第四十七章
雅由美の、波乱万丈なOL生活も残りわずかとなったある日。
秘書課のフロアに、キラキラとしたオーラを放つ、特別な「お客様」がやってきた。
「今日から一週間、インターンシップでこちらにお世話になります、
神龍寺彩美と申します! 未熟者ですが、よろしくお願いいたします!」
ピンと背筋を伸ばし、初々しいスーツ姿で元気よく挨拶をしたのは、
大学に入学して三年たったばかりの、雅由美の本当の妹である彩美であった。
姉である雅由美とは違い、裏社会のドロドロとした暗闘など全く知らずに、
神龍寺家の温かい愛情を一身に受けて育った、純真無垢で天真爛漫な箱入り娘である。
「まあ、彩美ちゃん。社長の本当のお嬢さんなのね!
とっても可愛らしいわ。……指導係はそうね、神龍寺ちゃん!
同じ名字のよしみで、お願いできるかしら?」
お局様からご指名を受け、野暮ったい黒縁メガネの新人OL・雅由美は、
「はいっ、お任せください!」と、ペコペコと頭を下げながら進み出た。
「あの、神龍寺先輩、一週間よろしくお願……い……?」
笑顔で挨拶をしようとした彩美の言葉が、ピタリと止まる。
そして、目の前にいる「冴えないメガネの先輩」の顔をジッと見つめ、
大きな目をパチクリとさせた。
「……あれ? あなた、どこかで……というか、そのお声……」
「ああっ! 彩美さん、まずは給湯室の案内からいたしましょうね!」
雅由美は、彩美が完全に気づく前にその細い腕をガシッと掴み、
ものすごいスピードで給湯室へと引きずり込んだ。
「ちょっ、ちょっと先輩!? 腕の力が強すぎ……」
「彩美! 私よ、お姉ちゃんよ!」
誰もいない給湯室で、雅由美がメガネを少しだけずらしてウインクをすると、
彩美は「ひゃあっ!?」と、可愛らしい悲鳴を上げて口を塞いだ。
「お、お姉様!? ど、どうしてそんな、変なメガネと髪型で……!
それにその制服、サイズも合ってないじゃないですか!」
「お父様の会社での、社会勉強の極秘任務ですの。
……いいこと、彩美。社内では私のことは『神龍寺先輩』と呼ぶのよ。
私がお姉ちゃんだということは、絶対に秘密ですからね?」
「ええーっ!? お姉様がOLさんのお仕事をしてるなんて……。
でも、なんだかスパイ映画みたいで面白そうです! 分かりました、先輩!」
そこからの一週間は、彩美の巻き起こすドタバタに、
雅由美が水面下で(そして極めて強引に)対処する、コメディの連続であった。
「せ、先輩! コピー機の紙が詰まっちゃって、ウンともスンとも言いませんぁっ!
急ぎの会議の資料なのに、どうしよう……!」
涙目の彩美から泣きつかれた雅由美は、
「貸しなさい。こういうのは、機械の『急所』を突けば直りますわ」と、
コピー機の側面に、目にも止まらぬ速さで『ドンッ!』と裏拳を叩き込んだ。
ウィィィィン……!
コピー機は恐怖したように震え上がり、何事もなかったかのように高速で印刷を再開した。
「すごい! 先輩、機械の修理もできるんですね!」
「ええ、少しばかり『物理的な説得』が得意なだけですわ」
またある時は。
「先輩……。私、他部署のすっごく怖い部長さんに、お茶をこぼしてしまって……。
『インターンの分際で何をしている!』って、ものすごく怒られちゃいました……」
「まあ、それは大変。……大丈夫よ、私が一緒に謝りに行ってあげますから」
雅由美は、しょんぼりする妹を連れて、その鬼部長のデスクへと向かった。
そして、彩美の影に隠れながら、部長の耳元でだけ聞こえるように囁いた。
「……部長。あなたが先週、銀座のクラブで会社の経費を不正利用した領収書、
私が社長室のシュレッダーにかける前に『保管』してありますわよ。
……インターンの子に、あまり厳しくなさらないでくださいね?」
「ヒッ……!!?」
鬼部長は、その地味なメガネOLの放つ絶対零度のプレッシャーと、
握られた最悪の弱みに、顔面を真っ白にして震え上がった。
「あ、いや! お茶をこぼしたくらい、全く気にしてないよ!
むしろクリーニング代を出させてくれ! 彩美君、これからも頑張ってね!」
「えっ? あ、はい! ありがとうございます、部長さん!」
ドジっ子の妹を完璧にフォローしながら、
雅由美は社内のあらゆるトラブルを解決し続けていった。
いつしか、野暮ったい新人の『神龍寺ちゃん』は、
社内のあらゆる部署から「困った時の神様」として、絶大な人気を集めるようになっていた。
そして、運命の三ヶ月の最終日。
彩美のインターンシップも終わりを迎え、
雅由美の研修期間も、いよいよタイムアップとなった。
「神龍寺ちゃん……! 本当に、今日で辞めちゃうのね……っ」
秘書課のフロアでは、お局様をはじめ、女性社員たちが
涙ぐみながら雅由美を囲んでいた。
厳しいことで有名な専務までが、「君がいなくなると、美味しいお茶が飲めなくなる」と、
寂しそうに肩を落としている。
「皆様、本当に三ヶ月間、ありがとうございました。
私にとって、かけがえのない、宝物のような時間でしたわ」
雅由美は、野暮ったい黒縁メガネの奥で、心からの、本当の感謝の涙を滲ませた。
国家を動かし、マフィアを統べる毎日の中では決して味わえない、
「普通の女の子」としての、温かく、そして愛おしい日常。
誰かと一緒にランチを食べ、愚痴を言い合い、小さな仕事に喜びを見出す。
その当たり前の平和が、どれほど尊いものかを、
彼女はこの三ヶ月で、痛いほどに学んだのだ。
「神龍寺ちゃん、これ、私たちからのプレゼントよ!
実家に帰っても、元気でね! たまには遊びに来るのよ!」
渡されたのは、秘書課の皆で寄せ書きした色紙と、
彩美もこっそりメッセージを書いた、可愛いブランドのボールペンだった。
「はい……! ずっと、大切にします……っ!」
雅由美が深く頭を下げると、フロア中から温かい拍手が巻き起こった。
その様子を、社長室の監視モニターからこっそりと見ていた父と兄の貴哉は。
「……良かった。あいつ、普通の女の子みたいな涙を流してるぞ」
「ああ。少しは、極道のプレッシャーから解放されたみたいだな。
……しかし、あの鬼部長を五秒で土下座させた時は、ヒヤヒヤしたが」
男二人は、ホッと胸を撫で下ろしながら、目頭を熱くして男泣きしていた。
翌日。
神龍寺邸の、広大な日本庭園。
雅由美は、美しい初夏の着物姿に戻り、
縁側に座って、もらった色紙を愛おしそうに眺めていた。
「お姉様! その節は、本当にお世話になりました!」
彩美が、明るい笑顔で縁側に駆け寄ってくる。
その手には、昨日まで雅由美がかけていた、あの黒縁メガネが握られていた。
「ふふっ。彩美も、一週間お疲れ様。とても立派でしたわよ」
「えへへ」
「……お嬢。やはり、お嬢にはそのお姿の方が、しっくりきますぜ」
背後に控える竜也が、少し嬉しそうに声をかける。
「そうね。魔法の時間は、もうおしまい」
雅由美は、色紙とボールペンを、大切な宝箱へとそっとしまった。
そして、彩美の頭を優しく撫でながら、眩しい初夏の空を見上げた。
「さあ、竜也、黒田。明日からはまた、忙しくなりますわよ。
香港のドンとの会談に、新しい法案の根回し……。
私が守らなければならない『彩美たちが生きる、当たり前の日常』が、
この国には、まだまだたくさんありますもの」
雅由美が立ち上がると、爽やかな風が、彼女の黒髪を美しく揺らした。
無敵の令嬢の、短くも愛おしいOL生活は終わりを告げ。
若き龍は再び、表と裏の世界を完璧に統べる気高き空へと、
優雅に、そして力強く舞い上がっていくのであった。




