第五十三章
秋も深まり、肌に触れる風がひんやりとした冷気を帯び始めた頃。
祖父から受け継いだ広大な神龍寺本邸の、静寂に包まれた縁側。
枯山水の庭園を彩る紅葉が、鮮やかな赤や黄色に色づき始めている。
暮れ行く茜色の空を一人静かに眺めながら、雅由美は手酌で杯を傾けていた。
肴は、猛毒を長い年月をかけて極上の旨味へと変えた珍味『河豚の卵巣のぬか漬け』。
それに合わせるのは、ふくよかな香りと深いコクを持つ燗酒『幻々』である。
「……秋は、どうしてこうも人を感傷的にさせるのかしらね」
ぽつりと零した独り言は、暮れゆく空に吸い込まれて消えた。
権力の頂点に立ち、政財界を思いのままに操る無敵の令嬢。
しかし、その実態は、二十四歳にして未だ男性の肌の温もりを知らない、孤独な生娘である。
背中に重い龍を飼うがゆえに、普通の女性としての幸福を遠ざけてきた代償。
燗酒の熱が体を温めるほどに、ひりつくような人恋しさが、雅由美の胸の奥で静かに疼き始めていた。
夜半も過ぎた頃。
雅由美は、邸宅の自室で静かに私服へと着替えていた。
選んだのは、世間一般の年相応の女性が好むような、少しだけ派手目で都会的な装い。
柔らかな落ち感が女性らしいアムンゼンジャージーのスカートセットアップ。
その上に、上質なウールブレンドリバーフーディーロングコートをふわりと羽織り、
お気に入りのハイブランドの小ぶりなバッグを肩にかける。
裏社会の首領としての覇気を完全に消し去った彼女は、
どこからどう見ても、美しく、そして少しだけ隙のある「都会の令嬢」であった。
密かに手配したウーバータクシーに乗り込み、向かった先は都心の高級ホテル。
最上階にある、宝石箱をひっくり返したような夜景が楽しめるラウンジバーである。
「……綺麗な夜景」
薄暗い照明の中、窓際の席に一人腰を下ろした雅由美は、
グラスの中の鮮やかなカクテルを静かに舐めながら、眼下の光の海を見つめていた。
周囲のざわめきが、かえって心地よい孤独と解放感を連れてくる。
「……お隣、よろしいですか? お独りのようですが」
不意に、柔らかな、しかし自信に満ちた男の声が響いた。
視線を向けると、三十代半ばほどの、仕立ての良いブランドスーツをスマートに着こなした男が、魅力的な笑みを浮かべて立っていた。
「ええ。構いませんわ」
雅由美がふわりと微笑んでグラスを傾けると、男は嬉しそうに隣に腰を下ろした。
彼は洗練された話術の持ち主で、映画やワイン、最近の流行など、
他愛のない、しかし気の利いた会話で雅由美を楽しませた。
国家の行く末や裏金の処理ではない、ただの男女の、甘く軽薄な駆け引き。
それは雅由美にとって、初めて味わう極上の『普通』であった。
「……あなたと話していると、とても楽しい。もしよければ……僕の部屋で、もう少し飲みませんか?」
数杯のカクテルを飲み終えた頃、男が熱を帯びた瞳で、静かに誘いの言葉を口にした。
「……ええ、喜んで」
生娘であっても、その言葉が意味する処は痛いほどに理解できている。
むしろ、それこそが、今夜の雅由美が求めていたものであった。
彼女は、誰かに愛されたかったのではない。
ただ一度だけ、自分が「ただの女」になれる夜を、自らの意思で選び取りたかったのだ。
案内されたのは、同じホテル内の、広めのダブルベッドが中央に鎮座するラグジュアリーな客室だった。
テーブルの上には、彼が予めルームサービスで頼んでおいたのだろう、
気の利いた簡単なオードブルの盛り合わせと、氷の入ったグラスが用意されている。
「さあ、どうぞ。山崎の五年物モルトです。希少な若い原酒ですが、華やかで美味しいですよ」
「ありがとう。では、素敵な夜に……乾杯」
琥珀色のハイボールが入ったグラスを合わせ、静かに喉を鳴らす。
アルコールの熱と、男の指先が頬に触れた感触が、雅由美の身体を甘く痺れさせていく。
やがて、二人は自然な流れでベッドへと倒れ込んだ。
「……綺麗だ。信じられないくらい、綺麗な肌をしているね」
「……ふふっ、お上手ですのね」
男の滑らかな手つきに身を委ねながらも、雅由美の理性は完全に冷徹なままであった。
彼女の背中には、決して見せてはならない『巨大な上り龍』が眠っている。
もしそれを見られれば、この甘い一夜の夢は一瞬にして覚め、恐怖と混乱に支配されるだろう。
だからこそ、雅由美は男を巧みに誘導し、終始、シーツに背を預けたまま、
彼の下で、ただ前だけを見せて抱かれ続けた。
初めて知る、身を引き裂かれるような痛みと、それに続く微かな熱情。
しかし、彼女の心の一部は、どこまでも静かに、
天井の微かな染みを見つめながら、この行為を冷静に観察していた。
私は今、女になっている。裏社会の会頭でもなく、神龍寺の令嬢でもない、ただの一人の女に。
「……少し、シャワーを浴びてくるよ。君はゆっくり休んでいて」
「ええ。いってらっしゃい」
事後、満足げな表情を浮かべた男が、バスルームへと消えていく。
シャワーの水音が聞こえ始めた瞬間、雅由美は音もなくベッドから滑り降りた。
痛む身体に鞭を打ち、手早く、しかし完璧に身支度を整える。
ホテルのメモ帳を一枚破り、備え付けのペンで、流れるような美しい文字を走らせる。
『楽しかったわ、ありがとう。さようなら』
ただそれだけを書き残し、雅由美は眠る龍をコートで隠し、
一度も振り返ることなく、そっと部屋を後にした。
夜明け前の、青白い光に包まれた神龍寺本邸。
誰にも気づかれることなく邸宅の自室へと戻った雅由美は、
衣服を全て脱ぎ捨て、バスルームの熱いシャワーの下へと身を沈めた。
「…………」
無言のまま、熱めのお湯を全身に浴びる。
シーツの温もり。初めての痛みの記憶。
太腿を伝って流れ落ちる、赤い雫。
そして、身体の奥に僅かに残された、見知らぬ男の白い残り香。
それらが全て、熱いお湯に溶け、排水溝へと吸い込まれて消えていく。
ただの女であった時間は、もう終わった。
鏡越しに振り返れば、お湯に濡れて鮮やかに浮かび上がる、
決して消えることのない青と金の上り龍が、誇り高くこちらを見つめ返している。
「……さあ、朝が来ますわね」
洗い流されたのは、少女としての最後の純潔と、甘い幻。
残されたのは、世界を統べる冷徹な龍の覚悟だけ。
雅由美は、静かにシャワーを止め、ゆっくりと、新しい一日へと歩み出していくのであった。




