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第五章



二月も下旬に差し掛かり、歴史ある私立女子校の校内は、

卒業式後に開かれる「卒業記念パーティー」の話題で持ちきりだった。

都内の一流ホテルを貸し切って行われるこの華やかな催しは、

生徒たちがエスコート役の男性を同伴できる、特別な夜でもある。

カフェテリアの円卓で、麗華が身を乗り出すようにして雅由美を見た。


「雅由美さん。パーティーのエスコートは、もうお決まりになって?」


「ええ、麗華。お兄様にお願いしようかと思っていたのだけれど、

あいにくその日は海外出張と重なってしまって」


「まあ! では、あの方をお誘いする絶好の機会ではありませんか!」


栞も洋書から顔を上げ、縁なし眼鏡の奥の瞳をきらりと光らせた。


「あの方……?」


「とぼけないでくださいな。雅由美さんの、秘密の恋人ですわ!」


雅由美はきょとんとして、綺麗に切りそろえられた前髪の奥で

鳶色の瞳をパチパチと瞬かせた。


「秘密の恋人……ああ、竜也さんのことかしら。でも、彼はただの……」


「ただの、何ですの? 愛のために傷を負うような間柄なのでしょう?」


先日、牛頭組の事務所へ単身乗り込んだ際の痛みを「恋煩い」と

勘違いしたままの親友たちは、すっかりその気になっていた。

雅由美としては、幼い頃から知る親戚の兄であり、

護衛である竜也を連れて行くのは、防犯上も理にかなっていると思えた。


(竜也さんなら、ホテルのマナーやエスコートの作法も心得ているし……

彼にお願いしてみようかしら)


雅由美が極めて実務的な、かつ天然な解釈でこくりと頷くと、

親友二人は「きゃっ!」とカフェテリアに響くほどの黄色い声を上げた。


「素敵ですわ、雅由美さん! ついに公の場でのお披露目ですのね!」


「当日は私たちが、お二人の盾となって教師たちの目を誤魔化しますわ!」


「ええっと……大げさにならないと良いのだけれど」


勘違いが音を立てて加速していくのを、雅由美は少し不思議そうに

小首を傾げながら見守るしかなかった。



その日の放課後。

夕闇が迫る街を走る黒塗りの高級セダンの後部座席で、

雅由美は隣に座る竜也へと静かに顔を向けた。

今日はなぜか、茉莉恵も学校帰りに合流して助手席に乗り込んでいる。


「ねえ、竜也さん。三月の卒業パーティーのことなのですけれど」


「はい、お嬢。当日のホテル周辺の警護配置は、すでに完璧に固めております。

不審な輩やネズミ一匹、会場には近づけさせません」


「警護ではなくて、私のエスコート役をお願いできないかしら?」


「……はい?」


竜也の思考が、一瞬完全に停止した。

窓の外を流れる街灯の光が、固まった彼の横顔を等間隔で照らしていく。


「お嬢……エスコート役と、仰いましたか?」


「ええ。お兄様が出張で不在ですから、竜也さんが適任かと思いまして」


「いやいやいや! 適任なわけがないでしょう!?」


竜也が悲鳴のような声を上げ、頭を抱え込んだ。


「名門女子校の、お嬢様方が集まる一流ホテルの華やかなパーティーに、

俺のような裏の人間が紛れ込めるわけがないでしょうが!」


「そんなことありませんわ。竜也さんはスーツの着こなしも素敵ですし、

所作も綺麗ですから、エスコート役として恥ずかしくありませんもの」


「そういう問題じゃありません! 俺に染み付いた裏の空気や凄みを見たら、

ご令嬢方が怯えて泣き出してしまいます!」


助手席から、身を乗り出してきた茉莉恵が楽しそうに声を上げる。


「えー! 竜也お兄様のエスコートなんて、絶対に素敵ですよ!

少しワイルドで危険な香りがする男性って、女子校では大人気ですから!」


「茉莉恵、お前まで適当なことを言うな! だいたい会頭に知られたら、

俺は即座に東京湾の底に沈められますよ!」


「私も見に行きたいです! ねえお姉様、私も潜入していいですか?」


「ええ、茉莉恵さんもご一緒にいかが? 美味しいケーキが出ますわよ」


「お嬢! 話をケーキでそらさないでください!

だいたい、お嬢の背中にはその頃……!」


竜也は運転席の組員の耳を気にして、声を極端に潜めた。


「立派な龍が、完成している頃じゃありませんか……。

万が一にも、ドレスから見えでもしたら、どうするおつもりですか」


竜也の必死の抗議に、雅由美はふっと柔らかく微笑んだ。


「大丈夫ですわ、竜也さん。ドレスのデザインは、すでに考えておりますの」


「そういうことじゃないんですって……! ああっ、胃が痛い……」


「あら、胃薬なら持っておりますわよ。白湯で飲みます?」


「お気遣いありがとうございます、でも原因はお嬢ですからね!?」


胃を押さえてうずくまる竜也と、手を叩いて笑う茉莉恵。

そして、完璧な令嬢の微笑みを浮かべたまま、一切の悪びれもなく

鞄から胃薬を取り出す雅由美。


黒塗りの高級セダンの車内には、重厚な外見からは想像もつかないほど、

賑やかでコミカルな日常のやり取りが響き渡っていた。

しかし、この温かな日常のすぐ裏側で、彼らを脅かす不穏な牙が

静かに、そして確実に忍び寄っていることを、まだ誰も知らなかった。




週末の土曜日。

下町の路地裏にひっそりと佇む、伝説の彫師の工房。

薄暗い室内に、規則的な機械音と、微かな血の匂いが漂っている。

筋彫りを終えた雅由美の背中には、いよいよ本格的な「色入れ」が始まっていた。

それは、筋彫りとは比べ物にならないほどの、凄絶な痛みを伴う作業である。

何本もの針が束ねられ、白磁の肌を容赦なく抉り、墨を定着させていく。


「……っ」


畳の上にうつ伏せになった雅由美は、顔を背け、

口元に当てた手ぬぐいを強く噛み締めていた。

高熱と激痛で視界が白く明滅し、全身から玉のような汗が噴き出す。

それでも彼女は、決して悲鳴を上げなかった。

ただの一度も弱音を吐かず、静かに、ひたすらに痛みに耐え続けている。


「……お嬢ちゃん。痛てぇなら、声に出して泣いてもいいんだぜ」


手を止めることなく、彫師が低くしゃがれた声で言った。

これまで数え切れないほどの極道たちの背中を彫ってきた彼でさえ、

これほどの痛みに無言で耐え抜く少女を見たことがなかった。


「……いいえ」


雅由美は荒い息を吐きながら、鳶色の瞳を真っ直ぐに前へと向けた。


「この程度の痛みで泣くようでは……上に立つ資格など、ありませんわ」


その言葉に、彫師は小さく息を呑んだ。

華奢で美しい令嬢の背中で、鮮やかな色彩を得ていく昇り龍。

それは、彼女自身の圧倒的な気迫を吸い込み、

今にも天を割って咆哮しそうなほどの生命力を放ち始めていた。


(このお嬢ちゃん……本物の『龍』になる気か)


彫師の胸の内に、呆れを通り越した深い敬意と感嘆の念が湧き上がる。



数日後。

東京・銀座の一等地に構える、完全予約制の高級ブティック。

卒業パーティーに着ていくドレスを選ぶため、

雅由美は麗華、栞、そして茉莉恵と共に、広々としたVIPルームを訪れていた。

シャンデリアの煌めきが、色とりどりのシルクやベルベットを照らし出している。


「雅由美さん、こちらのペールブルーも素敵ですけれど、

やはりあなたには、もっとはっきりとしたお色が似合ってよ」


麗華がハンガーラックから見事なドレスを取り出し、楽しげに微笑む。


「そうですね。雅由美さんの凛とした雰囲気を引き立てるなら、

深い真紅などいかがでしょうか」


栞の提案に、茉莉恵も目を輝かせて拍手をした。


「賛成です! 絶対にお似合いになりますよ、お姉様!」


「真紅、ですか。少し派手にならないかしら……」


「ご心配には及びませんわ。さあ、とりあえず試着室へ!」


親友たちに背中を押され、雅由美は試着室の奥へと姿を消した。


一方その頃。ブティックの外で待機していた竜也は、

肌を刺すような嫌な気配を感じ取り、鋭い視線を周囲に走らせていた。


(……おかしい。さっきから、妙な視線を感じる)


牛頭組の事務所を潰してからというもの、何者かが嗅ぎ回っている気配があった。

牛頭組を裏で操っていた、武闘派の大幹部である「牙島」の影だ。

竜也が上着の懐に手を伸ばした、その時だった。


「おい、ここか? あのお高くとまった嬢ちゃんたちがいるのは」


ブティックの裏口の扉が乱暴に蹴り開けられ、

柄の悪い男たちが数人、土足で店内に上がり込んできたのだ。


「きゃっ……!?」


「な、何ですの、あなたたち!」


突然の侵入者に、麗華と栞が悲鳴を上げて身を寄せ合う。

茉莉恵が咄嗟に二人を庇うように前に出た。


「おいおい、どいつもこいつも極上のタマじゃねえか。

少し下調べに来ただけだが、ツイてるぜ」


下劣な笑いを浮かべる男が、麗華の腕に手を伸ばそうとした、まさにその瞬間。


「……レディの憩いの時間を邪魔するとは、万死に値しますわね」


シャッ、と優雅な音を立てて、試着室の重厚なカーテンが開かれた。

そこに立っていたのは、仮縫い状態の真紅のドレスを纏った雅由美だった。

背中が深く開いたデザインのドレスは、彼女の白磁の肌と、

その下に隠された昇り龍の気配を、恐ろしいほどの美しさで包み込んでいる。


「ああん? なんだてめえ、ドレス姿で……がはっ!?」


雅由美はピンヒールを静かに脱ぎ捨てると、

ディスプレイされていた上質なシルクのスカーフを手に取り、ふわりと舞った。

男の視界を真紅のスカーフで一瞬にして奪い、

流れるような合気道の体捌きで腕を極め、大理石の床へと叩きつける。


「なっ……! この女、何しやがった!」


「言ったはずですわ。万死に値する、と」


雅由美は重厚な木製ハンガーを手に取ると、

それを木刀のように振るい、次々と大男たちを制圧していく。

真紅のドレスの裾が、まるで咲き誇る薔薇のように美しく翻る。


「ああ、雅由美さん……! 秘密の恋人を守るために、

あんな乱暴な男たちと戦うなんて……!」


麗華と栞が、的外れな感動の涙を流して両手を組み合わせる。


「お姉様、ドレス姿でのアクション、映画みたいで最高です!」


茉莉恵が呑気に拍手喝采を送る中、

男たちは雅由美の圧倒的な強さと美しさに、極度の恐怖を抱いていた。


「ひぃっ! な、なんだこの女! ドレス姿の悪魔かよ!」


騒動を聞きつけて駆けつけた竜也が、逃げ出そうとする男たちを取り押さえる。

雅由美は乱れた髪を優雅に掻き上げ、冷たい瞳で男たちを見下ろした。


「……誰の指示で動いているのか、洗いざらい吐いていただきますわ」


数分後。男たちの口から「牙島」という名前が引き出された。

祖父の組織の内部に、明確な「敵」がいることが確定した瞬間だった。


ボロボロになった仮縫いのドレスを見つめながら、雅由美は決意を新たにする。


(卒業式までに、この背中の龍を完成させます)


そして。


(お祖父様の庭を荒らす害獣は、私が全て駆除いたしますわ)


三月の卒業パーティーというタイムリミットに向け、

天然令嬢の世直し劇は、ついに龍神連合会の内部抗争へとその矛先を向けた。




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