第五十四章
秋の青空に、幾筋もの飛行機雲が白い軌跡を描く、ある日の午前。
東京都心のビジネス街、その一等地にそびえ立つ全面ガラス張りの巨大な超高層ビル。
日本経済の中枢を担う大企業の一つ、『神龍寺グループ』の本社ビルである。
ピカピカに磨き上げられた車寄せに、一台の漆黒の最高級セダンが音もなく滑り込んだ。
すかさず、後続の護衛車両から降りてきた屈強な黒服の男たちが、周囲に鋭い視線を配りながら、セダンの後部座席のドアを恭しく開ける。
「……お嬢、到着いたしました」
竜也の低い声に促され、車内から降り立ったのは、神龍寺雅由美であった。
本日の装いは、秋の深まりを感じさせる深い紫根色の地に、艶やかな金糸で乱菊が大胆にあしらわれた、極上の訪問着。
帯は、人間国宝の手による重厚な西陣織である。
二十四歳となり、大人の女性としての色香と、裏社会の頂点に君臨する絶対的な覇気を纏った彼女が、優美な足取りでエントランスへと足を踏み入れた瞬間。
広大なエントランスホールを忙しなく行き交っていた数百人のビジネスマンやOLたちの動きが、まるで時を止められたかのように、ピタリと静止した。
「……っ」
「な、なんて綺麗な人だ……。女優か?」
「馬鹿、あの取り巻きを見ろ。……ただ者じゃないぞ」
誰もが一度は足を止め、息を呑んでその息を呑むほどに美しい佇まいに眼差しを向けている。
雅由美は、周囲のざわめきなど全く意に介する様子もなく、大理石の床を滑るように歩き、総合受付へと向かった。
「……ごきげんよう。神龍寺ですわ。父……いえ、会長への面会に参りましたの」
雅由美が、扇子を胸元で静かに合わせ、涼やかな声で告げる。
受付嬢は、目の前の女性が放つ、目も眩むような美しさと、底知れぬ威圧感に、ヒッ、と小さく喉を鳴らした。
相手が自社の大株主であり、会長の令嬢であることは知っている。しかし、噂に聞く『龍神の八代目』のオーラは、一般市民の想像を絶するものであった。
「は、はいっ! し、少々お待ちくださいませっ!」
受付嬢は、指先をガタガタと震わせながら、慌てて内線電話を会長室の秘書室へと繋いだ。
「か、会長室ですか!? あ、あのっ、神龍寺雅由美様が、一階エントランスに……っ!」
数分後。
専用エレベーターのホールから、小走りで向かってくる一人の女性の姿があった。
パリッとしたスーツを着こなす、見覚えのあるベテラン社員。
かつて雅由美が、黒縁メガネの冴えない新人OLとして三ヶ月間お世話になった、秘書課のお局様である。
「お、お待たせいたしました……っ! 雅由美お嬢様、会長室までご案内いたしますっ!」
お局様は、極度の緊張で顔を真っ青にしながら、雅由美の前で深々と頭を下げた。
彼女は、目の前にいる恐ろしくも美しい和装の令嬢が、あの『野暮ったくてトロい、でも気の利く新人・神龍寺ちゃん』と同一人物であることなど、夢にも思っていない。
「ご丁寧に、ありがとうございます。よろしくお願いいたしますわ」
雅由美は、涼しい顔で微笑み、護衛たちを一階に待たせると、お局様の案内に従ってVIP専用エレベーターへと乗り込んだ。
ウィィィィン……。
重厚な扉が閉まり、密室となったエレベーターが、上層階へと滑らかに上昇を始める。
お局様は、背筋をピンと伸ばし、壁際に張り付くようにして直立不動の姿勢をとっていた。
横に立つ雅由美から漂う、微かな白檀の香りと、有無を言わせぬプレッシャーに、完全に萎縮してしまっているのだ。
(……ふふっ。相変わらず、可愛らしい先輩ですこと)
雅由美は、扇子で口元を隠し、声のトーンを意図的に一段階上げた。
そして、あの懐かしい『見習いOL』の、少しおどおどした、しかし明るい声音で、隣のお局様に話しかけた。
「……お久しぶりですね、先輩。頂いたペン、今も大事にしていますよ?」
「……え?」
お局様は、一瞬、自分の耳を疑った。
聞き間違えるはずがない。それは、三ヶ月間、毎日秘書課で聞いていた、あのドジで愛すべき後輩の声だったのだから。
お局様が、恐る恐る、信じられないという顔で隣を振り向くと。
極上の訪問着を着た、恐ろしい裏社会のトップであるはずの令嬢が。
両手の人差し指と親指で丸を作り、自分の目の前に当てて、
『黒縁メガネ』の真似をしながら、ペロリと愛らしく舌を出していた。
「——神龍寺、ちゃん……ッ!?」
お局様の目が、文字通りこぼれ落ちそうなくらいに見開かれた。
口をパクパクとさせ、雅由美の顔に穴が開くほど見つめている。
「し、信じられない……っ! あの神龍寺ちゃんが、お嬢様だったの!?
だ、だって、あの時はあんなに野暮ったくて……コピー機も詰まらせて……っ!」
「ふふっ。あの節は、本当にお世話になりました。
先輩のおかげで、とっても楽しいOL生活でしたわ」
雅由美は、いたずらが成功した子供のようにクスクスと笑うと、
持っていた美しい風呂敷包みの中から、二つの品を取り出した。
「これ、秘書課の皆さんで召し上がってね」
一つは、予約が半年待ちと言われる、有名老舗和菓子屋のプレミアムな生菓子の詰め合わせ。
そしてもう一つは、ずっしりとした重みのある、美しい水引のかかった『祝儀袋』であった。
「そ、そんな、お菓子だけで十分です! これは……!」
「いいえ。これは、皆様での女子会の足しにしてくださいな。
私がいると、皆様も緊張して楽しめないでしょうから。
……本当に、お世話になりました」
雅由美が、優しい眼差しで祝儀袋を押し付ける。
その厚みからして、帯付きの札束(おそらく百万円)が入っているのは明白であったが、お局様はもはや、ツッコミを入れる気力すら失っていた。
「じ、神龍寺ちゃん……っ。ありがとう、みんな絶対に喜ぶわ……っ!」
お局様が、涙ぐみながらそれを受け取った、その瞬間。
チーン。
エレベーターが、最上階である会長室のフロアに到着し、扉が開いた。
雅由美は、一瞬にして『新人OL』の顔から、『無敵の令嬢』の顔へと表情を切り替えた。
「……ご案内、痛み入りますわ」
涼やかな、しかし絶対的な威厳を持つ声。
お局様は、ハッと我に返り、「は、はいっ! こちらでございます!」と、再びガチガチに緊張しながら、会長室のドアの前まで雅由美を案内した。
「では、私はこれで……っ! 本当に、ありがとうございましたっ!」
何度も何度も深く頭を下げて去っていくお局様の背中を、雅由美は優しい目で見送った。
「……お待たせいたしました、雅由美様。どうぞ中へ」
控えていた秘書が、重厚なマホガニーのドアを恭しく開ける。
雅由美は、凛とした足取りで、広大な会長室へと足を踏み入れた。
「おお、雅由美。来たか」
「突然の訪問でごめんなさいね。お父様、お兄様」
部屋の奥、最高級の革張りの応接セットで待っていたのは、神龍寺グループの会長へと退いた父と、社長に就任したばかりの兄・貴哉であった。
「わざわざお前が直接出向いてくるとは、また何か、国家を揺るがすような恐ろしい案件か……?」
父が、すでに胃の辺りを押さえながら、引き攣った笑みを浮かべる。
「ふふっ。ご安心なさい。今日は、神龍寺グループの誇る建設部門に、少しばかり『お願い』があって参りましたの」
雅由美は、対面のソファに優雅に腰を下ろすと、バッグの中から数枚の書類を取り出し、ガラステーブルの上へと滑らせた。
「……こういう物を、建てていただきたいのですわ」
父と兄が、恐る恐るその書類を覗き込む。
そこにあったのは、凄腕の建築家が描いたであろう『六十階建ての巨大な超高層ビル』の緻密なラフ図。
そして、それに添えられていたのは、東京都心の誰もが知る、超一等地の広大な『土地権利書のコピー』であった。
「な、なんだこれは!? この土地は、外資系のファンドが血眼になって争奪戦を繰り広げていた、あの幻の一等地じゃないか!
どうやって、こんなものを手に入れたんだ……!?」
兄の貴哉が、目を剥いて絶叫する。
「あら、少し前に、そのファンドのトップの方々と『お話し合い』をする機会がございましてよ。彼ら、自ら喜んで私に権利書を譲ってくださいましたわ」
雅由美は、扇子を静かに開き、口元を隠して小悪魔のように微笑んだ。
(※実際には、ハニートラップと裏帳簿の脅迫で、外資系ファンドを完全撤退させた結果である)
「……それで、この巨大なビルは、一体何に使うつもりだ?
マフィアの新しい本部か? それとも、秘密の地下要塞か?」
父が、脂汗をダラダラと流しながら尋ねる。
「まあ、お父様ったら人聞きの悪い。これは、最先端の『インテリジェント・オフィスビル』にいたしますの。
龍神の資金で作った専門学校の卒業生たちや、私たちが裏で育てている優秀なIT企業、そして、世界中のビジネスパートナーたちが、快適に集える拠点が必要ですもの」
雅由美は、ラフ図を指差しながら、淀みなく説明を続けた。
「あらゆるニーズに対応可能な、最新鋭のセキュリティと通信設備。
社員がリラックスできる、緑豊かな広大なルーフガーデン。
そして、屋上にはもちろん、私の移動用のヘリポートを完備してくださいな。
……ああ、地下には、少しばかり頑丈な金庫室も必要ですわね」
「ろ、六十階建ての最新鋭ビルを、丸ごと一棟……っ!」
「工期はなるべく早めでお願いいたしますわ。
……予算は、全く気にしなくて結構ですのよ?
永田町の先生方や、経団連の方々からいただいた『お掃除の資金』が、まだまだ有り余っておりますから」
雅由美が、鳶色の瞳を妖しく煌めかせて微笑むと、
父と兄は、もはや言葉を失い、ただハンカチで滝のように流れる脂汗を拭うことしかできなかった。
裏社会の資金を、表の超巨大プロジェクトに惜しげもなく投入し、東京のど真ん中に新たな『龍の城』を築き上げようというのだ。
そのスケールの大きさと、何よりもそれを涼しい顔でやってのける妹の底知れなさに、男二人は完全な敗北を悟り、ただ深く、深く頷くのであった。
「……承知した。神龍寺の総力を挙げて、お前の望む最高のビルを建てよう」
「ありがとう、お父様、お兄様。完成を楽しみにしておりますわ」
ビジネスの商談(という名の絶対命令)を完璧に終え、雅由美は優雅に会長室を後にした。
再びVIP専用エレベーターに乗り、一階のエントランスホールへと降り立つ。
「あ……」
エレベーターの扉が開いた瞬間、雅由美は小さく目を丸くした。
エントランスの隅、一般客の邪魔にならない場所に。
先ほどのお局様をはじめ、三ヶ月間苦楽を共にした、秘書課の女性社員たちが全員、ズラリと並んで待っていたのだ。
「皆様……」
雅由美が近づくと、女性社員たちは、涙ぐみながら、しかし満面の笑みで、一斉に深くお辞儀をした。
「雅由美お嬢様! 素敵なお菓子と、過分なお心遣い、本当にありがとうございましたっ!」
「神龍寺ちゃん……ううん、お嬢様! またいつでも、秘書課に遊びに来てくださいね!」
彼女たちの目には、恐ろしいマフィアのボスを見る恐怖など微塵もなかった。
そこにあるのは、共に働き、共に笑い合った、大切な『後輩』へ向ける、心からの温かい親愛の情であった。
「……ええ。本当に、ありがとうございました。皆様も、お仕事頑張ってね」
雅由美は、この日一番の、裏も表もない、一人の普通の二十四歳の女性としての、とびきり美しく、心からの笑顔を咲かせた。
秋の陽光が差し込む、全面ガラス張りのエントランスホール。
迎えの漆黒のセダンに乗り込む無敵の令嬢の背中を、懐かしい仲間たちの温かい拍手と見送りの声が、いつまでも優しく包み込んでいた。




