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第五十章



御堂筋翁の秘書として動く現実は、雅由美の想像以上に過酷で、

そして、生々しい『人間の業』と『欲望』に塗れていた。


「おい、君。このお茶、少し温いんじゃないか?

御堂筋先生の秘書なら、もっと気を利かせたまえよ」


昼時の、赤坂の超高級料亭。

重要な密談に訪れた、傲慢で知られる大物政治家が、

雅由美に向かって横柄な態度で、不機嫌そうに言い放った。


もしこれが、龍神連合会の会合の席であったなら。

あるいは、神龍寺グループの会食の場であったなら。

背後に控える竜也や黒田が、一秒で相手の首の骨を折っている場面である。


しかし、今の雅由美は、決して表情を崩すことはなかった。

彼女は、深く、美しいお辞儀をしてから、

ふわりと、全てを包み込むような柔らかな微笑みを浮かべた。


「大変申し訳ございません、先生」


雅由美の声は、どこまでも涼やかで、心地よい音楽のように響いた。


「先生は先ほどから、お風邪のせいか、お喉を少し痛めておられるご様子でした。

熱すぎるお茶は、お喉に負担をかけてしまう恐れがございましたので、

あえて、飲みやすく、喉に優しい温度で淹れさせていただきましたの」


「えっ……あ、いや……」


「私の出過ぎた真似でしたら、すぐにお淹れ直しいたしますわ。

……いかがいたしましょうか?」


雅由美が、小首を傾げて妖艶に見つめると、

大物政治家は、完全にドギマギと赤面し、慌てて首を横に振った。


「そ、そうか、私の体調を気遣って……。

い、いや、そのままでいい。うん、言われてみれば、ちょうど良い温度だ。

……君、なかなか気が利くじゃないか」


「もったいないお言葉、恐縮でございます」


雅由美は再び優雅に一礼し、音もなく座敷から下がった。

その一挙手一投足。言葉の端々にまで行き渡る、温文爾雅の極意。

相手の理不尽な要求や傲慢さを、力や恐怖でねじ伏せるのではなく、

完璧な礼節と、大人の色香、そして圧倒的な『知性』で、

絹綿で首を絞めるように、相手を自らのペースへと巻き込んでいく。


「……見事なものじゃな。まるで魔法でも見ているようだわい」


上座でタバコを燻らせていた翁が、感嘆の息を漏らす。


「翁。次の会食まで、あと四十分しかございませんわよ。

マスコミの目を避けるため、裏口にお車を回しておりますから、急ぎましょう」


雅由美の毎日は、秒単位でスケジュールが詰まっていた。

料亭の支払いから、気難しい要人への手土産の選定と手配、

そして、車内での翁への的確な情報伝達と、次の会合への誘導。


昼食をゆっくり摂る時間などあるはずもなく、

移動の黒塗りの車中で、家政婦が握ってくれた冷めた塩おにぎりを、

「美味しいですわ」と小さく齧るだけ、という日も珍しくはなかった。


「すまんな、雅由美ちゃん。天下のお嬢様に、こんなひもじい思いをさせて」


「ふふっ。翁ったら、何を仰いますの。

泥水を啜る覚悟で来たのですから、このおにぎりなんて、

極上のフレンチより百倍も美味しいご馳走ですわよ」


雅由美は、口元に付いたご飯粒を優雅にハンカチで拭いながら、

クスリとユーモアを交えて笑い飛ばす。

その屈託のない笑顔の裏で、彼女の精神は、

どんな圧力にも屈しない、しなやかで強靭な鋼へと鍛え上げられていた。


政財界の魑魅魍魎たちが蠢く、果てしない密談の連続。

そこで交わされる裏金、利権、そして愛憎のドラマ。

雅由美は、秘書として黙々とその全てを記録し、観察し、

人間の心の奥底に潜む『真の欲望』の形を、克明に学び取っていくのであった。




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