第五十七章
晩夏の熱気が少しずつ和らぎ、朝夕に心地よい秋の気配が混じり始めた頃。
雅由美が男児を無事に出産したというニュースは、極秘事項であったにも関わらず、
瞬く間に、そして猛烈な勢いで、全世界の重鎮たちの耳へと到達していた。
表の経済を動かす大国の要人から、裏社会を支配する巨大な闇の王たちまで。
彼らにとって、世界を裏から統べる『無敵の令嬢』の跡継ぎ誕生は、
地球のパワーバランスを揺るがすほどの、歴史的な大事件であったのだ。
その余波を、最も悲惨な形で被ることになったのは。
雅由美が暮らす防衛の要塞(龍神本部)ではなく、
表向きの住所となっている、神龍寺グループの『実家』であった。
「……お、おい、貴哉。あれは……一体何の騒ぎだ?」
ある日の午前中。
神龍寺邸の広大な日本庭園に面したリビングで、
コーヒーを飲んでいた父が、窓の外を指差して声を震わせた。
「な、なんだって……!? 大型トラックの行列が、うちの門前に……!」
兄の貴哉が、持っていた新聞を落として窓に張り付く。
本邸の立派な正門から、はるか大通りにまで連なる、何十台もの巨大な運送トラック。
そして、それに先導されるように入ってきたのは、
黒塗りの各大使館の公用車や、いかつい装甲車のような外車であった。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン!!
インターホンが、悲鳴を上げるように連続で鳴り響く。
慌てて父と兄が玄関へ飛び出すと、そこには屈強な配達員や、
黒スーツのSPたちが、山のような荷物を抱えてひしめき合っていた。
「神龍寺雅由美様、ならびに御子息様へ、某国大統領からの贈り物です!」
「こちら、アメリカはニューヨークのファルコーネ・ファミリー様より、
ステラお嬢様とボスからのお祝いの品です!」
「経団連の白川でございます! 本日はお日柄もよく……っ!」
「内閣総理大臣からの親書とお祝いを持参いたしました!」
次々と運び込まれる、常軌を逸したスケールの贈答品の数々。
リビングはあっという間に、木箱やジュラルミンケース、
純金のリボンがかけられた巨大な箱で埋め尽くされてしまった。
「お、お父さん! この箱、なんかカチカチ音が鳴ってるわよ!?」
「ひぃっ!? マ、マフィアからの贈り物だぞ! まさか時限爆弾じゃ……!」
「警察だ! 誰か、警察の爆発物処理班を呼べェェッ!!」
完全にパニックに陥った神龍寺家からの通報により、
数十分後、本邸の庭には、完全武装した警察の特殊部隊と、
キャタピラ式の爆発物処理ロボットが雪崩れ込むという、前代未聞の事態となった。
「ご家族の皆様! 危険ですので、庭の隅へ避難してください!」
防爆スーツに身を包んだ隊員たちが、緊迫した声で叫ぶ。
最新鋭のX線検査機が、海外のマフィアから届いた巨大な木箱に向けられた。
「……隊長! 内部に、大量の金属反応があります! これは……武器の可能性が!」
「なんだって!? 慎重に開けろ!」
家族たちが青ざめて身を寄せ合う中、隊員が専用の工具で木箱をこじ開ける。
しかし、中から現れたのは、ミサイルでも爆弾でもなく。
眩いばかりの光を放つ、純金で作られた実物大の『テディベア』と、
最高級のダイヤが散りばめられた、防弾仕様の『純白のベビーカー』であった。
「……なんじゃこりゃあ……」
隊長が、呆然とヘルメットを脱いで立ち尽くす。
父と兄は、そのあまりにも非常識な出産祝いに、
ただ白目を剥いて、その場にガックリと崩れ落ちるしかなかった。
「……というわけでね。今、実家がとんでもないことになっているの」
「まあ。皆様、随分と気の早いサンタクロースですこと」
龍神連合会本部の、雅由美の私室。
実家の母からの泣きそうな電話を受けながら、雅由美はクスリと笑った。
彼女の腕の中では、世界中をパニックに陥れている張本人である小さな男児が、
ミルクを飲んで満足げに、スヤスヤと平和な寝息を立てている。
「サンタクロースどころじゃないわよ! 庭には爆発物処理班がいるし、
総理大臣や各国の王族からの贈り物が、まだトラック十台分も待機してるのよ!」
「お母様、ごめんなさいね。私が全て手配いたしますから、
お庭の隅にでも仮設テントを張って、とりあえず受け取っておいてくださる?」
電話を切った雅由美の元へ、幹部の竜也が分厚いファイルの束を抱えてやってきた。
「八代目。ご実家から、目録と祝儀の一部をこちらへ運び込みました。
……あの、お耳に入れておきたいことが」
竜也の声が、いつになく震えている。
「どうしたの、竜也。そんなに青い顔をして」
「と、届いたご祝儀の総額を、電脳組に計算させたのですが……。
現金、各国の無記名債券、金塊、暗号資産などを全て合わせますと……」
竜也は、ゴクリと生唾を飲み込んでから、震える声で報告した。
「……小国の国家予算の、およそ三倍に達しております」
「まあ。……ベビー服を新調するには、少し多すぎるかもしれませんわね」
雅由美は、息子の柔らかな頬を指で撫でながら、事もなげに微笑んだ。
一人の赤子の誕生に、小国が三つ買えるほどの金が集まる。
それが、神龍寺雅由美という女が築き上げた、絶対的な権力と恐怖、
そして『彼女に恩を売っておきたい』という、世界の重鎮たちの切実な欲望の形であった。
さらに、厄介な事態は金額だけではなかった。
「お、お嬢。それと……この手紙の束を見てくだせえ」
黒田が、汗を拭いながら、うず高く積まれた高級な便箋の山を指差す。
「どうせ、私へのゴマすりのお手紙でしょう?」
「いえ……それがですね。気の早い大物たちが、
まだ首も座っていない若に向かって、自らの娘との『婚約』を申し込んできているんです」
「……婚約、ですって?」
雅由美の鳶色の瞳が、スッと細められた。
便箋には、各国の王女、巨大マフィアの跡取り娘、
大企業の令嬢たちの写真と共に、熱烈なラブコールが綴られていた。
『我が国の第一王女(生後六ヶ月)と、ぜひとも政略結……いや、運命の絆を!』
『香港のウチの曾孫娘なら、将来必ずや、若の良い右腕になりますアル!』
権力者たちは、雅由美の息子という『最強の血統』を、
一刻も早く自らの陣営に取り込もうと、水面下で激しい争奪戦を始めていたのだ。
「……ふふっ」
雅由美は、手紙の束をパラパラと捲り、優雅に扇子で口元を隠して笑った。
「うちの息子は、随分とモテるのね。
でも、残念だけれど、この子の将来は、この子が自分で決めることですわ。
……どこの馬の骨とも知れないお姫様方に、簡単にあげるわけにはいきませんもの」
「お、お嬢……。相手は一国の王女や、世界最強のドンのお孫さんですぜ……。
馬の骨って……」
竜也と黒田が、冷や汗を流しながらツッコミを入れるが、
雅由美は全く意に介さず、息子のおでこに優しくキスを落とした。
未曾有の贈り物パニックから数日後。
雅由美は、世界中の重鎮たちへ向けて、一枚の『お礼状』を発送した。
それは、一流のカメラマンを本部に呼んで撮影させた、極上のポートレートであった。
柔らかな自然光が差し込む縁側で。
美しい薄藤色の訪問着に身を包んだ雅由美が、
純白のおくるみに包まれた愛息を、慈愛に満ちた表情で抱きしめている。
恐ろしい裏の女帝ではなく、神々しいまでの美しさを放つ『聖母』の姿。
そして、その写真の下には、雅由美の流れるような達筆で、
たった一言だけ、直筆のメッセージが添えられていた。
『皆様の温かなお心遣い、母として、深く感謝申し上げます。
この子が生きる未来の日本を、共に美しく磨き上げてまいりましょうね。
――神龍寺雅由美』
それは、表向きは丁寧なお礼状でありながら、
裏の意味としては「私の息子に手出しをすれば、どうなるか分かっているわね?」という、
全世界の権力者へ向けた、優雅で、そして絶対的な『釘刺し』であった。
この一枚のポートレートを受け取った各国の重鎮やマフィアのボスたちは、
その神々しい美しさに感嘆の溜め息を漏らすと同時に、
背筋に冷たい氷を押し当てられたような恐怖を覚え、一斉に居住まいを正したという。
しかし。
お礼状の効果も虚しく、狂騒の嵐はすぐには止まなかった。
「神龍寺会頭から、直接のお手紙をいただいたぞ!」と、
逆にテンションを上げてしまった者たちから、第二陣、第三陣の贈り物が届き始めたのだ。
「お兄ちゃん! またアラブの石油王から、競走馬が十頭届いたわよ!?」
「庭の芝生が食い尽くされる!! 誰か、牧場を手配しろ!!」
「ああっ、今度はヨーロッパの貴族から、ルネサンス期の名画が……!
湿気で傷む前に、早く金庫室へ!!」
神龍寺の実家では、連日一週間に渡って、
絶え間なく押し寄せるトラックの群れと、理解不能な贈り物の数々に、
家族全員がゲッソリと痩せ細りながら対応に追われることとなった。
「……ふぁあ。よく眠る、いい子ね」
そんな実家の地獄絵図など露知らず。
鉄壁の要塞である龍神本部では、
雅由美が、柔らかな日差しの中で息子をあやしながら、
平和で穏やかなティータイムを優雅に満喫していた。
「お嬢。ご実家のお父様から、泣きながらお電話が……」
「あら、お父様。どうなさいました?」
雅由美が電話に出ると、受話器の向こうから、
魂の抜けたような父の掠れ声が聞こえてきた。
『……雅由美。頼むから、もう……勘弁してくれ……。
さっき、アフリカの某国から、お祝いの「象」が二頭、成田空港に着いたらしいんだ……』
「まあ。象さん。息子が大きくなったら、背中に乗せて遊ばせましょうね。
お庭の隅で、お水をあげておいてくださる?」
『象は、庭では飼えんのだよ……っ!!』
悲痛な父の叫びが、秋空に虚しく響き渡る。
かくして、世界を揺るがした小さな命の誕生は、
前代未聞の祝儀金と、規格外の贈り物の山、
そして神龍寺家の人々の胃薬の消費量を爆発的に跳ね上げながら、
笑いと混乱に満ちた、ドタバタの狂騒曲として幕を閉じるのであった。




