第六十四章
初夏の風が、街路樹の瑞々しい青葉を揺らして通り過ぎていく。
梅雨入り前の、一年で最も心地よい晴天の週末。
東京都内の閑静な住宅街にひっそりと佇む児童養護施設『紫光縁』の門前に、
雅由美は、愛息の獅雅斗と手を繋いで立っていた。
「ママ、きょうのケーキ、すっごくおっきいね!」
「ええ。みんなで美味しくいただけるように、特大の箱にしてもらいましたのよ」
雅由美の片手には、有名パティスリーに特別に注文した、
真紅の苺が宝石のように輝くショートケーキが、
施設の子供たちと職員の人数分以上、たっぷりと詰め込まれた大きな箱が下げられている。
今日の雅由美は、裏社会の頂点に君臨する『フィクサー』としての威圧感を完全に消し去り、
どこにでもいるような、少しだけ上品で優しい『獅雅斗のお母さん』の顔をしていた。
柔らかなミントグリーンのサマーニットに、風に揺れる白いフレアスカート。
その背中に、血で血を洗う修羅場を潜り抜けてきた上り龍が眠っているなど、
この穏やかな陽だまりの中では、誰一人として想像すらできないだろう。
「あ! 獅雅斗くんのママだー! ケーキだー!」
庭の砂場で遊んでいた幼児や小学生たちが、弾かれたように歓声を上げて駆け寄ってくる。
「ふふっ、みんなこんにちは。後で院長先生と一緒に、おやつにしましょうね」
雅由美は、しゃがみ込んで子供たちの頭を一人一人、愛おしそうに撫でた。
この『紫光縁』には、温厚な院長先生をはじめ、
六人のベテラン保育士、そして育ち盛りの子供たちの胃袋を支える専門の調理師と栄養士が常駐している。
これは、雅由美が秘密裏に資金援助を行っている他の孤児院でも同様の、手厚い体制であった。
現在、この紫光縁で暮らしているのは、幼児が四人、小学生が十三人、
中学生が七人、そして高校生が七人の、計三十一人。
様々な事情で親元を離れ、心に傷を抱えながらも、懸命に生きようとしている小さな命たちである。
ここで雅由美の『真の正体』を知っているのは、最古参である院長先生ただ一人だけであった。
子供たちや他の職員にとって、雅由美は、
施設の運営資金をポケットマネーで援助してくれる『一般社団法人の相談役』であり、
月に数回、こうして美味しいお菓子を持って遊びに来てくれる、綺麗で優しい女性でしかなかった。
「相談役。本日はお忙しい中、足を運んでいただき誠にありがとうございます」
出迎えた院長先生の案内に従い、雅由美は日当たりの良い静かな談話室へと通された。
獅雅斗の相手を手の空いている保育士と小学生の女の子たちに任せ、
雅由美がふかふかのソファに腰を下ろすと、少し緊張した面持ちの三人の高校生が入ってきた。
今年、卒業学年である高校三年生を迎えた、
宮下健斗、皆山香苗、斎藤幸也の三人であった。
「……こんにちは。さあ、そんなに硬くならないで、リラックスして座ってちょうだい」
雅由美は、院長が淹れてくれた温かい紅茶を彼らに勧めながら、
母親のような、慈愛に満ちた柔らかな微笑みを向けた。
「院長先生から、あなたたちの学校での真面目な様子や、
とても優秀な成績については、日頃からよく伺っているわ。
……今日は、これからの進路について、私に相談したいことがあるのよね?」
三人は顔を見合わせ、やがて健斗が代表するように、真剣な眼差しで口を開いた。
「はい。……俺たち、高校を出たらどう生きるべきか、すごく悩んでいて……。
相談役なら、色んな世界を知っているから、正しいアドバイスをくれるんじゃないかって」
「……正しいアドバイス、か」
雅由美は、紅茶のカップをソーサーに静かに置き、
彼らの真っ直ぐな瞳を、一つ一つ丁寧に見つめ返した。
「いいこと? 人生における『正しさ』なんて、誰にも決められないのよ。
でも、あなたたちが自分で選んだ道を『正解』にするための手助けなら、いくらでもできるわ。
……だから、あなたたちの夢、やりたいことを、隠さずに全て私に聞かせてちょうだい」
その言葉に背中を押されるように、三人はポツリポツリと、
胸の奥に秘めていた自らの将来への希望を語り始めた。
健斗は、幼い頃から機械を弄るのが好きで、一流の自動車整備士になりたいと語った。
香苗は、自分が施設に来た時に優しくしてくれた保健室の先生に憧れ、看護師になりたいと目を輝かせた。
幸也は、パソコンのプログラミングに興味があり、IT関係の技術者として腕を磨きたいと少し照れながら打ち明けた。
雅由美は、彼らの言葉に一切口を挟むことなく、時折優しく頷きながら、
その純粋な思いを、スポンジが水を吸い込むように心の中へと受け止めていった。
「……なるほど。三人とも、とても素晴らしい夢を持っているのね」
全員の話を聞き終えた後、雅由美はゆっくりと姿勢を正し、
大人の女性としての、少しだけ厳格な空気を纏った。
「あなたたちの夢は、どれも立派よ。でも、ここから先は『現実』のお話をします。
……もし、高校卒業と同時に就職を選んだ場合。あなたたちがこの施設にいられるのは、二十歳の誕生日までよ。
それ以降は、完全に自分の力で生活していく『自立』の覚悟が必要になります」
三人の表情が、スッと引き締まった。
「次に、専門学校へ進学する場合。学費は、私の財団の奨学金制度を無利子で使うことができるわ。
でも、それはあくまで『借金』であり、就職した後に少しずつ返済していく義務が生じます。
そして、専門学校を卒業して仕事が決まった時点で、この紫光縁からは退院しなければならないの」
雅由美の声は淡々としていたが、その裏には、
彼らに『お金の重み』と『社会の厳しさ』をしっかりと教え込まなければならないという、
深い愛情と責任感が込められていた。
「そして、国立大学へ進学して、より高度な学びを深めたい場合。
これには、次回の全国模擬試験で『B判定以上』を取るという条件を出させてもらうわ。
学費の奨学金制度については、専門学校と同じよ。……厳しいかしら?」
「……いえ! 現実を教えていただいて、ありがとうございます」
幸也が、膝の上で拳を強く握り締めながら答えた。
雅由美は、バッグの中から、ずっしりと重みのあるクリアファイルを取り出し、
三人の前のテーブルに並べた。
そこには、彼らの希望に沿った国立大学や専門学校の真新しいパンフレット。
そして、就職先の候補となる自衛隊の案内や、
神雅商事が裏で身元を保証している、労働環境のクリーンな優良中小企業、
地元に根付いた温かい一般商店の求人一覧表が、丁寧にファイリングされていた。
「三日後、またお返事を聞きに来るわ。
これは、あなたたち自身の、たった一度きりの大切な人生ですもの。
誰に遠慮することもなく、じっくりと考えて、後悔のないように決めなさい」
「はいっ! ありがとうございます、相談役!」
真剣な表情で分厚い資料を胸に抱え、談話室から出ていく三人の背中を見送りながら。
雅由美は、ふわりと、どこか安堵したような、優しい溜め息を零した。
紫光縁での進路相談を終えた雅由美は、その足で、
自身が支援を行っている別の二つの孤児院へも足を運んだ。
次に向かったのは、少し離れた街にある『虹光縁』。
ここでは、高校三年生の片山湊と、山崎美琴の二人が、雅由美の到着を待っていた。
湊は、施設で調理師の手伝いをするうちに料理の楽しさに目覚め、
将来は自分の小さなフレンチレストランを持ちたい、という熱い夢を語った。
「湊くんの作るオムライスは、本当に絶品だものね。
……料理の世界は厳しい修行が待っているけれど、あなたならきっと立派なシェフになれるわ」
一方の美琴は、幼い頃から絵を描くことと洋服が好きで、
アパレル関係の専門学校に進み、いつか自分のデザインした服を作りたいと、
少し頬を赤らめながら打ち明けた。
「素敵な夢ね、美琴ちゃん。あなたがデザインしたお洋服、私が最初のお客さんになってあげるわ」
雅由美は二人にも、紫光縁の生徒たちと同じように、
進学や就職に伴う『退院』のルールと、奨学金という『お金の責任』についてしっかりと説明し、
それぞれの夢に関連する学校や就職先の資料を手渡した。
そして最後に向かったのは、都心に近い場所にある『抱光縁』。
ここでは、四人の高校三年生が、それぞれの岐路に立っていた。
木村かおりは、安定した生活を何よりも求め、公務員試験に挑戦したいと語った。
山村紘一は、物作りの仕事に就きたくて、建築関係の大学か、大工の親方に弟子入りするかで悩んでいた。
滝川環奈は、人を綺麗にする美容師になりたいと目を輝かせた。
澤田彩夏は、この施設で自分を育ててくれた保育士たちの姿に憧れ、幼稚園教諭を目指したいと微笑んだ。
雅由美は、四人の迷いや希望を一つ一つ丁寧に紐解きながら、
時には優しく背中を押し、時には現実的なリスクを提示して、彼らの思考を深く掘り下げていった。
「……みんな、よく自分の心と向き合っているわね。
三日後、また必ずお返事を聞きに来るわ。それまで、たくさん悩み抜きなさい」
全ての孤児院を回り終え、夕暮れの茜色の空を見上げながら、
雅由美は、愛息の獅雅斗と手を繋いで、静かに歩道を歩いていた。
「ママ、おにいちゃんやおねえちゃんたち、おべんきょう頑張るの?」
「ええ、そうよ。みんな、自分の足でしっかりと歩いていくための準備をしているの」
彼らが社会に出た時、不当な搾取や理不尽な暴力に晒されることがないよう。
裏社会の玉座に座る雅由美は、見えない糸を張り巡らせて、
彼らが歩む表の道を、安全で綺麗なものに舗装し続けている。
それは、彼女なりの、この国の未来への『投資』であり、深い愛情の形であった。




