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第六章




三月上旬の、ある休日の午後。

春の足音が近づく神龍寺家の広々としたサロンには、

優雅なクラシック音楽が静かに流れていた。

柔らかな日差しが降り注ぐ中、雅由美は竜也と向かい合い、

真剣な眼差しで指導を行っていた。


「いいですか、竜也さん。背筋はもっと真っ直ぐに。

女性の手を取る時は、壊れ物を扱うように、ふわりと包み込むのですわ」


「は、はいっ、お嬢! ……あ、いや、ですが……っ!」


雅由美が自分の細い手を竜也の大きな手に重ねると、

竜也の顔が瞬時に限界まで赤くなり、全身が丸太のように硬直した。


「距離が、距離が近すぎます! 俺なんかが、お嬢にこんな風に

触れるなんて、恐れ多くて胃が……っ」


「エスコートの基本ですもの。パーティーではチークダンスを

踊る場面もあるかもしれませんわよ? ほら、ステップを合わせて」


雅由美が涼しい顔で一歩踏み出すと、竜也はロボットのように

カクカクとした動きで後退し、自らの足につまずきそうになる。


「む、無理です! 俺にダンスなど、百年の修行を経ても不可能です!」


「あら、意外と不器用なのね。でも、当日恥をかくわけにはいきませんから、

私がしっかり叩き込んで差し上げますわ」


雅由美がスパルタな令嬢スマイルを浮かべた、まさにその時だった。


「……きゃああああっ!」


サロンの入り口から、悲鳴にも似た黄色い声が響き渡った。

そこに立っていたのは、遊びに来た麗華と栞、

そして勝手についてきた茉莉恵の三人だった。


「あ、雅由美さん……! ごめんなさい、お邪魔だったかしら!」


麗華が両手で顔を覆いながらも、指の隙間からしっかりと

二人の様子を覗き見ている。


「まあ、なんてロマンチックな……。駆け落ちのための、

最後のダンスの練習ですのね……!」


栞がハンカチで目元を押さえ、勝手に涙ぐんでいた。

茉莉恵に至っては、謎の応援団長のように両手を突き上げている。


「お姉様、竜也お兄様! 障害の多い恋だとはわかっておりますが、

私たちは全力でお二人をサポートいたしますわ!」


「「全力でサポートしますわ!」」


三人娘が息ぴったりに声を揃え、竜也は胃の痛みに顔を歪めた。


「違う、誤解だ! これはただのエスコートの練習で……!」


「あら、麗華、栞、茉莉恵さん。いらっしゃい。

ええ、彼の言う通りよ。パーティーに向けて、少し特訓していたの」


雅由美が天然な笑顔で竜也の言葉を肯定したが、それが裏目に出た。


「特訓……っ! 公の場で、堂々と愛を示すための特訓ですのね!」


「素晴らしい覚悟ですわ、雅由美さん! 私、感動いたしました!」


「……もう、どうとでもなれ」


竜也はついに反論を諦め、白目を剥いてソファーに崩れ落ちた。



それから数日後の、夜。

下町の路地裏にひっそりと佇む、伝説の彫師の工房。

いよいよ、昇り龍の仕上げである「目入れ」が行われていた。

これまで数週間、筋彫りから色入れまでの想像を絶する痛みに

耐え抜いてきた雅由美の体に、最後の激痛が走る。


「……っ」


歯を食いしばり、手ぬぐいを強く噛み締める雅由美の背中で、

彫師の針が龍の瞳に命を吹き込んでいく。

高熱と疲労で意識が朦朧とする中、彼女の脳裏には、

祖父の言葉と、麗華たちの笑顔が浮かんでいた。


(……圧倒的な覚悟。代紋の重さと痛みを、受け入れる強さ)


私が、愛する人たちの居場所を守る。

その強靭な意志が、雅由美の限界を超えた精神力を支えていた。


「……よし。終わったぜ、お嬢ちゃん」


彫師が針を置き、深く息を吐き出した。

雅由美はゆっくりと身を起こし、用意された手鏡を受け取ると、

背中越しに大きな姿見へと向き直った。


そこには、傷一つない白磁の肌をキャンバスにして、

腰の深い位置から肩口にかけて、鮮やかな色彩を放ちながら、

今にも天を割って咆哮しそうな「昇り龍」が鎮座していた。


「……見事な龍だ。あんたの覚悟、確かに見届けたぜ」


これまで数多くの極道を見てきた彫師が、深く頭を下げる。

雅由美は自分の背中を見つめ、静かに、しかし確かな声で応えた。


「……ありがとうございます。これで、私は私の責務を果たせますわ」


痛みを乗り越え、龍をその身に宿した彼女の鳶色の瞳には、

もはや一切の迷いはなかった。



背中の龍が完成した翌日の午後。

龍神連合会の本家である、祖父の広大な邸宅。

重苦しい空気が漂う大広間では、幹部会が開かれていた。

その中心で、大幹部である「牙島」が、傲慢な態度で声を荒らげている。


「会頭の体調が思わしくねえのは、皆が知るところだ。

このままじゃ組織がガタガタになる。早く俺に跡目を譲るべきだろうが!」


竜也が怒りを堪えて拳を握りしめる中、

静かに襖が開き、雅由美が盆を持って入ってきた。

茶道師範代級の美しい所作で、極めて優雅に、幹部たちへとお茶を配る。


「……会頭のお孫さんか。悪いが、ガキの出る幕じゃねえぞ」


牙島が舌打ちをすると、雅由美は彼を見据え、完璧な笑顔を浮かべた。


「これは失礼いたしました。ですが、牙島様。

最近、お祖父様のお庭を荒らす、品のないネズミが増えているようですわね」


「……何が言いてえ」


「牛頭組、とやらでしたかしら。銀座のブティックでも、

少しお行儀の悪い方々をお見かけしましたわ。

お祖父様のお名前を汚すような真似は、お控えになって」


その言葉と、氷のような威圧感を放つ鳶色の瞳に、

牙島は息を呑み、本能的な悪寒を感じて背筋を凍らせた。


(……この小娘、ただの令嬢じゃねえぞ)


牙島は激しく警戒し、そして確信した。

自分の野望の最大の障害は、会頭ではなく、この孫娘なのだと。


(数日後の卒業パーティー……あそこが、絶好の機会だ)



そして、三月。

早春の冷たくも澄んだ空の下、桜の蕾が膨らみ始めた日。

歴史ある私立女子校の体育館で、雅由美は代表として答辞を読んでいた。

完璧な令嬢としての美しい姿に、後輩たちは涙を流して聞き入っている。


しかし、その夜。

一流ホテルで開催される「卒業記念パーティー」の会場周辺では、

竜也と組員たちが厳戒態勢を敷き、牙島の影を警戒していた。


ホテルのエントランス。

試着室での騒動を乗り越えて仕立て上げられた、

美しい真紅のドレスに身を包んだ雅由美が、車から降り立つ。

背中の完成した龍を、ドレスの生地の下に深く秘めて。


「お嬢、周辺の警戒は怠りません。ですが、万が一の時は……」


竜也の緊張した言葉を、雅由美はふわりとした微笑みで遮った。

そして、エスコート役である彼の腕に、そっと白く細い手を添える。


「大丈夫ですわ、竜也さん。さあ、参りましょうか」


天然令嬢の世直し劇が、ついに最大の敵と対峙する夜。

決戦の舞台である華やかなパーティー会場へと、二人は足を踏み入れた。




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