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第四十三章



若葉が目に鮮やかな、五月の初旬。

赤坂の奥まった路地にひっそりと暖簾を掲げる、一見さんお断りの老舗料亭。

手入れの行き届いた日本庭園から、鹿威しの澄んだ音が静かに響き渡る。


女将の恭しい案内で、一番奥の離れの座敷へと通された雅由美。

音もなく襖が開かれると、そこには、すでに到着して上座に腰を下ろしている経団連のトップ、白川会長の姿があった。


雅由美は静かに座敷へと進み出ると、涼やかな藤の花が描かれた初夏の訪問着の裾を美しく捌き、畳の上に三つ指をついた。


「……お待たせいたしましたわ、白川会長」


「いや、私の方こそ少しばかり早く着きすぎてしまったようだ。……今宵も、見事な装いだな、神龍寺会頭」


白川は、重厚な座卓の向かいに腰を下ろす雅由美へ、探るような、それでいて魅了されたような視線を向けた。

先日の、御堂筋翁を交えた密談。あの夜、莫大な企業の裏金帳簿を盾に取られ、完全にこの若き令嬢の軍門に降った記憶は、白川の脳裏に焼き付いて離れない。


「本日は、先日の『お掃除』をご了承いただいたお礼と、これからの末長いお付き合いを祝しまして、ささやかながら一席設けさせていただきましたの」


雅由美は、ふわりと微笑むと、持参した美しい桐の箱を、白川の目の前へと静かに滑らせた。


「これは……?」


「老舗の和菓子屋に特別に設えさせた、季節の生菓子の詰め合わせでございます。奥様とお茶でも召し上がっていただこうと思いまして。……それと」


雅由美の鳶色の瞳が、スッと細められる。


「少しばかりですが、私からの『お気持ち』ですわ」


白川が訝しげに桐の箱の蓋を開けると、色とりどりの美しい和菓子の下段に、和紙で丁寧に包まれた『一千万円の札束』が、静かに鎮座していた。


「なっ……! こ、これは、一体何のつもりだ!?」


白川の顔色が変わる。

日本経済のトップである彼にとって、一千万円などポケットマネーに等しい。だが、これは金銭の多寡の問題ではない。裏社会のトップから渡される『現金』。それは、極道の論理において「これを小遣いとして受け取り、私の庇護下に入れ」という、明確な主従関係を突きつける儀式に他ならないのだ。


「そんなに怖いお顔をなさらないで。ただの、ほんのご挨拶ですわ。……それよりも、会長」


雅由美は、極上の冷酒が注がれた銚子を手に取り、優雅な手つきで白川の杯を満たした。月下美人のような、大人の女の甘い香りがふわりと漂う。


「最近、何か『お困り事』はございませんこと?」


「……お困り事、だと?」


「ええ。日本の経済を背負って立つお立場ですもの。警察や表の法律では、どうにもならないような厄介事の一つや二つ、おありでしょう?」


白川は、注がれた冷酒を無言のまま見つめ、やがて、深く重い溜め息を吐き出した。

裏社会からの甘い誘惑。決して乗ってはいけないと頭では理解していても、彼には今、喉から手が出るほど解決したい『問題』があったのだ。


「……笑うかもしれないがね。今、私が最も頭を悩ませているのは、暴力団でも、海外のハゲタカファンドでもない」


白川は、苦渋に満ちた表情で口を開いた。


「『環境保護』を謳う、得体の知れない市民団体だよ」


「まあ。市民団体、ですか?」


考えれば納得できる、極めて現代的で、大企業ゆえの意外な弱点であった。


「我が社が社運を懸けて進めている、地方の次世代半導体工場の巨大な建設プロジェクトがある。……だが、そこに突然、過激な環境保護NGOが座り込みを始め、重機を破壊し、工事が完全にストップしてしまっているのだ」


白川の拳が、微かに震える。


「彼らはメディアを巧みに操り、自分たちを『自然を守る善良な市民』としてアピールしている。警察も世論の反発を恐れて強行排除に踏み切れず、我が社は一日数億円という莫大な損害を垂れ流し続けているのだよ。……金や権力では、どうにもならんのだ」


大企業ゆえに、コンプライアンスと世論に縛られ、身動きが取れない。

そのジレンマを語る白川の顔は、疲労でひどく老け込んで見えた。


「……なるほど。それは、大変ご愁傷様ですわね」


雅由美は、扇子を静かに開き、口元を隠して小悪魔のように微笑んだ。


「その厄介なお掃除、私が引き受けさせていただきますわ」


「なっ……!? いや、しかし相手は一般市民だぞ! もしあなたの組織が手を出したと知られれば、それこそ我が社は完全に終わりだ!」


「ご安心なさい。私は、力任せの野蛮な真似は好みませんの。……少しばかり、彼らの『埃』を払うだけですわ」


雅由美は、スッと一枚の黒い名刺を差し出した。

そこには、神龍寺グループの紋章と、彼女直通のプライベートダイヤルの番号だけが、金色の箔押しで刻まれている。


「……神龍寺会頭。あなたの、本当の目的は何だ?」


白川は、その名刺を震える手で受け取りながら、絞り出すような声で尋ねた。


「政界の裏金を掌握し、財界の弱みを握り、そして今度は私の尻拭いまで引き受けようというのか。……あなたがたが、なぜそこまでして、表の世界に干渉する?」


雅由美は、涼やかな鳶色の瞳で、白川を真っ直ぐに見据えた。


「ふふっ。実は……これから私共も、『まっとうな商売』を大々的に広げていこうと考えておりますの」


「まっとうな、商売……?」


「ええ。龍神の資金を使って建設した専門学校や、様々な合法的な企業。それらを、日本経済の表舞台で堂々と活躍させるためには……経団連のトップである白川会長の『強力なご推薦と後ろ盾』が、どうしても必要になりますわ」


雅由美の言葉に、白川は完全に息を呑んだ。

彼女は、裏で莫大な資金と権力を握りながら、表の経済界の中枢にまで、堂々と合法的になり代わろうとしているのだ。


「あなた方の抱える膿を取り除き、日本経済を綺麗にして差し上げる。……その対価として、私共の表のビジネスを、全力で守り、引き上げていただきますわ。……お互いにとって、とても有益な関係ではありませんこと?」


逆らうことなど、もはや不可能であった。

白川は、まるで美しい毒蛇に見入られた蛙のように、ただ無言で深く頷くことしかできなかった。



それから、わずか数日後のこと。

経団連会長室で頭を抱えていた白川の元に、雅由美のプライベートダイヤルから一本の電話が入った。


『……白川会長。ごきげんよう』


「か、会頭……。どうなったかね?」


『ええ。工場建設を妨害していたNGO団体ですが、昨夜、代表を含めた幹部全員が、警察に逮捕されましたわ』


「た、逮捕!? 一体、どうやって……!」


『簡単なことですわ。我が龍神の電脳組に彼らの資金源を洗わせたところ、環境保護などというのは真っ赤な嘘。実態は、会長のプロジェクトを妨害して利益を得ようとする、海外の某国の工作機関から莫大な資金援助を受けていた、ただの「偽装団体」でしたの』


雅由美の涼やかな声が、電話口から響く。


『その動かぬ証拠となる通信記録と裏口座のデータを、警察の公安部と、大手メディアに「匿名」で提供いたしましたの。……今頃、テレビのニュースで大々的に報じられているはずですわよ?』


白川が慌てて室内のテレビをつけると、まさにその団体が、外国資本の手先として国家的な事業を妨害していたというスキャンダルが、速報で大々的に報じられていた。マスコミの掌返しは早く、彼らは一瞬にして「善良な市民」から「国賊」へと地に堕ちていた。


「こ、こんなにあっさりと……私が何ヶ月も悩まされ、数十億の損害を出した問題が……」


『工場の建設、明日からすぐに再開できますわね。……あ、そうそう』


雅由美の声が、ふわりと甘く、そして恐ろしく鼓膜を撫でた。


『先日お渡ししたお菓子の箱の底の「お気持ち」。……どうか、遠慮なさらずにお使いになってくださいな。これからは、私共の表のビジネスの件で、頻繁に「ご相談」に上がることになりますから』


「ッ……!!」


ツー、ツー、という無機質な電子音が響く。

白川は、デスクの上に置かれた黒い名刺と、引き出しの奥にしまった一千万円の札束を思い出し、全身から血の気が引くのを感じた。


この若く美しき龍は、表も裏も関係なく、全てを喰らい尽くす気だ。

恩を売られ、弱みを握られ、そして金を受け取ってしまった以上、もはや彼女の支配から逃れる術はない。


「……私は、とんでもない沼に、足を踏み入れてしまったようだ……」


初夏の明るい日差しが差し込む豪奢な会長室で。

日本経済の頂点に立つ男は、決して逃れられない底無しの『雅由美という沼』に、頭まで完全に沈み込んでいく心地よさと絶対的な恐怖に、ただ一人、ガクガクと肩を震わせるのであった。



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