第五十二章
雅由美の通いの書生生活が、半年という月日を迎えようとしていた頃。
季節は巡り、夜風が肌寒さを感じる秋の夜長。
御堂筋邸の、美しく手入れされた日本庭園を望む縁側で、
二人は秋虫の音を聞きながら、静かに月見酒を傾けていた。
「……雅由美ちゃん」
翁が、ふと、静かな、しかし確かな重みを持つ声で切り出した。
「はい、翁」
「お前さん。……俺の『後』を、継ぐ気はないか?」
「え……?」
雅由美は、翁の杯に酒を注ごうとしていた銚子を、ピタリと止めた。
「この半年、お前の温文爾雅な振る舞い、そしてその裏に隠された、
氷のように冷徹な計算と知略。全てを、一番近くで見させてもらった」
翁は、夜空に浮かぶ名月を見上げながら、言葉を紡ぐ。
「お前なら、俺が死んだ後、この日本の『真の黒幕』としての玉座を、
完璧に、そして俺以上に美しく、引き継げるじゃろうて」
それは、単なるマフィアのボスとしてではなく。
日本の国家そのものを裏から操る、究極のフィクサーへの指名であった。
財界も、政界も、官僚機構も、全てを統べる神のような座。
その絶対的な権力を、弱冠二十三歳の女性に託そうというのである。
秋風が、縁側に吊るされた風鈴を、チリン、と寂しげに鳴らした。
雅由美は、持っていた銚子を静かに置き、居住まいを正した。
そして、その深く、全てを見透かすような鳶色の瞳で、
真っ直ぐに、翁の目を見つめ返した。
「……光栄なお言葉ですわ、翁。
私のような未熟者に、そこまでの評価をいただけるとは」
雅由美は、月光に照らされた庭を見つめ、
ふわりと、どこか寂しげな、しかし気高い微笑みを浮かべた。
「ですが、翁。……私には、心を通わせる『相手』もおりませんし、
私の血を継ぎ、未来を託す『子』もおりませんわ。
この命が尽きれば、全てがそこで終わってしまう。
……とても、孤独な龍ですのよ」
その声には、若くして全てを手に入れてしまった者だけが知る、
絶対的な孤独と、虚無の影が落ちていた。
普通の女性としての幸せを全て捨て去り、
修羅の道を歩み続けることを選んだ、彼女自身の代償。
「それでも」
雅由美は、静かに、畳の上に三つ指をついた。
「私の背中に張り付いた、この決して消えることのない
『大門(極道の代紋)』付きでも、よろしければ」
彼女は、翁に向かって、これ以上ないほど深く、そして美しく頭を下げた。
「翁が人生を懸けて作り上げた、この美しい国を。
私が全て、この懐で、生涯をかけてお引き受けいたします」
「…………」
一瞬の、静寂。
そして。
「……かっかっか! わーーっはっはっは!!」
翁は、夜空に向かって豪快に、そして心の底から嬉しそうに大笑いした。
「良い返事だ!! 相手がいなかろうが、極道の大門を背負っていようが、
そんな些末なことはどうでも良い!
お前という最高傑作に、この国の全てを託せるというのなら、
俺はいつお迎えが来ても、本望だわい!」
翁のシワだらけの目尻から、一筋の歓喜の涙が光った。
それは、自らの人生の全てを託せる『真の後継者』を見つけた、
老いたる怪物の、心からの喜びの涙であった。
雅由美もまた、顔を上げ、妖艶で、そしてこの上なく優しい笑みを浮かべた。
「長生きしてくださいませ、翁。
私にはまだ、翁から学ぶべき『泥の味』がたくさん残っておりますから。
もう少しだけ、この書生を、お傍に置いてくださいな」
秋の夜空に浮かぶ、煌々とした名月。
日本の過去を背負い、全てを創り上げてきた老いた怪物と。
日本の未来の全てを背負い、新しい時代を創り出す若く美しき龍。
二人の魂が完全に通じ合い、歴史的な『究極の継承』が、
誰に知られることもなく、静かに成し遂げられた夜。
雅由美の背中に眠る上り龍もまた、月光を浴びて、
誇り高く、そして優雅に咆哮を上げているようであった。




