第五十八章
黄金色の銀杏の葉が、秋の柔らかな日差しを浴びて風に舞う頃。
龍神連合会の巨大な本部邸宅は、未曾有の熱気と祝祭の空気に包まれていた。
「……皆様。この子の名前が、決まりましたわ」
大広間の上座。
百名を超える最高幹部たちが固唾を呑んで見守る中、
雅由美は、純白のおくるみに包まれた愛息を抱きながら、
一枚の立派な奉書紙を、ゆっくりと広げてみせた。
そこには、雅由美自身の流れるような達筆で、力強くこう記されていた。
『獅雅斗』
「百獣の王としての気高さと強さを持つ『獅』。
私の名から一字を取った、気品と優雅さを表す『雅』。
そして、果てしない星空のように大きな器を持つ男になるよう、『斗』。
……今日からこの子は、神龍寺獅雅斗ですわ」
「「「おおおおおっ……!!」」」
「獅雅斗若ァッ!! バンザーイッ!!」
幹部たちの地鳴りのような歓声が、広間の太い梁を震わせる。
屈強な極道たちが、顔をクシャクシャにして涙を流し、
ある者は拝み、ある者は互いの肩を抱き合って、新たな王の誕生に狂喜乱舞した。
そして、季節は巡り、獅雅斗が初めての誕生日を迎えた秋。
龍神連合会を挙げての『一升餅』の儀式が、盛大に執り行われていた。
「さあ、獅雅斗。これを背負って、歩いてごらんなさい」
雅由美は、可愛らしい紋付袴姿の小さな息子に、
約一・八キロもある巨大な紅白の一升餅を背負わせた。
一歳の幼児にとっては、自分の体重の数分の一にもなる過酷な重さである。
「あーう……っ」
重さに耐えかねて、コロン、と畳の上に転がる獅雅斗。
「ああっ! 若が! 若が転ばれたァッ!」
「お嬢! ここは俺が代わりに、この餅を背負って……ッ!」
過保護すぎる竜也や黒田が、血相を変えて飛び出そうとするのを、
雅由美は扇子でピシャリと制した。
「いけません。これは、獅雅斗が自らの足で乗り越えるべき試練ですわ。
……さあ、獅雅斗。もう一度、立ってごらんなさい」
母親の凛とした声に、獅雅斗は小さな手で畳をグッと押し返し、
プルプルと短い足を震わせながら、見事に立ち上がってみせた。
「「「うおおおおおっ!! 若が立ったァァッ!!」」」
「さすがはお嬢の血を引くお方だ! 一生付いていきやすッ!!」
再び巻き起こる、極道たちの号泣と歓声の嵐。
その後に行われた大宴会では、大人たちが祝杯を浴びるように飲み交わし、
獅雅斗の健やかな成長を祝う『祝儀金』の分厚い封筒が、
まるで雪山のように、雅由美の目の前にうず高く積み上げられていったのである。
月日は、瞬く間に流れ去っていく。
雅由美は、女としての妖艶さと会頭としての凄みを極めた二十八歳に。
そして獅雅斗は、誰もが振り返るほどの愛らしい顔立ちをした、
元気いっぱいの三歳の男の子へと成長していた。
木枯らしが吹き始める、十一月の澄み切った青空の下。
「獅雅斗、お着物、苦しくありませんか?」
「だいじょーぶ! ママ、ぼくカッコいい?」
「ええ。世界で一番、カッコいいですわよ」
雅由美は、小さな羽織袴に身を包んだ息子と手を繋ぎ、
厳重な警護に囲まれながら、都内の格式高い神社へと向かっていた。
三歳という節目を迎えた子どもの成長を神様に感謝する、
『七五三』のお宮参りである。
境内は、一般の参拝客が遠巻きに目を見張るほどの、異様な空気に包まれていた。
周囲を固めるのは、スーツの下に防弾チョッキを着込んだ数百人の組員たち。
そして、ご祈祷の後に全国の幹部たちから献上された祝儀袋は、
もはや『立てても横にしても絶対に倒れない』という、
辞書のような、物理的に恐ろしい厚みの札束ばかりであった。
しかし、そんな途方もない権力と財力に囲まれながらも。
雅由美の獅雅斗に対する『躾』は、決して甘やかされたものではなかった。
その日の夕食の席。
本邸のダイニングで、獅雅斗が嫌いなピーマンを、
フォークの先で弾いてお皿の隅へと追いやっていた時のことである。
「……獅雅斗」
雅由美の、低く、しかし氷のように冷たい声が響いた。
「あっ……」
「食べ物で遊んではいけません。そして、好き嫌いも許しませんわ。
お百姓さんが一生懸命に作ってくださった命です。……残さず、食べなさい」
「……うう、ピーマン、にがい……」
獅雅斗が涙ぐみながらモジモジしていると、
背後に控えていた竜也や黒田たち幹部が、ハラハラと脂汗を流し始めた。
(お、お嬢……っ! 若が可哀想ですぜ……っ!)
(ピーマンくらい、俺たちが裏でこっそり食ってやりますから……っ!)
彼らは心の中で絶叫し、必死に目で雅由美に訴えかけるが、
雅由美の態度は、決して揺るぐことはなかった。
「泣いても無駄ですわ。龍神の次期会頭となる男が、
ピーマン一つに負けてどうしますの。……さあ、あーん、して」
雅由美は、自らピーマンをフォークに刺し、獅雅斗の口元へと運ぶ。
その厳しい瞳の奥には、息子が将来、どんな苦難にも負けない
強く気高い男に育ってほしいという、海よりも深い愛情が隠されていた。
「……あーん。……もぐもぐ」
「えらいわ、獅雅斗。よくできました」
ピーマンを飲み込んだ息子を、雅由美は優しく、力強く抱きしめる。
アメとムチの完璧な使い分けに、ハラハラしていた極道たちも、
「さすがはお嬢だ……」と、密かに感涙にむせぶのであった。
春の桜が満開に咲き誇る、四月。
獅雅斗は、超難関で知られる国立の名門、
『東京学芸大学附属幼稚園・小金井園舎』へと、見事に入園を果たした。
広大な自然と、自由でアカデミックな教育方針を誇るこの園には、
政財界や文化人の子弟が多く通っている。
しかし、その中でも、神龍寺獅雅斗の存在感は群を抜いていた。
「ママ、いってきまーす!」
「ええ。お友達と仲良く、怪我のないように遊ぶのよ」
園の正門前で、雅由美は膝を突き、
指定の可愛らしい制服を着た息子を笑顔で送り出す。
その周囲には、他の保護者たちに溶け込むように、
三人の『付き添いの男性』が配置されていた。
一人は、爽やかな笑顔を絶やさない、好青年の運転手。
一人は、人当たりの良さそうな、庭師風の用務員。
もう一人は、教育熱心な優しいパパのようなスーツ姿の男。
「あら、獅雅斗くんのところの運転手さん、とっても優しそうな方ね」
「いつもニコニコしてらして、安心だわ」
周囲のセレブママたちが、好意的なヒソヒソ話を交わす。
しかし、彼女たちは全く知らなかった。
この三人の『優しそうな男たち』が、
全員が居合道、合気道、そして総合格闘技の『黒帯』を保持する、
龍神連合会が誇る、一騎当千の最強の暗殺者たちであることを。
(……若に近づく不審者は、一秒で骨を砕く)
(……園内の遊具の安全確認、異常なし)
彼らは、ニコニコと温厚な笑顔を顔に貼り付けたまま、
サングラスの奥の目で、全方位に鋭い殺気を張り巡らせている。
万が一、獅雅斗に指一本でも触れようとする者がいれば、
その相手は、悲鳴を上げる間もなく地面に沈むことになるのだ。
雅由美は、そんな完璧なシークレット・ガードたちに小さく目配せをすると、
安心したように優雅に微笑み、迎えの車へと乗り込むのであった。
夕暮れ時。
激動の一日を終え、本邸へと戻ってきた雅由美にとって、
何よりも心安らぐ、かけがえのない時間が始まる。
「ママ! きょうね、おすなばで、おっきなおしろを作ったんだよ!」
「まあ、すごいですわね。今度、ママにも見せてちょうだい」
豪奢なダイニングテーブルを挟んでの、獅雅斗との夕餉。
美味しい手料理を味わいながら、
幼稚園での出来事を一生懸命に話す息子の舌足らずな声を聞くのが、
今の雅由美にとって、最高の日課であり、癒やしであった。
「あのね、ケンちゃんが転んじゃったから、ぼくが絆創膏を貼ってあげたの!」
「えらいわ、獅雅斗。困っているお友達を助けるのは、
強くて優しい男の子の証ですわよ」
食事の後は、親子水入らずの温かいバスタイムである。
湯けむりの中、雅由美は自らの背中に彫られた巨大な龍を隠すことなく、
獅雅斗の小さな背中を、優しい手つきで流してやる。
「ママの背中の『お絵かき』、今日もカッコいいね!」
「ふふっ。獅雅斗が大きくなったら、この龍の意味を、
ゆっくりと教えてあげますわね」
愛情に満ちた、どこにでもある幸せな母と子の光景。
しかし、その平和な時間は、夜の帳が完全に下りると共に、
密やかに、そして劇的に姿を変える。
午後九時。
「おやすみなさい、私の可愛いライオンさん」
フカフカのベッドで、すやすやと寝息を立て始めた獅雅斗のおでこに、
雅由美はそっと、優しいお休みのキスを落とした。
寝室のドアを静かに閉めた瞬間。
雅由美の纏う空気が、聖母のそれから、
氷のように冷酷で、絶対的な『夜の女王』の覇気へと反転する。
「……お待たせいたしましたわ。参りましょうか」
「はっ。車は地下駐車場に回しております、八代目」
廊下で控えていた竜也の声に頷き、
雅由美は、漆黒の極上スーツへと素早く身を包む。
息子が安全な夢の世界で眠りについている、その夜中過ぎから明け方までの時間。
それが、日本の裏社会を統べる黒幕としての、雅由美の『仕事の時間』であった。
敵対組織との血みどろの裏交渉、政財界の汚職の揉み消しと脅迫、
そして、膨大な裏金のマネーロンダリングの決裁。
雅由美は、一人の母としての愛しい日常を守り抜くために、
今夜もまた、深く冷たい闇の世界へと、
美しく、そして容赦なく、その優雅なヒールを響かせて降り立っていくのであった。




