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第四十五章



雅由美が、日本の政財界と裏社会を完全に掌握し、

全てにおいて順調すぎるほどの盤石な体制を築き上げた、二十二歳の春。

神龍寺グループの業績も、彼女の裏からの完璧な根回しにより、

グラフの針が天を突くような垂直に近い右肩上がりを記録していた。


五月の爽やかな朝。

久しぶりにこれといった「国家を揺るがすお掃除」の予定もなく、

暇を持て余し気味に実家で過ごしていた雅由美は、

家族が全員揃った豪奢なダイニングでの朝食後、

ふと、思いついたように呟いた。


「……私、少しばかり『OL』をしてみたいですわ」


ブッ!! ブフゥッ!!


その瞬間、優雅にお茶を飲んでいた父と、

コーヒーを飲んでいた兄・貴哉が、

文字通り盛大に飲み物を噴き出し、むせ返った。


「ゲホッ、ゴホッ! み、雅由美!? 今、なんと……!?」


「ですから。大学も卒業いたしましたし、社会勉強の一環として、

お父様の会社で、普通の制服を着たOLとして働いてみたいのです」


雅由美が涼しい顔でハンカチを差し出すと、

父と兄は、信じられないものを見るような顔で絶叫した。


「ば、馬鹿なことを言うな!

裏社会の頂点に君臨し、総理大臣を顎で使う『龍神の八代目』が、

うちのペーペーの平社員としてお茶汲みをするだと!?」


「お前がそのオーラを放ったままオフィスを歩いたら、

社員たちが萎縮して、恐怖で仕事にならんわ!

頼むから、大人しくお茶とお華でもやっていてくれ!」


必死で止める男たちに、雅由美はふわりと小悪魔のように微笑んだ。


「大丈夫ですわ、お兄様。

皆様が萎縮なさらないよう、完璧に『変装』してまいりますから」


「へ、変装……?」



翌週の月曜日。

神龍寺グループ本社ビルの、中枢である秘書課。

そこに、一人の『新人OL』が配属されてきた。


「今日から三ヶ月間、こちらの秘書課で研修生としてお世話になります、

山田……いえ、神龍寺と申します。よろしくお願いいたします」


三つ編みにした黒髪。

度の強い、野暮ったい黒縁メガネ。

そして、サイズの少し合っていない地味なグレーの制服。

姿勢もわざと少し丸め、あの絶対的な『龍の覇気』は、

深海一万メートルまで沈めたかのように、完全に消し去っている。

どこからどう見ても、田舎から出てきたばかりの、

冴えない、そして少しトロそうな新人社員であった。


(……完璧ですわ。これなら、誰も私に気づきません)


「神龍寺って……まさか、社長のご親戚?」


秘書課を仕切る、勤続二十年のベテランおつぼね社員が、

訝しげに黒縁メガネの新人を見定めた。


「い、いえっ。遠い親戚の端くれでして……。

コネで入れていただいたようなもので、右も左も分かりません。

どうか、厳しくご指導くださいませ」


雅由美がペコペコと頭を下げると、お局様は一つ溜め息をついた。


「はぁ……。まあいいわ。まずは、あそこのシュレッダーがけと、

会議室の灰皿の掃除をお願いね。それが終わったら、

専務のスケジュールの入力。間違えないでよ?」


「はいっ! 一生懸命やらせていただきます!」


こうして、世界を牛耳る無敵の令嬢の、

波乱に満ちた(そして周囲にとっては大迷惑な)OL生活が幕を開けた。


雅由美の事務処理能力は、当然ながら人間の限界を超えていた。

数万人のマフィアの組織図と裏金リストを頭の中で処理する女である。

山のようなデータ入力も、来客のスケジュール調整も、

野暮ったい顔をして「えへへ、頑張りました」と笑いながら、

全て完璧に、そして神速で終わらせてしまうのだ。


「……山田さん、いえ、神龍寺さん。あなた、見かけによらず優秀ね」


数日後には、厳しかったお局様もすっかり雅由美を気に入り、

「ちょっと、あっちの部署の書類も取りに行ってきてくれる?」と、

重宝するようになっていた。


さらに、気難しいことで有名な専務取締役も、

雅由美の淹れる完璧な温度と香りの緑茶(※極道の幹部に出すのと同じクオリティ)に

すっかり骨抜きにされ、

「神龍寺君、君が淹れるお茶は、なぜか寿命が延びる気がするよ」と、

事あるごとに彼女を呼び出す始末である。


そんなある日。

父である社長と兄の貴哉が、応接室で、

取引先であるワンマン企業の強欲な社長と、重要な面談を行っていた。


「……ですから、神龍寺さん。この条件でなければ、

我が社としては、このプロジェクトから手を引かせていただきますよ」


恰幅の良いワンマン社長が、ふんぞり返って横柄な態度で言い放つ。

父と兄は、相手の理不尽な要求に、苦渋の表情を浮かべていた。


「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」


そこへ、黒縁メガネの冴えない新人OL・雅由美が、

お盆を持ってトコトコと入ってきた。


「なんだ、このトロそうな女は。

神龍寺ともあろう大企業が、こんな不細工な茶汲みを雇っているのか?」


ワンマン社長が、雅由美をジロリと見て下品に鼻で笑う。

その瞬間。父と貴哉の心臓が、恐怖で「ヒュッ」と跳ね上がった。


(ば、馬鹿野郎!! お前、今、誰に向かって暴言を……!!)


二人が絶望の冷や汗を流す中、雅由美はコトリ、と

ワンマン社長の前に、極上の煎茶を置いた。


そして、わざとらしく「あっ」と小さく声を上げ、

持っていたバインダーから、一枚の書類を、

ワンマン社長の膝元に、ハラリと落とした。


「も、申し訳ございません! 手が滑ってしまって……」


雅由美が慌てて拾い上げるフリをしながら、

ワンマン社長の耳元にだけ聞こえる、絶対零度の声で、小さく囁いた。


「……社長。あなたの会社の裏口座に入っている、

例の脱税資金。……私がお掃除しましょうか?」


「…………ヒッ!?」


ワンマン社長の顔から、一瞬にして全ての血の気が失われた。

落とされた書類には、彼の会社の完全な裏帳簿のコピーが、

一瞬だけ、確かに見えたのだ。


「あ、あの……先ほどの条件ですが、やはりこちらの勘違いでした!

神龍寺様のご提案通り、喜んで契約させていただきますぅっ!!」


ワンマン社長は、ガタガタと震えながら、

あっという間に契約書にサインをして、逃げるように帰っていった。


「ふぅ。お茶出しも、一苦労ですわね」


黒縁メガネの奥で、鳶色の瞳を妖しく光らせる妹を前に、

父と貴哉は、ただ胃薬を水なしで飲み込むことしかできなかった。



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