第六十五章
「……ご足労いただき、申し訳ありません、相談役」
日が暮れて、再び紫光縁に戻ってきた雅由美に、
院長が、ひどく思い詰めたような表情で頭を下げた。
「どうなさいました? 院長先生がそのようなお顔をされるなんて、珍しいですわね」
獅雅斗を車で寝かせ、院長室のソファに腰を下ろした雅由美に、
院長は重い口を開き、深刻な事実を告げた。
「……実は、中学三年生になる、杉下浩二のことで、頭を悩ませておりまして」
「浩二くん、ですか? あの子は小さい子たちの面倒見も良くて、とても優しい子ではありませんか」
「ええ、院の中では本当に良い子なのです。……しかし、中学校では喧嘩や素行不良で度々問題を起こしておりまして。
先日も、学校側から『次に問題を起こせば、退学処分にする』と、非常に強い警告を受けてしまったのです」
「……退学、ですか。義務教育である中学校が、随分と強気なことを仰るのね」
雅由美の鳶色の瞳の奥に、スッと、微かな冷たさが走った。
「問題はそれだけではないのです。最近、彼は街の不良グループと付き合うようになりまして……。
門限を破ることも増え、さらには、どこで手にしたのか分からないような大金で、
小さい子たちに高価なお菓子を大人買いして配ったりしているのです」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間。
『相談役の優しいお母さん』の顔は、完璧に剥がれ落ちた。
そこにあるのは、日本の裏社会を恐怖で支配する、冷徹無比なフィクサーの顔であった。
「……院長先生」
雅由美は、バッグから一枚のシンプルな名刺を取り出し、院長の前のテーブルに静かに置いた。
そこには、財団の肩書きと、直通の『プライベートアドレス』だけが記されている。
「次に学校から呼び出しがあった時は、保護者の代理として、私が直接伺います。
些細なことでも構いません。ただちにこちらへご連絡を」
「は、はい……。何卒、浩二をよろしくお願いいたします」
その日の深夜。
龍神連合会本部の、分厚い防弾ガラスに守られた執務室。
「……雅由美社長。浩二くんが付き合っている不良グループの素行調査、完了いたしました」
セキュリティ本部長の黒田が、暗号化されたタブレット端末をデスクに置きながら、
重々しい声で報告を始めた。
「連中のバックには、数年前に我々が潰した半グレ集団の残党が隠れておりました。
さらにその後ろで糸を引いているのは、東南アジア系マフィアの残党グループです」
「ほう。それで、浩二くんが手にした出処の分からないお金というのは?」
雅由美が、氷のように冷たい声で尋ねる。
「……未成年を運び屋として使った、違法薬物の売上の、末端の小遣い銭かと。
おそらく浩二くんは、それが何の荷物か深く知らされずに、小遣い稼ぎの感覚で利用されたのだと思われます」
パチンッ。
雅由美が、持っていた扇子を硬く閉じた音が、静まり返った執務室に鋭く響いた。
「…………」
孤児院の、まだ右も左も分からない無垢な子供を。
あろうことか、違法薬物という最も汚いシノギの道具として利用した。
その事実一つだけで、彼らの運命は、文字通り『決定』したも同然であった。
「……竜也。黒田」
「はっ!」
背後に控えていた二人の最高幹部が、即座に膝を突く。
「その不良グループ。半グレの残党。そして、東南アジアマフィアのルート。
……明日中に、日本の土から跡形もなく『裏処理』しておきなさい。
一匹たりとも、明日の朝日を拝ませてはダメよ」
「御意」
雅由美の静かな、しかし絶対的な殺気を孕んだ命令。
その翌日の夜には、該当する組織は文字通り『蒸発』し、
東京の裏社会の勢力図から、塵一つ残さず完全に消滅することとなった。
しかし、裏の汚水は浄化できても、浩二本人の学校での問題は、まだ残されたままであった。
数日後。雅由美の予感通り、中学校から浩二の件で呼び出しの電話が入った。
雅由美は、上り龍の覇気と夜の女王のオーラを完全に心の奥底へと封印し、
地味なブラウンのフレームの伊達眼鏡をかけ、
真面目で少しお堅い『一般社団法人の職員』を思わせる、落ち着いたベージュのスーツに身を包んだ。
中学校の古びた校門前にタクシーで乗り付けると、雅由美は運転手に二万円札をスッと差し出した。
「お釣りは結構ですわ。申し訳ありませんが、メーターを回したまま、少しだけここで待っていてくださる?」
「へ、へいっ! 喜んでお待ちしております!」
案内された殺風景な面談室のドアを開けると。
長机の向こう側には、腕組みをして眉間に深いシワを寄せた教頭、
神経質そうにペンを回す学年主任、そして浩二の担任教師が、
こちらを威圧し、見下すようにズラリと並んで座っていた。
雅由美は、その手前でポツンと、罪人のように丸椅子に座らされていた浩二の隣に、
音もなく静かに腰を下ろした。
「……おばさんが、よぉ」
浩二は、視線を床に落としたまま、気まずそうに、ひどく小さな声でポツリと呟いた。
彼にしてみれば、院の中で一番優しくて、自分が密かに憧れ、懐いている『綺麗なおばさん』に、
こんな惨めな醜態を晒してしまったことが、情けなくて、恥ずかしくてたまらなかったのだ。
「初めまして。紫光縁の相談役を務めております、神龍寺と申します。
本日は、院長の代理として参りました」
雅由美が深々と頭を下げると、教頭がふんぞり返り、
他人を完全に見下すような薄ら笑いを浮かべて口を開いた。
「ああ、施設の方ですか。……本日はご足労いただき、どうも。
しかし、単刀直入に申し上げます。以前、そちらの院長先生ともお約束した通り、
杉下浩二くんは、再三の指導にも関わらず素行が改善されませんでした。
よって、本日をもって『退学処分』とさせていただきます」
「……退学、ですか?」
雅由美は、眼鏡の奥でスッと目を細め、極めて冷静な声で首を傾げた。
「中学校までは義務教育です。彼らには教育を受ける権利が法律で保証されております。
原則として、公立中学校において『退学』という制度は存在せず、
どうしてもという場合は、教育委員会の判断を仰ぎ『転校』という形になるはずですが?」
正論を突きつけられ、教頭の顔がピクリと引き攣る。
すると、横に座っていた担任教師が、面倒くさそうに吐き捨てた。
「理屈はどうあれ、この子がいると我が校の風紀が著しく乱れるんですよ!
他の真面目に勉強している生徒に、悪影響でしかないんです!」
すかさず、学年主任も冷ややかな、血の通っていない声で追従する。
「今の杉下くんの成績と素行の悪さでは、他校に転校をお願いするのも烏滸がましいというものです。
ご自分で、もっと彼にふさわしい、不良を集めた『特殊な学校』でも探されてはいかがですか?」
教育者としての愛情など微塵も感じられない、ただの厄介払いの言葉。
浩二は、ギリッと唇から血が滲むほど噛み締め、膝の上の拳をワナワナと震わせた。
「……こんな、生徒を見下すクソ教師しか居ない学校になんて……。
俺だって、一秒たりとも居たくねえよ!!」
浩二が、堪えきれずに立ち上がって怒鳴り声を上げた、その瞬間。
雅由美もまた、静かに、そしてスッと立ち上がった。
「……そうね。そうしましょう」
「え……おばさん?」
雅由美は、三人の教師たちにはもはや一瞥もくれず、
浩二に向かって、ふわりと、この上なく優しく、肯定するような微笑みを向けた。
「こんな、狭くて可哀想な価値観しか持てない大人たちの所にいても、
あなたの貴重な時間は無駄になるだけですわ。
……浩二くん、教室へ行って、自分の鞄を取ってらっしゃい」
「お、おい! ちょっと待ちなさい! まだ話は終わってないぞ!」
慌てて引き止めようとする教頭たちを完全に無視し、
雅由美は浩二の背中をポンと押し、さっさと面談室のドアを開けて外に出てしまった。
数分後、校門で待たせていたタクシーに乗り込むと。
浩二は、膝の上に乱暴に鞄を抱え、窓の外を流れる景色を見つめながら、
小さな、震える声でポツリと漏らした。
「……ごめんなさい。俺のせいで、おばさんまで嫌な思いさせて」
「いいのよ。浩二くんが謝ることなんて、何一つありませんわ」
雅由美は、眼鏡を外し、浩二の頭を優しく、愛おしそうに撫でた。
「ねえ、浩二くん。あなたの将来の夢、おばさんに教えてくれないかしら?」
「将来の……夢?」
浩二は、少し照れくさそうに、しかし真剣な目で雅由美を見つめ返して答えた。
「俺……弱きを守る、ヤクザになりたいんだ」
「…………ほう」
昼過ぎ。
タクシーを降りた二人は、近くの賑やかなファミリーレストランへと入った。
「もっと聞かせてちょうだい。……ヤクザになって、あなたはどうするおつもり?」
雅由美がアイスティーのストローを弄りながら尋ねると、
浩二は、雅由美が奢ってくれた熱々のチーズハンバーグを美味しそうに頬張りながら、
目をキラキラと輝かせて語り始めた。
「俺、中学出たら、どっかのすっげえデカい組に入って、
下っ端からバリバリ仕事して、絶対に出世してやるんだ!
んで、幹部になって、院の小さい奴らとか、今日みたいな嫌な大人から、
弱い奴らを守ってやるんだよ!」
任侠映画や漫画の影響をモロに受けた、無邪気で、青臭く、そして真っ直ぐなヒロイズム。
雅由美は、クスリと笑いを溢した。
「ヤクザの下っ端なんて、映画みたいにカッコいいものじゃないわよ?
毎日先輩の使い走りで、トイレ掃除や草むしり、理不尽な暴力に耐える、とても大変な世界よ」
「おばさんには解んねーよ! 俺は絶対に諦めないからな!」
反抗期特有の強がりを見せる浩二。
雅由美は「そう」と優しく微笑むと、バッグからスマートフォンを取り出した。
「じゃあ、本当のヤクザの下っ端がどんなものか……『本人達』に聞きに行きましょうか」
「へ……?」
雅由美は電話を耳に当て、「お迎えにいらして。……ええ、今すぐよ」とだけ告げて通話を切った。
数十分後。
「ごちそうさまでした。さあ、行きましょう」
雅由美が伝票を持ってレジへ向かうと、ファミレスの店内が何やら異様なほど騒然としていた。
窓際のお客たちが、一様に外の駐車場を指差して、青ざめた顔でヒソヒソと囁き合っている。
浩二が不思議に思って外に出ると、そこには。
のどかなファミレスの駐車場にはおよそ似つかわしくない、
漆黒の最高級防弾セダンが二台、ドカンと横付けされるように停まっていた。
「……お、おばさん、俺、タクシー呼ぶか?」
浩二がオドオドしながら尋ねるが、雅由美は真っ直ぐにその黒塗りセダンの方へと歩いていく。
「いらないわ。お迎えが来ておりますから」
雅由美が近づくと、セダンのドアがバンッ!と開き、
中から完璧な極道スーツに身を包み、顔に恐ろしい傷のある巨漢の男(竜也)が飛び出してきた。
「お迎えに上がりました! マダァムッ!!」
竜也が直角に腰を折り、恭しく後部座席のドアを開ける。
「な、ななな……っ!?」
浩二は、ファミレスの駐車場で、どう見ても本物のヤクザの幹部クラスが、
『優しいおばさん』に最敬礼している異常な光景に、完全に言葉を失い、顎を外さんばかりに驚愕した。
「さあ、乗って。社会勉強に行きましょう」
雅由美に促されるまま、浩二はガクガクと震える足で高級セダンに乗り込んだ。
車が向かった先は、高い塀と厳重なセキュリティに守られた、神龍寺の広大な本部邸宅であった。
「お帰りなさいませェェッ!! 八代目ェェッ!!」
玄関に車が到着するなり、待ち構えていた数十人の黒服の組員たちが、地鳴りのような声で一斉に頭を下げた。
(は、はっ、八代目ェェッ!?)
浩二の頭は完全にキャパシティを超え、今にも白目を剥いて気絶しそうになっていた。
雅由美は、震える浩二の肩にポンと手を置き、出迎えた強面の若い組員(寛治)に声をかけた。
「寛治。この子がね、ヤクザの下っ端から幹部になりたくて、話を聞きたいそうよ。
私、お茶の用意と着替えをしてくるから、その間、お相手をして差し上げて」
「へっ? あ、は、はいっ! 承知いたしやした、八代目!」
雅由美が奥の部屋へと消えると、残された浩二の前に、顔に傷のある極道たちがズラリと並んだ。
「よぉ、坊主。下っ端の仕事が知りたいんだってなぁ?」
「おうおう、俺たちがたっぷり、現実ってやつを教えてやらぁ……!」
「ひ、ひぃぃぃぃっ!!」
数十分後。
私服から優雅な着物へと着替えた雅由美が広間に戻ってくると、
そこには、極道たちの凄惨な裏話(シノギの厳しさ、絶対的な鉄の掟、そして雅由美の容赦のないお仕置きの恐ろしさなど)をたっぷり聞かされ、
完全に魂が抜け、真っ白な灰のようになって正座している浩二の姿があった。
「あら。少し脅かしすぎたんじゃないの?」
雅由美がクスリと笑うと、浩二はハッと我に返り、ガタガタと震えながら雅由美を見上げた。
「お、おば……いや、八代目……!! す、すんませんでしたァッ!!」
「ふふっ。浩二くん。高校を卒業して、それでもまだ極道になりたいという気持ちが変わらなければ、
その時は、私の所へ来なさい」
雅由美は、極道の女帝としての凄みを微かに覗かせながら、しかしどこまでも優しく微笑んだ。
「……それまでは、真面目に学校の勉強をして、施設で小さい子たちを守ってあげなさい。
……男の約束、できるわね?」
「は、はいぃぃっ!! 一生懸命勉強しますぅぅっ!!」
その後、浩二はタクシーに乗せられ、魂を抜かれたような顔で孤児院へと送り返されていった。
彼がその後、人が変わったように真面目に猛勉強を始め、
どんな不良グループの誘いも秒速で断るようになるのは、言うまでもない。




