第六十二章
春の暖かな日差しが、満開の桜を淡いピンク色に染め上げる四月。
雅由美は、女性としての妖艶さと、裏社会の女帝としての絶対的な威厳を極め、
三十一歳という、最も美しく花開く年齢を迎えていた。
そして、あの大騒動の中で産み落とされた愛息・獅雅斗も、六歳。
幼いながらも目鼻立ちはくっきりと整い、将来の『超絶イケメン』を確約されたような端正な顔立ち。
さらには、無敵の母の背中を見て育ったせいか、すでに言動にはしっかりとした逞しさと、
周囲を気遣う優しい気品が備わり始めていた。
「……ママ。このお洋服、どうかな?」
龍神連合会本部の、広大な大広間。
純白のブラウスに、紺色の気品あるブレザー。
背中には、職人が丹精込めて作り上げた(※裏地には最新素材の防弾パネルが極秘に仕込まれている)
黒く輝く最高級のランドセルを背負い、
獅雅斗が、少し照れくさそうにクルリと回ってみせた。
日本最高峰の名門、慶應義塾幼稚舎の真新しい制服姿である。
「ええ。とってもよく似合っていますわ、獅雅斗。
世界一、いえ、宇宙一の小学生ですわね」
雅由美は、膝を突いて愛息のブレザーの襟を優しく直し、
誇らしげに、そして慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
その、あまりにも完璧で愛らしい若の姿に。
大広間の壁際にズラリと控えていた、数百名の幹部や組員たちの感情は、
すでに決壊寸前のダムのようになっていた。
「お、お嬢……っ!!」
最初に耐えきれなくなったのは、やはり竜也であった。
「わ、若が……あの、おくるみに包まれていた小さな若が……っ!
こんなに立派なランドセルを背負われて……ッ!
うおおおおんっ!! おめでとうございますぅっ!!」
「慶應義塾幼稚舎バンザーイ!! 若、バンザーイッ!!」
「俺たちの一生を懸けて、お通学の警護をさせていただきますぜェッ!!」
竜也が号泣して床に突っ伏すと、黒田をはじめとする強面の極道たちも、
次々とハンカチやネクタイで顔を覆い、肩を震わせて泣き崩れた。
大の大人たちが、しかも裏社会を牛耳る恐ろしい男たちが、
六歳の少年のランドセル姿を見ただけで、嗚咽を漏らして大号泣しているのである。
「もう。あなたたち、獅雅斗の入学式は明日ですのよ。
今からそんなに泣いていて、明日どうするおつもり?」
雅由美が呆れたように扇子をパチンと鳴らすと、
獅雅斗が、泣き崩れる竜也の背中を、小さな手でポンポンと優しく叩いた。
「たつやのおじちゃん、なかないで。
ぼく、おべんきょうも、うんどうも、いっぱいがんばるからね」
「わ、若ァァッ……!! なんて、なんてお優しいお言葉……っ!
俺は、俺は一生、若のランドセル持ちになりますぅぅっ!!」
「こら。勝手にランドセルを持ったら、通学の意味がありませんわ。
……さあ、獅雅斗。おじい様とおばあ様にも、その晴れ姿を見せて差し上げましょう」
雅由美は、感動の涙で水浸しになった大広間を後にし、
護衛の車列を引き連れて、実家である神龍寺邸へと向かうのであった。
「おおおおっ!! 獅雅斗ォォッ!!」
神龍寺邸の広大なエントランスに足を踏み入れた瞬間、
父(神龍寺グループ会長)が、弾かれたように飛んできた。
「じいじ!」
「ああ、なんて立派になったんだ……!
この慶應の制服、まるで皇族のようじゃないか!
じいじは……じいじは、もう思い残すことはないぞぉぉっ!」
父もまた、本部の極道たちと全く同じように、
獅雅斗を抱きしめながら、滝のような涙を流して号泣し始めた。
そこへ、母も「獅雅斗ちゃん!」と満面の笑みで駆け寄り、
愛しい初孫の柔らかな頬に、何度も頬ずりをして溺愛する。
「本当に、あっという間に大きくなってしまって。
ランドセル、重くない? ばあばが持ってあげようか?」
「だめだよ、ばあば。ママが、じぶんのにもつはじぶんで持つんだよって言ってたもん!」
「まあ! なんてお利口さんなの!」
祖父母のメロメロぶりを、少し離れた場所から、
兄の貴哉と、妹の彩美が、死んだ魚のような目で眺めていた。
「……親父とお袋のやつ、完全に孫に骨抜きだな」
「お姉様の子だから、特別可愛いんでしょうけど……
私たちへの風当たりが、最近強くて嫌になっちゃうわ」
二人がボヤいていると、獅雅斗を撫で回すのを一旦やめた父と母が、
ギロリ、と恐ろしい視線を、兄と妹に向けた。
「おい、貴哉! 彩美! お前たちはいつになったら、
私に二人目の孫の顔を見せてくれるんだ!!」
「そうよ! 貴哉は社長のくせに、浮いた話の一つもないじゃない!
彩美だって、お見合いの釣書を全部断ってばかりで!
雅由美を見習って、早く身を固めなさいな!!」
「「ヒッ……!!」」
両親からの強烈な『せっつかれ』に、兄と妹は悲鳴を上げて後ずさる。
「む、無茶言わないでくれよ!
俺の周りに来る女は、神龍寺の財産目当てか、
雅由美の恐ろしさにチビって逃げ出す奴しかいないんだぞ!」
「わ、私だって! お姉様みたいな完璧な人を見ちゃったら、
普通の男の人じゃ物足りなく見えちゃうんだもん!」
泣き言を叫ぶ二人に、雅由美は涼やかな顔でハーブティーを傾けた。
「あら。お兄様も彩美も、選り好みが激しすぎますのよ。
まあ、ご縁は無理に探すものではありませんから、気長に……」
雅由美が優雅にフォローを入れようとした、その時である。
『ピッピーッ! オーライ、オーライ!』
窓の外から、大型トラックのバックするけたたましい音が響いてきた。
「……またか」
父が、スッと真顔になって窓の外を見る。
エントランスへと続く長い私道には、
有名デパートのロゴが入った配送トラックや、
黒塗りの怪しいバンが、果てしなく数珠繋ぎになっていた。
「総理大臣より、獅雅斗様のご入学祝い、
『純金製の特注学習机』でございます!」
「アメリカのファルコーネ・ファミリー様より、
『防弾仕様の通学用装甲車(機関銃付き)』が届いております!」
「経団連の皆様からは、都内の一等地のマンションの権利書を……!」
「いらん!! 全部持ち帰らせろ!!
学習机が純金だったら、重くて引き出しが開かんだろうが!!
それに、小学生が装甲車で通学してどうするんだ!!」
実家の庭は、再び政財界の大物やマフィアたちから届いた、
常軌を逸したスケールの入学祝いのパニックにより、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
雅由美は、庭で右往左往するSPたちを眺めながら、
「ふふっ、皆様、本当に獅雅斗のことがお好きですのね」と、
全く動じることなく、クスクスと笑うのであった。
実家での凄まじい大騒ぎを終え、
再び龍神の本部邸宅へと戻ってきた、その日の午後。
本部の広大な日本庭園では、ぽかぽかとした春の陽気の中、
縁側に座る祖母が、温かいお茶をすすりながら、目を細めて庭を眺めていた。
「よしよし、アルタイル! おまえもランドセル、しょってみる?」
「ガァウ……(ぐるるる……)」
庭の芝生の上で、制服姿の獅雅斗に馬乗りになられ、
尻尾をパタパタと振って大人しくしているのは……。
かつて中東の王族からプレゼントされた、あの『ホワイトタイガーの仔虎』であった。
二年という月日を経て、彼は立派な成獣へと成長し、
今や体重百三十キロを超える、立派で巨大な猛獣となっていた。
本来ならば、一歩間違えれば命に関わる危険な野獣である。
しかし、赤ん坊の頃から獅雅斗と共に育ったこの虎(名前はアルタイル)は、
獅雅斗のことを「自分の弟」のように思っており、
彼がどれだけ耳を引っ張ろうが、背中に乗ろうが、決して怒ることはなかった。
「ふふっ。本当に、仲の良い兄弟のようですこと」
祖母が微笑ましく見守っていると。
「……獅雅斗。制服が泥だらけになりますわよ」
縁側の奥から、スッと冷たい風が吹き抜けるように、
部屋着の着物に着替えた雅由美が姿を現した。
「あ、ママ! アルタイルも、けいおうに行きたいんだって!」
「ガウッ!」
百三十キロの巨体が、のっそりと立ち上がり、
雅由美に向かって、少しばかり野生の威厳を見せるように低く唸った。
「……あら」
雅由美は、鳶色の瞳をスッと細め。
背中に眠る上り龍の覇気を、ほんの一瞬、わずか数パーセントだけ解放し、
アルタイルの目を見据えた。
「アルタイル。……獅雅斗の制服を汚したら、どうなるか分かっていますわね?」
「…………」
その瞬間。
百獣の王の親戚であり、百三十キロの巨体を誇る巨大な猛獣は。
「……にゃぁん」
まるで、借りてきた小さな子猫のように、キュンと小さく鳴き声を上げ、
雅由美の足元にゴロンと仰向けに転がって、
「降参です、お腹を撫でてください」とばかりに、無防備なポーズをとったのである。
「よしよし、いい子ですわ」
雅由美が、アルタイルの巨大な顎の下を優しく撫でてやると、
猛獣はゴロゴロと喉を鳴らし、完全に溶けきった顔を見せた。
「……さすがお嬢だ。百獣の王より、お嬢の躾の方が圧倒的に上位らしいぜ」
「ああ。俺たちも、あの眼差しで見つめられたら、
一秒で『にゃーん』って言っちまう自信がある……」
庭の木陰で警護に当たっていた竜也と黒田が、
冷や汗を拭いながら、ヒソヒソと小声で囁き合う。
「ママ、つよいね! アルタイル、ママにはかなわないんだ!」
「ふふっ。ママは、ライオンさんより少しだけ怖いだけですわ。
さあ、獅雅斗。おやつにいたしましょう。手を洗っていらっしゃい」
「はーい!」
満開の桜の花びらが、庭園の池に静かに舞い落ちる。
最強の極道たちを泣かせ、政財界を震え上がらせ、
巨大な猛獣さえも子猫に変えてしまう、美しくも恐ろしい無敵の母。
その深い愛情と、規格外の環境に守られながら。
小さな王である獅雅斗は、これから始まる新しい学園生活へ向けて、
キラキラとした希望の笑顔を弾けさせているのであった。




