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第十五章



八月も下旬を迎え、東京の夜風にわずかな涼が混じり始めた頃。

都内でも有数の規模を誇る鎮守の森は、夏祭りの熱気に包まれていた。

参道にずらりと並ぶ提灯の柔らかな明かりが、宵闇を茜色に染め上げ、

遠くから響くお囃子の軽快な音色が、人々の心を浮き立たせている。


「皆様、はぐれないようにお気をつけくださいね。

それにしても、今年のお祭りは随分と賑わっておりますわ」


雅由美は、手にした絹張りの団扇でそっと顔の火照りを冷ましながら、

隣を歩く妹や親友たちへとふわりと微笑みかけた。

今日、彼女が身に纏っているのは、涼やかな藍色を基調とした、

最高級の総絞りの浴衣であった。

職人の手仕事が光る精緻な絞り染めで、大輪の朝顔が優雅に描かれている。

帯は凛とした白練色で、金糸が織り込まれた半幅帯を文庫に結び、

少し癖のある鳶色の髪は、美しい翡翠の簪で一つにまとめ上げられていた。

完璧な令嬢の、隙のない、しかし艶やかな和の装いである。


「本当ですね、お姉様。この浴衣、とっても涼しくてお気に入りです!」


妹の彩美は、淡い桃色に可愛らしい金魚が泳ぐ浴衣を着て、

綿飴を片手に嬉しそうにはしゃいでいる。


「雅由美お姉様、その総絞りの浴衣、本当にうっとりしてしまいますわ。

私も来年は、少し大人びた柄に挑戦してみようかしら」


モダンな薔薇柄の浴衣を着こなす茉莉恵が、羨望のまなざしを向ける。


「ふふっ、茉莉恵にはその華やかな柄がとても似合っているわよ。

瑞希さんの、薄緑に柳の柄も、涼しげでとても素敵ですわ」


「あ、ありがとうございます……っ。神龍寺さんにそう言っていただけると、

慣れない下駄で靴擦れしそうだったのも、忘れてしまいそうです」


瑞希が、分厚い眼鏡の奥で嬉しそうに目を細めた。

少女たちは、林檎飴や色鮮やかな水風船などを手に、

楽しげに縁日の人々の間を縫うように歩いていく。


しかし、そんな平和な日常の光景は、ある一つの屋台の前で、

ピタリと足を止めることとなった。


「あら……あちらのたこ焼き屋さん、とてもいい匂いがしますわ。

でも、お客様が一人も並んでいらっしゃらないのね」


雅由美が小首を傾げた先にあるのは、真新しいのれんを掲げた屋台だった。

鉄板の上では、見事な真ん丸のたこ焼きがジュージューと音を立てている。

だが、問題は屋台の中にいる「店主たち」であった。


「……いらっしゃい。美味いよ」


ねじり鉢巻に、ダボシャツ姿。

いかにもテキ屋といった装いなのだが、その屈強すぎる分厚い胸板と、

顔に刻まれた生々しい傷跡、そして漏れ出る極道のすさまじい殺気が、

周囲の客を完全に遠ざけてしまっていた。


「ひっ……! な、なんかあのお店の人、すごく怖くないですか……?」


「目があったら、東京湾に沈められそうなオーラですわ……」


彩美や麗華たちが、怯えて雅由美の背中に隠れる。

無理もない。屋台の中にいるのは、変装した竜也と黒田だったのだから。

お祭りの警護を兼ねて、シマの巡回のために屋台を出しているらしいが、

どう見ても堅気の商売人には見えない。


「まあ、皆様ったら。人は見かけによりませんわよ。

私は、あのたこ焼きをいただいてみたいわ」


雅由美は、親友たちをその場に残し、優雅な足取りで屋台へと近づいた。

カラン、と下駄の音が響く。


「ごきげんよう。たこ焼きを一つ、いただけますかしら?」


「おっ、お嬢……じゃねえ、お嬢さん。い、いらっしゃいませ……」


竜也が、手にした千枚通しを震わせながら、滝のような汗を流している。

黒田に至っては、直立不動のまま、ものすごいスピードで

たこ焼きをひっくり返し続けており、完全に機械のようになっていた。


「ふふっ。店主さん、とてもお上手に焼かれていますのね。

青のりを少し多めで、お願いできるかしら?」


「はっ……はい! ただちに! ……じゃねえ、おまけしとくぜ」


「ありがとう。お暑い中、お疲れ様ですわね」


雅由美が天然な笑顔で微笑みかけると、竜也は胃薬を飲みたくて

泣きそうな顔になりながら、舟に盛られたたこ焼きを差し出した。

しかし、その手が雅由美の手に触れる瞬間。

竜也の目が、一瞬だけ鋭い「極道」のものへと変わった。


「……お嬢。お楽しみのところ申し訳ありません」


周囲に聞こえないほどの低い声で、竜也が唇を動かす。


「最近、このシマに入り込んできた新興の半グレ集団が、

祭りの喧騒に乗じて、若者たちに違法の薬物を売り捌こうと、

境内の裏手に潜入しているとの報告が上がりました」


「……まあ」


雅由美は、たこ焼きの舟を優雅に受け取りながら、

鳶色の瞳から、すっと温度を消し去った。


「お祖父様が大切にしてきた、子供たちの笑顔あふれるこのお祭りを……

薄汚い毒で汚すというのね」


「我々がすぐに出向き、制圧いたします」


「いいえ。……あなた方が行けば、目立ちすぎますわ。

それに、私のお庭の掃除は、私が自身でするのが筋というもの」


雅由美は、再び完璧な令嬢の微笑みを浮かべると、

「とても美味しそうなたこ焼き、ありがとう」と声を高くして言い、

親友たちの待つ場所へと戻っていった。


「皆様、お待たせいたしましたわ。とても熱々ですのよ」


「お、お姉様、勇気がありますね……っ。でも、すごくいい匂い!」


彩美が恐る恐るたこ焼きを頬張ると、その顔がパッと輝いた。


「美味しい! 外はカリカリで、中はトロトロです!」


「本当ですわ! 見た目は怖いけれど、腕は確かなんですのね」


親友たちがたこ焼きの美味しさに盛り上がる中、

雅由美は、手にした水風船のゴム紐を、指先で弄りながら、

鎮守の森の、暗い奥の方へと視線を向けた。


「……皆様、私、少し冷たいラムネを買ってまいりますわ。

喉が渇いてしまいましたの」


「あ、神龍寺さん。私が一緒に行きましょうか?」


「いいえ、瑞希さん。すぐそこの屋台ですから、ここで待っていてちょうだい」


雅由美は、帯に差した扇子をそっと撫でると、

人通りの少ない、神社の裏手へと続く薄暗い小道へと、

静かに下駄の音を響かせて歩き出した。


宵闇に紛れる藍色の浴衣。

楽しげなお囃子の音が遠ざかり、代わりに虫の音と、

祭りの喧騒が遠く、葉擦れの音が濃くなる神社の奥深くへと続く鎮守の森。



 提灯の灯も届かぬその場所は、湿り気を帯びた草木の匂いと、静謐な闇が支配していた。

 雅由美は下駄の音を忍ばせ、迷いのない足取りで森の奥へと進む。

 やがて、数人の男たちの不穏な笑い声と、ひそひそとした話し声が聞こえてきた。


「……いいか、このカプセルを『夢のサプリ』だって言って売り歩け。

 祭りで浮かれてるガキどもなら、簡単に食いつくはずだ」


「へへ、景気づけに一杯やってる奴らも狙い目っすね」


 数人の派手なヤンキー風の男たちが、スマートフォンのライトで照らし出された

 怪しげなカプセルの山を囲んでいた。その一角には、すでに薬物を渡されたのか、

 焦点の定まらない目で震えている若い学生の姿もあった。


「……夏の夜風は心地よいですが、あなた方の吐く息は、ひどく淀んでおりますわね」


 静寂を裂くように、凛とした雅由美の声が響いた。

 男たちが一斉にライトを向けた先。

 そこには、朝顔の浴衣に身を包み、優雅に団扇を携えた雅由美が立っていた。


「ああん? なんだてめえ、どっかの令嬢か?

 ここは遊び場じゃねえんだ、さっさと帰んな」


「お祖父様が大切に守ってこられたこの庭を、

 そのような毒で汚すこと、龍神の名にかけて許すわけにはまいりません」


 雅由美の鳶色の瞳が、月の光を受けて鋭く、冷たく凍りついた。

 その瞳の奥に宿る「極道の頂点」としての威圧感に、男たちは一瞬、

 背筋に走る戦慄を覚えた。


「龍神だあ? ハッ、御託並べてんじゃねえよ! やっちまえ!」


 男たちが懐からナイフや特殊警棒を取り出し、雅由美へと襲いかかる。

 雅由美は一切の動揺を見せず、帯に差していた扇子を、

 しなやかな手つきで抜き放った。


「……汚れた手で、この浴衣に触れないでいただけますかしら」


 雅由美は下駄の音を一つだけ鳴らすと、風のように男たちの間を舞った。

 突き出されたナイフを、開いた扇子の骨で見事に受け流し、

 流れるような体捌きで相手の死角へと入り込む。


「ぐあっ……!?」


 雅由美は扇子を畳むと、その先端で男の頸動脈を的確に突いた。

 さらに、反対側から殴りかかってきた男の腕を、

 指先に持っていた「水風船」のゴム紐を使って絡め取る。


「この水風船……意外と重みがあって、使い勝手がよろしいのですわ」


 雅由美が手首を鋭く返すと、水の詰まった風船が、

 遠心力で加速し、男の側頭部を重く叩いた。

 パンッ! という快音と共に、衝撃で男の意識が奪われる。

 浴衣の裾を乱すことなく、まるで神楽を舞うかのような優雅な動きで、

 雅由美は瞬く間に三人の男を森の地面へと沈め去った。


「……さて、毒は全て回収させていただきますわね」


 最後の一人の手首を優雅に捻り上げ、地面に跪かせた雅由美。

 その白く細い指先が、薬物の入った袋を静かに拾い上げる。



「お姉様! お姉様、どこですかー!」


 遠くから、彩美や親友たちの呼ぶ声が聞こえてきた。

 雅由美は即座に「会頭」の鋭い表情を消し、

 ふわりと穏やかな「姉」の顔へと戻る。


「彩美、皆様。私はこちらですわ」


 雅由美が森の入り口へと戻ると、心配そうに駆け寄ってきた

 彩美たちが、地面に転がっている男たちを見て驚愕の声を上げた。


「まあっ! お姉様、この方たちは……!?」


「まあ、皆様。……この方たち、暑さで貧血を起こして、

 こちらで倒れていらしたの。あまりに具合が悪そうでしたから、

 私の水風船で、少し冷やして差し上げましたのよ」


 雅由美は、少しだけ萎んだ水風船を手に、

 いつもの天然な笑顔で首を傾げてみせた。


「貧血……? でも、あんなに物騒なものを持って……」


 瑞希が、男たちが落とした警棒を不思議そうに見つめる。


「きっと、護身用ですわ。物騒な世の中ですから……。

 あ、あちらにラムネの屋台がありましたわよ。参りましょうか」


「もー、お姉様ったら相変わらずお人好しなんだから。

 でも、お姉様が無事でよかったです!」


 彩美たちが納得したように頷き、再び賑やかに歩き出した、その時。


 ドンッ!!


 夜空を震わせる轟音と共に、神社の真上の空に、

 色彩豊かな巨大な大輪の花火が打ち上がった。


「わあ……! 綺麗……!」


 次々と夜空に咲いては消える、薄紅、黄金、そして藍色の火花。

 花火の光に照らし出された雅由美の横顔は、

 気高い令嬢の美しさと、全てを慈しむような優しさに満ちていた。

 足元で小さく揺れる、藍色の朝顔の浴衣。

 伝統ある祭りと、愛する人々の安らかな笑顔を完璧に守り抜いた雅由美。


「……本当に、美しい夜ですわね」


 雅由美は、手にしたラムネの瓶を涼やかに鳴らした。

 夏の終わりの情緒を惜しむように、火花は漆黒の夜空をどこまでも美しく、

 そして静かに彩り続けていた。



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