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第四十四章



梅雨の気配が近づき、しっとりとした夜の空気が街を包み込む六月。

永田町の喧騒から少し離れた、大物政治家たちが極秘の密談に用いることで知られる老舗料亭。

その最も奥深く、厳重な警備が敷かれた離れの座敷で、雅由美は一人、静かに上座を空けて待っていた。


今宵の雅由美は、涼やかな紫陽花があしらわれた薄水色の訪問着姿である。

そこへ、襖の向こうから女将の恭しい声が響いた。


「……総理。ご案内いたします」


スッと襖が開き、姿を現したのは、一国の最高権力者である内閣総理大臣であった。

しかし、その顔色は土気色に濁り、目の下にはくっきりと深い隈が刻まれている。

総理は、女将が襖を閉めるなり、ネクタイを乱暴に緩め、上座の座布団の上にドカッとだらしなく胡坐あぐらをかいた。


「……ふぅーっ……」


「まあ、総理。随分とおやつれになって……」


雅由美が、扇子を広げて優雅に小首を傾げると、総理は深い、ひどく重い溜め息を吐き出した。


「……すまんが、今は上品に背筋を伸ばして酒を飲む気力もない。神龍寺会頭、今日は一体何の用だね……」


「よろしければ、お悩みをお聞かせくださいな。人に話すだけでも、少しは気持ちが落ち着けますわよ?」


雅由美が、極上の冷酒を総理の杯に静かに注ぎながら、聖母のような優しい声で囁く。

その甘く落ち着いた声に誘われるように、極限まで疲労困憊していた総理は、ポツリポツリと国家の最高機密を愚痴り始めた。


「……アメリカの、大統領だよ」


総理は、注がれた冷酒を一気に煽り、恨めしそうに空の杯を見つめた。


「あの男、秋の選挙が近いせいで、国内のアピールに必死でな。日本に対して、食品以外の全ての関税率を『ゼロ近くまで引き下げろ』という、無茶苦茶な要求を突きつけてきているんだ」


「まあ。随分と強引なアメリカン・ファーストですこと」


「それだけじゃない。もし呑まなければ、日本の生命線である輸入車と電子部品の関税税率を、従来の四倍に引き上げると脅してきている! 裏会談でいくら譲歩を求めても、全く首を縦に振らん……! おかげでこっちは、連日深夜まで対策会議だ。もう胃に穴が空きそうだよ……」


頭を抱え、文字通り疲労のピークに達している総理を見下ろし、雅由美はフフッと涼やかに微笑んだ。


「まあ。お疲れのところをお呼び立てしてしまって、申し訳ありませんでしたわ。……実は本日は、先日の『お掃除』の件のお礼をお渡ししたくて」


雅由美は、傍らに置いていた重厚なジュラルミン製のアタッシュケースを、総理の目の前へと音もなく滑らせた。

カチッ、と金属の留め具を外し、蓋を開ける。


「……なっ」


総理の目が、限界まで見開かれた。

そこには、帯封のされた真新しい一万円札が、ぎっしりと敷き詰められていた。しめて一億円の現金である。


「これは、父が率いる神龍寺グループからの、正当な『政治献金』ですわ。後でしっかりと、領収書を切ってくださいね?」


雅由美の言葉に、総理は言葉を失い、ただ瞬きを繰り返した。

先日、莫大な裏金を没収クリーニングされたばかりだというのに、今度は表の合法的なルートで、一億円もの弾薬(資金)を与えられたのだ。

飴と鞭の、あまりにも完璧な使い分けである。


「そ、それは助かるが……今の私は、この金をどう使うか考える頭すら回らんよ……」


「ふふっ。ゆっくりお休みになってからお考えになればよろしいわ」


雅由美はアタッシュケースを閉じ、蠱惑的な笑みを浮かべた。


「それから……総理のお悩み、私のアメリカの『ご友人』に、少し伺ってみますわね」


「……友人? 君の友人が、あのアメリカ大統領に意見できるとでも言うのかね……?」


総理は、もはや期待すらしていない虚ろな目で、力なく呟いた。


「ああ……もし交渉できるなら、関税ゼロはせめて『四品しひん』くらいにしてくれ……」


完全に匙を投げ、がっくりと項垂れる総理。

雅由美は、「ええ、承知いたしましたわ」と、優雅に扇子で口元を隠し、夜の料亭の闇に妖しく微笑むのであった。




数日後。

神龍寺本邸の、雅由美の私室。

静かな昼下がりのティータイムを楽しんでいた彼女のプライベートスマートフォンが、けたたましく鳴り響いた。


「……はい。雅由美ですわ」


『君は……ッ! 君は、一体何をしたんだ!?』


電話の向こうから、先日の死に体のような様子からは打って変わった、総理の興奮しきった大声が飛び込んできた。


「あら、総理。ごきげんよう。随分とお元気になられたようですわね」


『態度が一変したんだよ!! あの、絶対に譲歩しなかった大統領が、今日の裏交渉で突然、「日本の事情を最大限考慮する」と言い出したんだ! 自動車と電子部品の関税引き上げは白紙撤回、こちらの要求をほぼ丸呑みする形で、完全な裏交渉が成立したんだぞ!!』


電話越しにでも、総理が歓喜で震えているのが伝わってくる。


「まあ、それは重畳でございましたわね」


雅由美は、最高級のダージリンの香りを楽しみながら、ふわりと微笑んだ。


「私のアメリカの友人のパパ……アメリカ政界のドンであるウィリアムズ上院議員と、マフィアのファルコーネ氏が、大統領の強力なスポンサー様に、少しばかり『ご挨拶』をしてくださったみたいですわ」


『上院議員と、マフィアのボスだと……!? 君の「アメリカの友人」というのは、一体どういう……いや、もう聞くまい』


総理は、電話の向こうでゴクリと唾を飲み込む音を立てた。

一国のトップが何日徹夜しても動かせなかったアメリカ大統領を、たった一本の国際電話で、裏社会とアメリカ政界の黒幕を動かして屈服させてしまったのだ。

この若き令嬢の持つ権力は、もはや国家の枠組みを完全に超越している。


『……神龍寺会頭』


総理の声が、深い畏敬と絶対的な服従を帯びた、厳粛なものに変わった。


『今後、あなたに……いや、神龍寺に何かお困りの事が有れば、私に何なりとお申し付け下さい。国家を挙げて、全力でサポートをお約束しよう』


「ええ。頼りにしておりますわ、総理」


雅由美は、優雅な手つきで電話を切った。

日本の裏社会を統べ、財界を掌握し、そしてついに内閣総理大臣を完全に「自らの駒」として盤上に据えた若き龍。

初夏の陽光が差し込む窓辺で、彼女は極上の紅茶を一口含み、その美しくも恐ろしい軌跡に思いを馳せながら、満足げに微笑むのであった。



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