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第六十三章



獅雅斗の入学式から、数日が過ぎたある夜のこと。

神雅商事の社長室で裏の決裁書類に目を通していた雅由美の元に、

一本の暗号化された極秘回線から、知らせが飛び込んできた。


『……雅由美ちゃん。……翁が、倒れられた』


電話の主は、御堂筋翁の元で長年仕えてきた筆頭書生であった。


「……! すぐに参りますわ」


雅由美は、書類を放り出し、ヒールの音を響かせて社長室を飛び出した。

向かった先は、都内の最高級総合病院の、

さらに奥深くに隠されたVIP専用の特別病棟である。


重厚な扉を開けて病室に入ると、そこにはすでに、

政界の重鎮や、財界のトップたちが、悲痛な面持ちで顔を揃えていた。

彼らにとって、翁は恐怖の対象であると同時に、

日本という国を根底から支えてきた、巨大な大黒柱であったのだ。


ベッドの上には、幾つもの医療機器と酸素チューブに繋がれた、

ひどく小さく、痩せ細ってしまった『怪物』の姿があった。


「……翁」


雅由美が、静かな声で呼びかける。

その声に反応し、ゆっくりと重い瞼を開けた翁は、

幾人もいる見舞客の中から、一直線に雅由美の姿を見つけ出すと、

シワだらけの指を微かに動かし、手招きをした。


「……皆様。翁が、雅由美様とお二人でお話しされたいとのことです。

恐れ入りますが、一度廊下へご退出願えますでしょうか」


かつて雅由美が共に働いたこともある書生の一人が、

気を利かせて、他の見舞客たちを病室から退去させた。


静寂に包まれた病室。

雅由美は、ベッドの傍らに膝をつき、翁の冷え切った手を両手で優しく包み込んだ。


「……雅由美、ちゃん……」


翁は、自らの手で酸素マスクを少しだけズラし、

いつもの、少ししゃがれた、しかし温かい声で名前を呼んだ。


「はい、翁。雅由美ですわ。……ここに、おります」


翁は、日本を裏から支配してきた恐ろしい黒幕としての顔ではなく。

ただ一人の、愛しい孫娘を見つめるような、この上なく優しい眼差しで、

雅由美の白い頬に、震える指先でそっと触れた。


「……よく、来てくれたな。……お前に、渡す物がある」


翁は、枕元のサイドテーブルを視線で指し示した。

そこには、重厚な和紙の封筒が置かれていた。


「開けて、読んでみろ……」


雅由美は、震える手で封筒を手に取り、中に入っていた和紙を広げた。

そこには、翁の力強く、しかしどこか力の抜けた達筆で、

次のような内容が記されていた。


『俺の残した財産、権力、そしてこの国の裏の全てを。

俺が唯一認めた、美しく、強く、そして優しい龍である、神龍寺雅由美に譲る。

これをもって、俺の真の後継者と認める』


そして、その名前の下には。

翁自身の血で押された、生々しい『血判』が、静かに、しかし絶対的な重みを持って刻まれていた。


「……翁……っ」


雅由美の鳶色の瞳から、抑えきれない大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。


「泣くな……。龍神の会頭が、そんな顔を見せるものではないぞ……」


手紙の最後には、こう書き添えられていた。

『葬儀などという仰々しいものは無用だ。俺の裏の「家族」たちだけで、静かに見送れ』


「……日本の国を、頼むぞ。……雅由美……」


翁は、力を振り絞ってそう告げると、

シワだらけの親指で、雅由美の頬を伝う涙を、そっと優しく拭った。


「……はい。……この雅由美が、生涯を懸けて、必ず……っ!」


雅由美が、嗚咽を堪えながら深く頭を下げたのを見届けると。

老いた怪物は、満足げにふわりと微笑み、

そのまま、静かに、本当に静かに、永遠の眠りへとついたのであった。





それから三日後。

世間のニュースが、芸能人のスキャンダルや株価の変動を騒がせている裏側で。

日本の政財界を半世紀に渡って操り続けた真のフィクサーは、

誰に知られることもなく、この世を去った。


葬儀は翁の遺言通り、一切の表立った儀式を行わず、

雅由美をはじめとする龍神連合会の最高幹部たちと、

彼に忠誠を誓っていたごく一部の裏の「家族」たちだけが参列し、

深い哀悼と敬意と共に、静かに火葬された。


そして、忌明けの数日後。

神雅商事の社長室に、翁の顧問弁護士であった初老の男が、

巨大なジュラルミンケースを抱えてやってきた。


「……雅由美社長。翁からの『遺産』をお持ちいたしました」


弁護士がケースを開けると、そこには、

気が遠くなるほど広大な、都心をはじめとする全国の一等地の土地権利書。

莫大な額の無記名有価証券。

そして、すでに天文学的な相続税が完璧に支払われた上で、

なお『数百億円』という残高が印字された通帳と、実印、印鑑証明書の束。

さらには、翁が裏で支配していた数十にも及ぶダミー会社や財団の権利書など、

日本の裏の心臓部とも言える、全てが詰まっていた。


「……ご苦労様でした。確かに、受け取りましたわ」


雅由美は、それらの書類を静かに撫で、翁の重みと覚悟を、

その華奢な両肩に、しっかりと背負い込んだ。


政財界の裏の世界では、翁の存命中から、

雅由美が彼の書生として働き、真の跡取りとして見出されていたことが、

すでに完璧な根回しとして浸透していた。

そのため、巨大な権力の空白が生じたにも関わらず、

一切の反乱や血を流す後継者争いが起こることはなかった。


誰もが、彼女の知略と冷徹さ、そしてその背中で牙を剥く『上り龍』の恐ろしさを知っていたからだ。


しかし、雅由美がただ恐れられるだけの独裁者にならなかったのは、

彼女が、翁から受け継いだ『懐の深さ』と、

母としての、慈愛に満ちた優しさを持っていたからである。


時には氷のように冷徹に邪魔者を排除し。

時には海のように深く、過ちを犯した者を許し、手を差し伸べる。


「……さあ、皆様。これより、新しい時代を始めますわよ」


社長室の窓際に立ち、東京の街を見下ろしながら。

名実ともに、日本の裏表を完全に統べる『真のフィクサー』となった神龍寺雅由美は、

黒い喪服姿のまま、妖艶に、そして気高く微笑んだ。


彼女の背中では、受け継がれた日本の未来と、

愛する息子の明日を守るために、

青と金の上り龍が、誇り高く、そして永遠に咆哮を上げ続けるのであった。




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