第三十九章
晩秋の風が、庭の紅葉を静かに揺らす夜。
都内の喧騒から完全に隔絶された、政財界の奥の院とも呼ばれる超高級料亭。
その最も奥深く、限られた者しか足を踏み入れることの許されない離れの座敷へ、
雅由美は、女将の恭しい案内に従って静かに廊下を進んでいた。
今宵の雅由美の装いは、深い夜空を思わせる濃紺の地に、
艶やかな銀糸で月下美人があしらわれた、極上の訪問着である。
八代目としての底知れぬ凄みと、二十一歳の女性としての瑞々しい色香。
その二つが完璧に溶け合い、歩くたびに微かな白檀の香りが周囲を甘く支配する。
「……こちらでございます」
女将が音もなく襖を開けると、そこには、すでに密やかな宴を始めていた
二人の日本の最高権力者が、黒檀の重厚な座卓を挟んで座っていた。
「……お待たせいたしましたわ」
雅由美は、畳の上に静かに三つ指をつき、深く、そして美しくお辞儀をした。
上座で悠然と杯を傾けているのは、日本の真の黒幕である『御堂筋翁』。
そしてその対面に座るのは、日本経済の頂点に君臨する、経団連のトップ・白川会長であった。
「おお、来たか、雅由美ちゃん。さあ、こちらへ」
翁が相好を崩して手招きする。
雅由美は、しずしずと立ち上がり、黒檀のテーブルの前に進み出て、
柔らかな所作で腰を下ろした。
「……ほう」
白川会長が、手にした杯をピタリと止め、雅由美を真っ直ぐに見つめた。
「翁が『とびきりの秘蔵っ子』と自慢されるのも頷けますな。
先日の財界のレセプションでは、私の目の前の席にお座りになっておられたが……」
白川会長は、その時の記憶をなぞるように、感嘆の息を漏らした。
「あの時の、ただ華やかで可憐な令嬢の御姿とは打って変わり、
今夜はなんとも……妖しく、底知れぬ凄みを持っておいでだ。
まるで、鋭い名刀を極上の絹で包んだような……。
日々磨かれ、美しさの次元が一段と上がっておられる」
「かっかっか! そうだろう、白川さん。
この子は、会うたびに凄みが増していく。
そこらの凡百の女優など、裸足で逃げ出すほどの『極上の女』よ」
二人の老練な権力者が、雅由美の放つ大人の色香と気品に、
完全に魅了されたように目を細める。
「まあ。お二人とも、お上手ですこと。
レセプションの折には、白川会長の素晴らしいスピーチに聞き惚れておりましたのよ。
私など、まだまだ世間知らずの小娘でございますわ」
雅由美は、扇子で口元を隠し、小悪魔のように艶やかに微笑んだ。
その可憐な微笑みの裏に、国家を揺るがす絶対的な牙が隠されていることを、
白川会長はまだ、完全に理解してはいなかった。
「さて、雅由美ちゃん。今夜は、儂と白川さんの密飲みに、
わざわざ顔を出してくれたんだ。ただのお酌というわけではあるまい?」
翁の鋭い眼光が、雅由美を射抜く。
雅由美は、フフッと涼やかな笑い声をこぼすと、
手元の上質な和紙に包まれた分厚いファイルを、黒檀のテーブルの中央へと、
音もなく滑らせた。
「ええ。実はお二人に、ぜひ見ていただきたい『絵巻物』がございましてよ」
「……絵巻物、だと?」
白川会長が、訝しげにそのファイルを手に取り、表紙を捲った。
「…………」
数秒の沈黙。
そして、日本経済のトップに君臨する男の顔面から、
滝のような冷や汗が噴き出した。
「な、な、な……っ!!」
そこにあったのは、絵巻物などという雅なものではない。
日本を代表する名だたる大企業たちが、長年にわたり政界へ流し続けてきた
莫大な『裏金献金』の全ルート。
そして、その原資となっている、各企業の悪質な『税金逃れの二重帳簿』の、
完全無欠なデータと金額の羅列であった。
「こ、これは……!! 我が国の基幹産業を担う、トップ企業たちの……
裏帳簿の、完全なコピー……っ!?
な、なぜ、君がこんなものを……いや、どうやって……!?」
白川会長の唇が、ガタガタと無様に震えている。
もしこれが公になれば、経団連に所属する超大企業のトップたちが、
数十人単位で一斉に逮捕され、日本経済は文字通り崩壊する。
「かっかっかっ! わーーっはっはっは!!」
その様子を見ていた御堂筋翁が、腹を抱えて大爆笑した。
「やりおったな、雅由美ちゃん!
永田町の狸どもの財布を空っぽにしたと思ったら、
今度は、その金蔓である財界の重鎮どもの『金庫の底』まで
見事にぶっこ抜いてきおったか! 全く、恐ろしくも面白い物を見つけてきたわ!」
翁は、白川会長の絶望的な顔を肴にするように、愉快そうに酒を煽った。
「ふふっ。お褒めいただき、光栄ですわ、翁」
雅由美は、白川会長に向かって、スッと身を乗り出した。
月下美人の着物の襟元から、白檀の甘い香りが会長の鼻腔をくすぐる。
それは、死神の誘惑のように甘く、そして恐ろしい香りであった。
「白川会長。これほどまでに莫大な『埃』を溜め込んでいては、
日本経済という美しいお屋敷が、台無しになってしまいますわ」
雅由美の鳶色の瞳が、会長を真っ直ぐに射抜く。
「……私が、綺麗に『お掃除』させていただいても、よろしいかしら?」
「お、お掃除、だと……!?」
つまり、この天文学的な額の裏金を、全て雅由美(龍神)が没収するという宣言である。
「お、お待ちください、御堂筋翁!
いくらなんでも、これはやりすぎです! これほどの資金を抜かれれば、
我が国の企業活動そのものが立ち行かなくなりますぞ!
翁からも、どうかこのお嬢さんに止めるよう……っ!」
会長が必死の形相で翁にすがりつく。
しかし、翁は愉快そうに杯を置き、鷹のような目で笑った。
「……儂は構わんよ。雅由美ちゃん、好きにすると良い」
「お、翁……っ!!」
最強のフィクサーの言葉に、会長は完全に突き放され、絶望の淵に立たされた。
断れば、このファイルがマスコミや特捜部にリークされ、破滅は免れない。
しかし、全てを差し出すには、あまりにも血が流れすぎる。
葛藤で顔を歪める白川会長に対し、
雅由美は、極めて優雅な手つきで銚子を手に取った。
トクトクトク……。
静かな座敷に、澄んだ酒の音が響く。
雅由美は、白川会長の空になった杯に、なみなみと冷酒を注いだ。
「会長。そんなに怖いお顔をなさらないで」
雅由美は、会長の耳元にそっと顔を寄せ、蠱惑的な、
そして骨の髄までとろけるような甘い声で囁いた。
「……お二人には、決して『損』はさせませんわ」
「え……?」
「私が『お掃除』した資金は、すでに孤児院や、子供たちのための専門学校など、
未来の日本を支える人材育成の施設へと、還元し始めておりますの」
雅由美は、美しい流し目で会長を見つめた。
「いずれ、その優秀な子供たちが成長し、あなた方の企業を支える
強力な『力』となって戻ってまいります。
……目先の汚れたお金を手放して、クリーンで輝かしい未来への
『投資』だと思えば……安いものではございませんこと?」
「…………」
恐怖による脅迫と、甘く艶やかな未来の提示。
鞭と飴を、これほどまでに美しく、そして完璧に使いこなす女を、
白川会長はこれまでの人生で見たことがなかった。
「……負けだ。レセプションの席で、なぜあなたが翁の前で
あれほど堂々としておられたのか……今、痛いほど理解しましたよ。
神龍寺会頭……。日本の経済は、あなたの美しき掌の上というわけだ」
白川会長は、深く、深い溜め息を吐き出すと、
雅由美が注いだ杯を、一気に飲み干した。
それは、表の経済界が、裏の若き龍に完全に屈服した瞬間であった。
「ありがとうございます。……賢明なご判断ですわ、会長」
雅由美が極上の微笑みを浮かべると、翁が「かっかっか!」と再び大笑いした。
「さあ、固い話はここまでだ!
雅由美ちゃん、今夜はとことん、お前の酌で飲ませてくれ!
日本の表と裏が、こうして一つの卓を囲む夜など、そうそうあるまい!」
「ええ、翁。喜んで」
雅由美は、艶やかな手つきで、日本の頂点に立つ二人の老人に、
次々と極上の酒を注いでいく。
秋の夜長の、秘密の宴。
三人の話題は、いつしか、雅由美が作り上げようとしている
日本の、そして世界の新たな秩序と展望へと移っていった。
「私が孤児院で作った学校から、世界に通用するハッカーや、
最高の料理人、そして政治家が生まれるかもしれませんわね」
「ほう! そいつは面白い!
経団連としても、その学校の卒業生は優先的に採用させてもらおう。
……なにせ、最強の令嬢の息がかかっているのだからな」
すっかり毒気を抜かれた白川会長も、笑いながら冗談を飛ばす。
「かっかっか! 儂の目黒の屋敷の隣に、その学校の分校でも作らんか?
優秀なガキどもを、儂が直々に鍛え上げてやるわい!」
権力者たちの野望と、未来への希望が入り交じる、濃密で甘美な夜。
月下美人の着物を纏った無敵の令嬢は、
国家という巨大なキャンバスに、自らの思い描く美しい絵を思いのままに描きながら、
杯の向こうで、秋の夜に咲く一輪の幻の花のように、
どこまでも気高く、そして妖艶に微笑み続けるのであった。




