第三十七章
桜の花が散り、新緑が本郷キャンパスを鮮やかに彩る頃。
雅由美は二十一歳となり、東京大学法学部の四年生(後期課程)へと進級していた。
四年次になると、卒業に必要な単位の多くは三年次までに取得し終えており、授業の数はぐっと少なくなる。
残された十二単位の修得と、ゼミでの専門的なテーマの報告、そして卒業に向けた準備。
学生生活の集大成とも言える、穏やかでゆったりとした時間が流れるはずであった。
しかし、その年の晩秋。
神龍寺家を、そして日本の裏社会全体を揺るがす、決定的な悲報が訪れた。
「……おじい様」
神龍寺本邸の、最も奥に位置する静謐な寝室。
消毒液と、微かなお香の匂いが漂うその部屋で、雅由美はベッドの傍らに膝をつき、力なく横たわる祖父の手を両手で包み込んでいた。
かつて日本中を震え上がらせた、龍神連合会七代目。その威厳に満ちた肉体は、病魔によってすっかり痩せ細ってしまっていた。
「……雅由美、か。……すまんな、忙しい時期に」
酸素マスクを外した祖父が、掠れた声で、しかしどこまでも優しい目で孫娘を見つめた。
「そんなこと、お気になさらないで。……おじい様、どうか、ご無理をなさいませんよう」
「……もう、無理はきかんよ。自分の寿命くらい、極道ならば分かる」
祖父は、ゆっくりと視線を動かし、枕元に置かれた桐の箱を見つめた。
「そこに……遺書を、書いておいた。……跡目のことは、すでに百の承知だろうが……龍神の全てを、お前に託す」
「……おじい様」
「雅由美。……お前は、儂の想像を遥かに超える、美しく、恐ろしい龍に育ってくれた。……お前が束ねる新しい時代を……もっと、見ていたかったがな……」
祖父の大きな手が、震えながら雅由美の頬を撫でた。
その手の温もりが、ゆっくりと、しかし確実に冷たさを帯びていく。
「……泣くな、八代目。……龍は、常に空を……見上げろ……」
その言葉を最後に、七代目の目は静かに閉じられ、繋いだ手から力が抜け落ちた。
「おじい様……っ。おじい様……!」
秋の冷たい雨が窓を叩く中、雅由美は祖父の胸に顔を埋め、声殺して泣き崩れた。
病室の外で控えていた大幹部たちも、その場に崩れ落ち、慟哭の声を上げた。
本葬は、神龍寺の親族のみで、極めて静かに、そして厳かに執り行われた。
しかし、七代目という偉大な極道の死を、裏社会が静かに見送るはずがない。
数週間後。
都内の巨大な斎場を完全に借り切って行われた、『龍神連合会・七代目会頭の組葬』。
それは、映画のワンシーンすらも凌駕する、圧倒的なスケールであった。
全国から集結した数万人の構成員たちが、喪服姿で数キロにわたって整列し、警察当局が周辺の交通を完全に封鎖して厳戒態勢を敷くほどの異様な熱気と静寂。
欧州のヴィンチェンツォ家、香港マフィア王龍、アメリカのファルコーネ・ファミリーからも、黒服の代理人たちが弔問に訪れていた。
その祭壇の最前列。
祖母と共に『喪主』として並び立つのは、漆黒の五つ紋の喪服に身を包んだ、まだ二十一歳の女子大生、雅由美であった。
「……これより、八代目会頭・神龍寺雅由美より、ご挨拶を申し上げます」
司会の重々しい声が響く。
雅由美は、静かに祭壇へと進み出た。
数万の屈強な男たちの視線が、一斉に彼女の細い背中に注がれる。
「……本日は、七代目のため、斯くも多数のご会葬を賜り、厚く御礼申し上げます」
マイクを通さずとも、斎場の隅々にまで透き通るように響き渡る、凛とした声。
「祖父は、龍神の代紋を守り抜き、その生涯を極道として全ういたしました。……残された私どもは、その遺志を深く胸に刻み、新たな時代へと、この龍神をさらなる高みへと導いていく覚悟でございます」
雅由美が、ゆっくりと振り返り、数万の構成員たちを見渡した。
その鳶色の瞳には、もう涙はない。
あるのは、全てを統べる絶対的な支配者としての、冷徹で、美しく、そして底知れぬ愛情を秘めた『龍の眼光』だけであった。
「「「八代目ぇぇぇっ!! お供いたします!!」」」
数万の男たちが、アスファルトに額を擦りつけるようにして、一斉に深く平伏した。
その地鳴りのような忠誠の叫びは、天に昇った七代目への、最高のたむけであった。
そして、季節は巡り。
別れと旅立ちの春、三月。
東京大学、安田講堂。
青空に映える赤レンガの講堂の前には、黒いアカデミックガウンと角帽を身に纏った、多くの卒業生たちの晴れやかな笑顔が溢れていた。
「雅由美様! ご卒業、本当におめでとうございます!」
「ええ、瑞希、麗華、栞。皆様も、本当におめでとう」
雅由美は、ガウンの下に美しい袴姿を覗かせ、親友たちと抱き合って卒業の喜びを分かち合った。
ゼミでの優秀な論文発表や、圧倒的なGPAによる法曹コースの早期卒業認定。
法学部の学生としての彼女の軌跡は、非の打ち所のない完璧なものであった。
「これから、雅由美様はさらに忙しくなられますわね。神龍寺グループのお仕事に、海外への『ご旅行』に」
「ふふっ。ええ、そうね。まだまだ、世界中にお掃除しなければならない場所が、たくさんありますもの」
雅由美が角帽のタッセルを揺らして微笑んだ、その時。
「……お嬢」
少し離れた銀杏並木の陰から、完璧なスーツ姿の竜也と黒田が、深々と頭を下げて待機しているのが見えた。
その背後には、ピカピカに磨き上げられた黒塗りの最高級セダンが、主の帰還を静かに待っている。
表の顔は、東京大学法学部を首席クラスで卒業した、才色兼備の完璧な令嬢。
裏の顔は、日本の法と秩序を裏から支配し、世界中のマフィアを震え上がらせる、龍神連合会の八代目会頭。
「さあ、行きましょうか」
雅由美は、親友たちに手を振ると、春の風に染めたばかりの長い黒髪をなびかせながら、堂々とした足取りで歩き出した。
その背中に背負われた、誰の目にも見えない巨大な『龍』の刺青が、春の陽光を浴びて、誇り高く咆哮を上げたような気がした。
無敵の令嬢の、華麗で、恐ろしく、そしてどこまでも優雅な人生の物語は、ここからまた、新たなページを捲っていくのであった。




