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第四十九章



初夏の風が、青葉の瑞々しい匂いを運んでくる季節。

雅由美は二十三歳という、女性として最も花開く年齢を迎えていた。

その美しさは、ただ可憐なだけではない。

幾多の修羅場を潜り抜け、政財界や裏社会の頂点に立つ男たちを

平然と手玉に取ってきた者だけが持つ、

底知れぬ妖艶さと、人を惹きつけてやまない凄み。

それが、今の彼女の全身から、見えない香りのように匂い立っている。


龍神連合会の八代目会頭として、そして神龍寺グループの影の支配者として。

現在の雅由美の足元には、一切の揺らぎも、淀みもなかった。

莫大な資金は尽きることなく循環し、表と裏の秩序は完璧に保たれている。

誰もが彼女に平伏し、彼女の描く完璧な図面通りに世界は動いていた。


しかし、その「順調すぎる完全無欠な日々」に、

ただ一人、鋭い警鐘を鳴らす男がいた。


ある日の午後。

実家の豪奢な私室で、雅由美が優雅にハーブティーを傾けていた時である。

彼女のプライベート用のスマートフォンが、低く震えた。


「……はい、雅由美でございます」


『おう、雅由美ちゃんか。昼日中から、随分と優雅な声色じゃな』


電話の主は、日本の政財界の奥の院に鎮座する真の黒幕、御堂筋翁であった。

そのしゃがれた声には、年老いた鷹のような鋭い響きが隠されている。


「ごきげんよう、翁。何か急なご用件でして?」


『いや、何。最近のお前さんは、全てにおいて順調すぎるほどに事が運び、

いささか退屈を持て余しておるのではないかと思ってな』


「……退屈、ですか?」


図星を突かれた雅由美は、カップをソーサーに静かに置いた。

確かに、最近は彼女が自ら手を下すまでもなく、

周囲の者たちが彼女の意を汲んで、全てを完璧に片付けてしまっていた。


『どうだ。もし時間が余っておるのなら、

俺の所で数ヶ月間、秘書兼「書生」として、通いで働いてみんか?』


「……私が、翁の書生に、でございますか?」


『左様。絶対的な権力の座に座り続けると、どうしても足元の泥が見えなくなる。

現実の泥水を啜り、辛酸甘苦しんさんかんくを自ら体験することも、

若くして全てを手に入れた龍には、良い薬になるじゃろうて』


翁の言葉は、まるで雅由美の心の奥底に潜む、

微かな慢心や隙を、鋭い刃で削ぎ落とすかのようであった。


(……なるほど。確かに、私は少しばかり高みに居すぎたのかもしれませんわね)


雅由美は、窓の外の青空を見上げ、ふわりと、だが決意を秘めた微笑みを浮かべた。


「ふふっ。翁から直々のご指名とあらば、断る理由などございませんわ。

……喜んで、お引き受けいたします」


『かっかっか! そう来なくては面白くない。

明日から、朝四時に裏口から入るように。手加減は一切せんぞ』


「ええ。厳しいご指導、楽しみにしておりますわ」


こうして、絶対的な支配者である若き令嬢の、

泥臭くも過酷な『仕える側』としての日々が幕を開けたのである。



翌朝。

まだ夜の帳が降り、空に星が瞬いている午前四時。

東京都内の閑静な一等地に広がる、御堂筋邸。

その広大な屋敷のひっそりとした勝手口を、雅由美は一人でくぐり抜けた。


「おはようございます。本日から書生としてお世話になります、雅由美です」


「ひぃっ!? りゅ、龍神の八代目ェッ!?」


出迎えた住み込みの家政婦や、古参の書生たちが、

文字通り腰を抜かし、土間に額を擦りつける勢いで平伏しようとする。


「いけませんわ、皆様。頭を上げてくださいな」


雅由美は、慌てて彼らの肩を支え、穏やかな声で諭した。


「ここでの私は、龍神の会頭でも、神龍寺の令嬢でもありません。

ただの『一番下っ端の書生』ですの。どうか、お気遣いなく、

ビシビシと仕事を教えてくださいませ」


「そ、そんな恐ろしいこと、できるわけが……っ!」


震える家政婦たちを優しく宥めながら、

雅由美は持参した純白の割烹着を、自らの手でしっかりと身につけた。


トントントントン……。

まだ誰も目覚めていない、静寂に包まれた暁の厨房。

雅由美が包丁で小気味よく白ネギを刻む音が、リズミカルに響き渡る。


(朝餉の基本は、出汁と火加減……。翁の体調を考慮して、

本日は少しばかり薄味で、胃に優しい献立にいたしましょう)


最高級の利尻昆布を水からじっくりと煮出し、

血合いを丁寧に取り除いた本枯節で、透き通るような黄金色の一番出汁を引く。

土鍋からは、ふっくらと炊き上がる白米の、甘く幸せな香りが立ち昇っていた。


午前六時。

「……翁。朝でございます。お目覚めはいかがでしょうか」


雅由美は、涼やかな薄藍色の単衣ひとえの着物に着替え、

翁の寝室の重厚な襖を、音もなく静かに開けた。


「……ふぁあ。……ん? 雅由美ちゃんか」


ベッドから身を起こした翁が、目を擦りながら驚いたような声を出す。


「はい。お着替えのお手伝いをさせていただきますわ。

本日は午後から、経団連の役員たちとの重要な会合がございますから、

こちらの濃鼠こいねず色の結城紬がよろしいかと存じます」


雅由美は、流れるような優雅な所作で、

予め用意しておいた極上の着物を広げてみせた。


「かっかっか。天下の龍神会頭に、朝一番から寝巻きを脱がせてもらうとは。

俺も長生きした甲斐があったというものだわい」


翁は愉快そうに笑いながら、雅由美の手を借りて着替えを済ませた。

そして、食堂のテーブルに並べられた朝餉を見るなり、ピタリと動きを止めた。


「……ほう」


「自家製の西京焼きと、三つ葉の赤だしでございます。

お口に合うとよろしいのですが」


翁は、味噌汁を一口すすり、深く、満足げな溜め息を吐いた。


「見事な出汁の香りだ。味付けも、塩分控えめでありながら深みがある。

俺の好みと体調を、初日から完全に把握しておるな」


「お気に召して、光栄でございます。

さあ、今日は分刻みのスケジュールでしてよ。

食事が済みましたら、すぐにお迎えのお車の手配をいたしますわ」


雅由美は、完璧な秘書としての微笑みを浮かべ、静かに一礼した。

かくして、日本の裏社会を統べる無敵の令嬢による、

前代未聞の「黒幕の片腕」としての過酷な修業が始まったのである。


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