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第五十五章



秋の名残の枯れ葉が北風に舞い、冬の足音がすぐそこまで近づいていた頃。

雅由美は、自身の身体に起きている『ある変化』に、静かな確信を抱き始めていた。


(……月のものが、遅れておりますわね)


心当たりは、ある。あの高級ホテルのラウンジバーで出会った、名も知らぬ男との、たった一夜の幻のような情事。

雅由美は、都内の高級ブランド化粧品を扱うドラッグストアに立ち寄り、極上のバスオイルやボディクリームの箱の下に、そっと『妊娠検査キット』の小箱を忍ばせた。


本邸の自室に戻り、バスルームのトイレの個室で、その小さなスティックに現れた『陽性』の二本線を見つめた瞬間。

雅由美の類まれなる明晰な思考は、完全に停止した。


「…………」


便座の上に座ったまま、無意識に両膝を抱え、どれほどの時間が過ぎただろうか。

やがて、冷え切ったはずの雅由美の鳶色の瞳の奥から、じんわりと熱いものが込み上げ、それは大粒の涙となって白い頬を伝い落ちた。


たった一晩の情事の重みが、背中に彫られた『上り龍』よりも重く、深く、彼女の身体と魂にのしかかってくる。

しかし、それ以上に。

自分のお腹の中に、新しい命が宿っているという事実が、これまで抑え込んできた『女としての喜び』となって、全ての重圧を鮮やかに上書きしていくのを感じていた。


(……どこの誰とも知れない殿方だけれど。このお腹にいるのは、紛れもなく、私自身の子供……)


雅由美は、まだ平らな下腹部を両手で優しく包み込み、愛おしそうに、そして決然と微笑んだ。





その夜。

同居する祖母の部屋を訪れた雅由美は、静かに全てを打ち明けた。


「おばあ様。私……産みたいのです」


龍神の会頭としてではなく、一人の女性として、母として生きる覚悟。

それを聞いた祖母は、驚くことも、責めることもしなかった。ただ静かに立ち上がり、愛おしい孫娘を、その細い腕で優しく、力強く抱きしめた。


「……よく、決心しましたね。雅由美」


祖母の温かい涙が、雅由美の肩を濡らす。


「誰が何と言おうと、この神龍寺の家が、全力でその子を守り抜きます。……おめでとう、私のかわいい孫娘」


祖母にとって、腕の中にいるのは、恐ろしいマフィアのボスでも、背中に龍を飼う女帝でもない。ただ一人の、愛しくてたまらない大切な孫娘であった。





冬が深まるにつれ、雅由美は重い悪阻つわりに苦しむ日々が続いた。

青白い顔で執務をこなす会頭を心配した幹部たちの間に、やがて『ご懐妊』の事実が静かに、そして爆発的な歓喜と共に広がっていった。


「うおおおおんっ!! 八代目の……お嬢の跡継ぎが……っ!!」

「お嬢の玉の輿……いや、玉の赤ん坊だ!! 今日から本部周辺のパトロールを三倍に増やせ!! 空飛ぶ鳥一羽、お嬢に近づけるな!!」


竜也や黒田をはじめ、屈強な極道たちが、毎日神棚に向かって手を合わせ、号泣しながら赤子の無事を祈る異様な光景が、本部の日常となっていた。


そして、冷たい雪が舞う一月。

産婦人科での定期健診で、無事に安定期に入ったことを確認した雅由美は、少しだけふっくらと丸みを帯びてきた下腹部に愛おしそうに手を添え、ふわりと微笑んだ。


(さあ、そろそろ……『ご報告』の時期ですわね)





数日後。実家である神龍寺の豪邸。

久しぶりに家族全員が揃った、豪奢なディナーの後のティータイム。

和やかな歓談が続く中、雅由美は極上のダージリンを一口飲み、静かに、そして優雅に爆弾を投下した。


「……お父様、お母様、お兄様、彩美。私、母になりますの。妊娠四ヶ月になりましたわ」


 ブッ!!! ブフゥッ!!! ゲホッ、ゴホォッ!!!


父、兄の貴哉、母、そして妹の彩美までもが、見事なまでのシンクロ率で、飲んでいた紅茶やコーヒーを盛大に吹き出し、激しくむせ返った。


「な、ななな、な、なんと……ッ!?」


「お、お姉様!? にん、妊娠って……えええっ!?」


阿鼻叫喚に陥る家族を前に、雅由美は優雅にカップをソーサーに置くと、上着のポケットから一冊の手帳を取り出し、テーブルの中央にスッと差し出した。

それは、可愛らしいベビー服のイラストが描かれた『母子健康手帳』であった。


「な、なんだこれは……本当に……」


震える手でそれを受け取った母が、ページをパラパラと捲り、保護者の欄を確認して、ハッと息を呑んだ。


「み、雅由美。これ……『父親』の欄が、空白になっているわよ?」


「ええ。父親はおりませんの。母子家庭ですもの」


「ぼ、母子家庭ェェッ!?」


今度は父と兄が、白目を剥いて椅子から転げ落ちそうになった。


「ど、どういうことだ雅由美! 相手は誰なんだ!? どこの馬の骨だ!! 龍神の会頭を孕ませておいて、逃げただと!?」


激昂する父と兄に、雅由美は扇子を静かに開き、口元を隠してクスクスと笑った。


「逃げたわけではありませんわ。私が、お名前も聞かずに別れただけですもの。どこの誰かも分からない、行きずりの方ですし、探す気も全くありませんのよ」


「い、行きずり……っ!!」


絶句する家族たち。

しかし、雅由美の鳶色の瞳には、揺るぎない絶対的な母の強さと、気高い龍の覚悟が宿っていた。


「誰の子であろうと関係ありませんわ。私のお腹に宿った、私自身の子であることに変わりはないのですから。……この子は、私が、私の全てを懸けて育て上げます」


その有無を言わせぬ美しさと、あまりにも堂々とした姿に、家族たちはただ圧倒され、毒気を抜かれたように静かに頷くことしかできなかった。


「……わ、分かった。お前がそこまで言うなら……神龍寺家の総力を挙げて、その子を迎え入れようじゃないか」


「ありがとう、お父様」




こうして、雅由美の妊娠は家族にも(強引に)受け入れられた。

しかし、本当の『騒動』はここからであった。


お腹が大きくなるにつれて、日本の真の黒幕であり、世界のマフィアと盟約を結ぶ無敵の令嬢の『ご懐妊』のニュースは、極秘裏に、しかし猛烈な勢いで世界中の裏社会と政財界へと広まっていった。


その結果。

実家である神龍寺の豪邸には、連日のようにお祝いの品々とメッセージカードが山のように届き始めた。


『我が愛しきミヤユミへ。未来のドン誕生を心から祝う! 出産祝いには最新型の防弾仕様ベビーカーを贈ろう!』(アメリカ:ファルコーネ・ファミリー)

『日本国の宝の誕生、誠に慶賀の至り。お生まれになった暁には、ぜひ我が国の国賓としてお迎えしたい。』(某大国・大統領)

『姐姐の赤ちゃん、楽しみアル! 香港の遊園地、一つ貸し切ってプレゼントするネ!』(香港:美玲)


「…………」


リビングに積み上げられた、世界的な重鎮、大統領、マフィアのボスたちからの、国家予算レベルの恐ろしい出産祝いとメッセージの束。

それらの顔ぶれを確認した父と兄、そして母たちは、完全に言葉を失い、ただ白目を剥いて泡を吹くのであった。


「ふふっ。この子も、随分と世界中から愛されておりますわね」


ふっくらとしたお腹を撫でながら、雅由美は幸せそうに、そしてどこまでも優雅に微笑む。

無敵の令嬢の、母としての新しい戦いと、さらにスケールアップした規格外の日常が、温かい春の訪れと共に、今まさに幕を開けようとしていた。





うだるような暑さが日本列島を包み込む、盛夏。

雅由美の腹部は、誰の目にもはっきりと分かるほどに大きく、

そして神秘的な丸みを帯びていた。


彼女が検診に指定し、出産を予定しているのは、

東京都港区に位置する『社会福祉法人恩賜財団母子愛育会 愛育病院』。

皇室関係者や政財界のVIP、トップセレブたちが御用達とする、

日本最高峰の医療技術とラグジュアリーな環境を誇る格式高い病院である。


周囲の人間……特に竜也たち護衛の組員や、神龍寺の家族たちが、

「お嬢! どうか安静になすってください!」

「雅由美、もう仕事はお休みしなさい!」と、

腫れ物に触るように過剰な気遣いを見せる中。


雅由美本人は、身重の身体でありながらも、

龍神連合会の八代目会頭としての膨大な決裁や、

御堂筋翁の片腕としての裏の根回しなど、

日常の激務を、どこ吹く風と涼しい顔でこなし続けていた。


「皆様、そんなに心配なさらなくても大丈夫ですわ。

私のお腹の子は、少々のことでは動じない強い子ですもの」


そう言って優雅に微笑む彼女の背中には、

決して折れることのない上り龍が、しっかりと宿っているのだ。


そして、十ヶ月の月日が無事に過ぎた、ある夏の夜のこと。


「……あら」


本邸の自室で、明日の会合の資料に目を通していた雅由美は、

下腹部を襲った、規則的な、しかし確かな痛みに小さく息を吐いた。

時計を確認する。十分おき。

間違いなく、陣痛の始まりであった。


「早苗。……お車を回してちょうだい。愛育病院へ向かいますわ」


「えっ……お、お嬢様!? まさか、陣痛が!?」


世話役の早苗がパニックになりかけるのを、

「落ち着きなさいな。まだ時間はたっぷりありますから」と静かに制し、

雅由美は、予め用意しておいた入院用のボストンバッグを手に、

自らの足でしっかりと歩いて、玄関に待機していた連合会の最高級セダンへと乗り込んだ。


愛育病院のVIP専用エントランスに到着し、

厳重なセキュリティを抜けて案内されたのは、

ホテルのスイートルームと見紛うばかりの、広大で豪奢な個室であった。


しかし、初産ということもあり、子宮口はまだ十分に開いておらず、

分娩にはまだ早いと診断される。


「……ふぅっ……」


入院してから、十四時間。

押し寄せては引く痛みの波を、雅由美は一人、

ベッドの上で静かに、そして気高く耐え忍んでいた。

決して取り乱すことなく、額に滲む汗を拭いながら、

自らの身体の中で起きている生命の神秘と、静かに向き合う。


やがて、時計の針が夜の十一時を回った頃。

「……破水しましたわ」


その冷静な自己申告と共に、いよいよ分娩室へと運ばれることとなった。


ストレッチャーに乗せられ、個室を出た雅由美の手を、

ずっと付き添っていた祖母が、シワだらけの温かい手でしっかりと握りしめた。


「雅由美。頑張るんですよ。神龍寺の女の強さを見せてやりなさい」


「ええ、おばあ様。……行ってまいります」


分娩室の重厚な扉が閉まる。

窓の外には、東京の煌びやかな夜景にも決して負けない、

圧倒的な光を放つ真ん丸の満月が、

静かに、そして荘厳に、夜空からこの病院を見下ろしていた。




日付が変わった、深夜。

祖母からの緊急の連絡を受け、実家から父、母、兄の貴哉、

そして妹の彩美が、血相を変えて愛育病院のVIPフロアへと駆け込んできた。


「母さん! 雅由美は!? 雅由美は無事ですか!?」


父が、廊下のソファで静かに目を閉じていた祖母にすがりつく。


「落ち着きなさいな。今、分娩室に入って……」


祖母が言いかけた、その時。

分娩室の扉が開き、担当の医師と看護師が、笑顔で姿を現した。


「……ご家族の皆様。おめでとうございます。

母子ともに、とても健康です。立派な男の子ですよ」


分娩室は完全な防音仕様となっており、廊下に産声が響き渡ることはなかったが、

その静寂こそが、かえって家族の胸に深い感動を呼び起こした。


間もなくして、雅由美はストレッチャーに乗せられ、

生まれたばかりの赤ん坊と共に、再びVIP専用個室へと運ばれてきた。


「……雅由美っ!」


家族たちが、一斉にベッドの周りを囲む。


「……お父様、お母様……。夜分に、申し訳ありません」


最初の授乳を終え、ベッドの上で上半身を起こした雅由美は、

疲労の色を濃く滲ませながらも、この上なく美しく、

そして、これまでの冷徹な会頭の顔とは全く違う、

柔らかで、温かい『聖母』の微笑みを浮かべていた。


彼女の細い腕の中には、純白のおくるみに包まれた、

小さな、小さな命が、スヤスヤと穏やかな寝息を立てている。


「う、うおおおんっ……!! 雅由美っ……よく頑張ったな……っ!!

神龍寺の……いや、お前だけの、宝物だ……っ!!」


「本当によくやった……っ! 自慢の妹だよ……っ!」


父と兄は、その小さく尊い命と、妹の神々しいまでの姿に感極まり、

人目も憚らずにボロボロと嬉し涙を流して号泣した。


「本当にお疲れ様、雅由美。……立派なお母さんになったわね」


母と祖母は、優しい眼差しで雅由美の汗ばんだ前髪を梳き、

その頭を愛おしそうに撫でて労う。


「お姉様! 見せて見せて!」


妹の彩美が、興奮気味に身を乗り出して、赤ん坊の顔を覗き込んだ。


「わぁ……! お鼻が高くて、すっごく整ったお顔!

絶対、将来とんでもないイケメンになりますよ、この子!」


「ふふっ……ありがとう、彩美。……少し、眠ってしまいましたわね」


雅由美は、安堵の微笑みを浮かべると、

「お母様、少し抱いていてくださる?」と、

母の腕の中に、そっと愛息子を預けた。


そして、十四時間に及ぶ陣痛と出産の激闘を終えた無敵の令嬢は、

家族の温かい声と、我が子の寝息を子守唄にするように、

深い、深い安らぎの眠りへと落ちていくのであった。




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