバカンスで、裏は極道サミット。

偶然とはいえ、移動の手間が省けてとても効率的ですわね」


「効率的、じゃありませんよ! お嬢の正体が、麗華お嬢様たちに

バレたらどうするおつもりですか!?

同じ船の上で、令嬢と会頭の二つの顔を使い分けるだなんて……

俺の胃に、完全に穴を開けるおつもりですかっ!」


悲鳴を上げる竜也に、雅由美は一切の悪びれもなく、

天然な笑顔で首を傾げた。


「大丈夫ですわ、竜也さん。お着替えの時間を少し工夫すれば、

誰にも怪しまれることはありませんもの。

……胃薬なら、いつものように鞄に入れておきますわね」


「もう嫌だ、船から降りて泳いで帰りたい……っ」


竜也の悲痛な叫びは、夏の青空へと虚しく吸い込まれていった。



数日後。

紺碧の太平洋を滑るように進む、超豪華客船クイーン・オブ・パシフィック号。

見渡す限りの青い海と空が広がるオープンデッキで、

雅由美は白と水色を基調とした、爽やかなサマードレスに身を包んでいた。

ツバの広い麦わら帽子を押さえながら、心地よい潮風に目を閉じていると、

隣のデッキチェアから、穏やかな声がかけられた。


「美しいお嬢さん。海が、とてもよく似合っているね」


振り返ると、そこにいたのはロマンスグレーの髪を綺麗に撫でつけた

上品な老紳士と、優しげな微笑みを浮かべる老婦人だった。

二人が交わしていた微かな言葉の響きから、雅由美は流暢なイタリア語で返答した。


「ありがとうございます。お二人の仲睦まじいお姿こそ、

この美しい海の景色にぴったりですわ」


「おお、イタリア語が話せるのかい! これは驚いた」


老紳士が目を丸くし、老婦人も嬉しそうに手を叩いた。


「私はヴィンチェンツォ。こちらは妻のソフィアだよ。

日本から乗船したのだけれど、まさかこんなにお若いお嬢さんと

母国語でお話しできるとは思っていなかったわ」


「神龍寺雅由美と申します。ヴィンチェンツォ様、ソフィア様。

素晴らしい航海をご一緒できて、光栄に存じます」


完璧な発音と、洗練された優雅な所作。

ヴィンチェンツォとソフィアは、瞬く間に雅由美の聡明さと気品に魅了された。

三人はデッキチェアに並んで座り、レモネードを傾けながら、

イタリアの芸術や、日本の美しい四季について、和やかに語り合った。


「雅由美。あなたは本当に、真珠のように気高く美しいお嬢さんね。

私たちにも、あなたのような孫娘がいれば良かったのだけれど」


ソフィアが、雅由美の白い手を優しく撫でる。

雅由美もまた、この見ず知らずの異国の老夫婦の温かさに、

心の底からの安らぎを感じていた。




クルーズ二日目の夜。

太平洋の波間を進む豪華客船は、海に浮かぶ巨大な宝石箱のようであった。

シャンデリアが瞬くメインフロアのカジノ&舞踏会会場では、

着飾った紳士淑女たちが、グラスを片手に優雅な夜のひとときを楽しんでいる。


「皆様、私は少しばかり、夜風に当たってまいりますわ」


「ええ、いってらっしゃいませ、お姉様」


深いスリットの入った、ミッドナイトブルーのイブニングドレス。

雅由美は親友たちにふわりと微笑みかけると、カジノの喧騒を背にして、

スタッフ専用の隠し通路へと静かに足を踏み入れた。


そこから先は、光の届かない「裏」の世界である。

船の最下層、分厚い防音扉の奥に設けられたVIPデッキ。

紫煙が立ち込めるその重厚な空間には、関東一円の極道のトップたちと、

海外マフィアの重鎮たちが、渋紙色の顔を並べていた。


「遅れて申し訳ありません。……龍神連合会、八代目です」


雅由美が漆黒のショールを羽織り、冷ややかに澄んだ声で告げると、

部屋の空気が一瞬にして凍りつき、屈強な男たちが一斉に頭を下げた。

上座に腰を下ろした雅由美の対面には、香港マフィアの代表として

妖艶な黒のドレスを着た美玲が座り、楽しげに翡翠の瞳を瞬かせている。


裏社会の勢力図を左右する、ヒリヒリとするような密談。

それが大詰めを迎えようとしていた、まさにその時だった。


ジリリリリリッ!


突如、VIPデッキの壁に設置された緊急警報が鳴り響き、

壁面の大型モニターが、メインカジノの異常な映像を映し出した。


「な、何事だ!」


「お嬢! 表のフロアに、完全武装したテロリスト集団が乱入しました!

乗客たちを人質に取り、身代金を要求するシージャックのようです!」


血相を変えて飛び込んできた竜也の報告に、男たちがどよめく。

雅由美はモニターを見つめたまま、鳶色の瞳から一切の光を消し去った。

画面の端には、銃を突きつけられて壁際に集められる

妹の彩美や親友たち、そして、昼間に親しく言葉を交わした

イタリア人の老夫婦、ヴィンチェンツォとソフィアの姿があったのだ。


「……美玲さん。ここの護りは、お任せしてもよろしくて?」


「ええ。ネズミ一匹、この地下には通さないわ。……派手にやっておいで」


雅由美は漆黒のショールを脱ぎ捨てると、一切の躊躇なく踵を返した。

ミッドナイトブルーのドレスの裾が、怒りを孕んで夜の海のように翻る。



一方、表のメインカジノは、阿鼻叫喚のパニックに包まれていた。


「全員、床に伏せろ! 少しでも動いたら撃ち殺すぞ!」


自動小銃を構えたテロリストたちが、怒号を上げて乗客たちを威嚇する。

彩美や瑞希たちは、互いに身を寄せ合いながら震えていた。

老夫婦のソフィアも、ヴィンチェンツォの腕の中で顔を伏せている。


「さて、誰から海へ放り込んでやろうか……」


リーダー格の男が、下劣な笑みを浮かべて瑞希の髪を掴もうとした、

その瞬間だった。


「……レディの髪に触れるなど、万死に値する不作法ですわよ」


カジノの入り口から、鈴を転がすような、しかし絶対零度の声が響いた。

全員の視線が集中する中、ミッドナイトブルーのドレスに身を包んだ雅由美が、

ビリヤード台から抜き取った一本の「キュー」を片手に、静かに歩み寄ってくる。


「なんだお前は! 引っ込んでろ!」


男が銃口を雅由美へと向けた。

だが、雅由美は怯むどころか、流れるような足捌きで一気に距離を詰め、

手にしたキューで、男の銃を正確に、かつ強烈に弾き飛ばした。


「がっ……!?」


雅由美はそのままキューを軸にして体を反らせ、

ドレスの深いスリットから覗く白く美しい脚で、男の顎を鮮やかに蹴り上げる。

さらに、背後から襲いかかってきた二人目のテロリストの突進を、

カジノのルーレットのレーキでいなし、合気道の動きで

ベルベットの絨毯の上へと音もなく沈め去った。


「まあっ! 皆様、見てくださいませ!」


震えていたはずの麗華が、突然、目を輝かせて歓声を上げた。


「これ、船のシークレット・イリュージョンショーですわ!

お姉様が、悪役のスタントマンたちを倒すアクション劇ですのね!」


「なんて素晴らしいの! 雅由美さん、頑張って!」


茉莉恵や栞までもが完全に勘違いし、割れんばかりの拍手を送り始める。

周囲の人質たちも「なるほど、余興か」と安堵し、次々と拍手喝采に加わった。

銃を取り上げられ、優雅に投げ飛ばされるテロリストたちは、

「なんで俺たち、拍手されてるんだ……?」と激しく混乱し、

そのまま気絶していくという、あまりにもシュールな光景が広がっていた。



しかし、雅由美が最後の一人を制圧しようとした、その時。

気絶したふりをしていたテロリストの一人が、隠し持っていたサバイバルナイフを抜き、

狂乱した瞳で、一番近くにいたヴィンチェンツォとソフィアへ向けて突進した。


「死ねぇっ!!」


「ソフィア、危ない!」


ヴィンチェンツォが妻を庇おうとした瞬間。

雅由美の身体が、風のように二人の前へ割って入った。


「……させませんわ」


雅由美は男の腕を的確に掴み、関節を極めてナイフを床に落とさせたが、

その直前、鋭い刃先が、雅由美の白く細い左腕を浅く切り裂いていた。

ツー、と。純白の肌を伝って、一筋の赤い血が流れる。


「雅由美さん……!」


ソフィアが悲鳴のような声を上げた。

雅由美は全く表情を変えることなく、男の首筋へ手刀を叩き込み、完全に沈黙させた。

そして、腕の傷を隠すようにそっと手で押さえながら、老夫婦へと優しく微笑みかけた。


「お怪我は、ありませんでしたか?」


「おお、神よ……。あなたが、私たちを庇って……」


騒動が秘密裏に鎮圧され、カジノに平穏が戻った後。

安全な特別室に案内された老夫婦は、雅由美の腕の傷を、

上質なシルクのハンカチで痛ましそうに、そして優しく介抱していた。


「ごめんなさいね、雅由美。美しいお肌に、傷をつけてしまって」


「いいえ、ソフィア様。お二人がご無事であったことが、何よりの喜びですわ」


手当を終えると、ヴィンチェンツォが深く、敬意を込めた眼差しで雅由美を見つめた。

その瞳は、昼間の好々爺のそれではなく、人の上に立つ絶対者の光を帯びていた。


「……雅由美。あなたのその気高さ、そして圧倒的な強さ。

あなたはただの、美しい令嬢ではないようだね」


「……」


「実は、私たちもただの隠居老夫婦ではないのだよ。

……我々は、『欧州連盟マフィア』を束ねる者だ」


その告白に、雅由美は僅かに鳶色の瞳を瞠ったが、すぐに静かな微笑みに戻った。


「もし、あなたが欧州の地で、何か困難に直面することがあれば。

いかなる事情であれ、必ずこの番号に連絡しなさい。……我々が、あなたの盾になろう」


ヴィンチェンツォは、紋章の刻まれた名刺の裏に手書きの直通番号を記し、

雅由美の掌へと、大切に握らせた。

日本の極道、香港マフィア、そして欧州の巨大組織。

見ず知らずの老夫婦を身を呈して守った彼女の気高い心意気が、

世界を揺るがすほどの巨大な後ろ盾を、ここに生み出したのである。



数時間後。

全てが片付いた、クイーン・オブ・パシフィック号の最上階オープンデッキ。

包帯を巻いた腕を美しいショールで隠した雅由美が、

何も知らない親友たちの待つテーブルへと、静かに戻ってきた。


「雅由美さん! 少し遅かったですね。ショーとても良かったでした」


瑞希が、トロピカルジュースを片手に笑顔で尋ねてくる。

その時、夏の夜空に、鼓膜を震わせる轟音と共に、

クルーズの目玉である巨大な打ち上げ花火が次々と上がり、海面を七色に染め上げた。


「ええ、少しばかり、船の中で迷子になってしまって」


「ふふっ、お姉様でも迷子になることがあるのですね」


花火の眩い光に照らされる、令嬢の美しく穏やかな横顔。

そのショールの下で、密かに熱を帯びる昇り龍。

二つの世界を完璧に泳ぎ切った真夏の夜の痛快なエピソードは、

大輪の花火の音と共に、華やかに、そして美しく幕を閉じるのであった。




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