第三十六章
秋風が東大駒場キャンパスの銀杏並木を黄色く染め上げる頃。
雅由美は、教養学部前期課程の二年生として、進学選択(進振り)の時期を迎えていた。
法学部、それも法曹コースの確約を勝ち取るための絶対条件。
それは、目安として「3.2以上」という極めて高いGPA(成績評価)の維持である。
「はぁ……。雅由美様は、本当に涼しいお顔で単位を取得されますわね。私のGPAなんて、見せられないくらいギリギリですのに」
キャンパス内のカフェテリアで、親友の瑞希が分厚い六法全書を枕にしながら泣き言を漏らした。
「そんなことありませんわ。瑞希だって、英語の成績はとても優秀じゃないの」
雅由美は、上品に紅茶のカップを傾けながら、ふわりと微笑んだ。
「でも、雅由美様はTOEICも満点近いですし、2Aセメスターの『持ち出し科目』である法学・政治学入門や、基礎法学の4単位も、すでに完璧に修得されていらっしゃいますよね? どうやったら、そんなにスラスラと法律が頭に入るんですか?」
「ふふっ。法律というのは、人間社会の『お行儀のルール』ですもの。ルールを破る方々への対応は、幼い頃から少しばかり慣れておりますのよ」
雅由美が扇子で口元を隠してクスクスと笑うと、瑞希は「さすがお嬢様、ご家庭の教育が厳しいのですね」と感心して頷いた。
親友たちは知る由もない。
雅由美が、各国のトップや裏社会のドンたちと『文字通り命懸けの条約』を結び、時には国家の裏金リストを手に総理大臣と直接交渉を行っていることを。
机上の法律論など、日々実戦で国家権力を手玉に取っている無敵の令嬢にとっては、ただの「確認作業」に過ぎなかったのである。
無事に高GPAを維持し、進学選択をトップクラスの成績で通過した雅由美は、春の訪れと共に、本郷キャンパスへの進学、そして『二十歳の誕生日』を迎えた。
「雅由美。成人、本当におめでとう。お前は我が神龍寺の、いや、龍神の誇りだ」
神龍寺本邸の広大な大広間。
親族や各界の重鎮、さらには裏社会の最高幹部たちがズラリと居並ぶ中、七代目である祖父が、目を細めて雅由美の成長を言祝いだ。
「ありがとうございます、おじい様、おばあ様。未熟者ではございますが、これからも精進いたしますわ」
雅由美は、人間国宝が仕立てたという最高級の友禅の振袖に身を包み、完璧な所作で深く頭を下げた。
その艶やかで威風堂々たる姿に、居並ぶ幹部たちは「おお……」「八代目の美しさは、もはや神仏の領域だ」と、感極まって涙を拭っていた。
華やかな成人式から数日後。
本郷キャンパスの重厚なゴシック建築の学舎で、三年生となった雅由美の、より高度で専門的な法学部生活が幕を開けた。
「……本日の演習では、比較法の観点から『盗品譲受けの際の、所有権の帰属』について議論したいと思う」
法学部の少人数ゼミナール。
老教授がホワイトボードに事例を書き出し、学生たちに意見を求めた。
「例えば、フランスのパリで盗まれた数億円の宝石が、第三者の手に渡った場合。現地の法律と日本の法律では、善意取得の要件がどう異なるか。……神龍寺君、君ならこの事例をどう考えるかね?」
教授からの指名に、ゼミの学生たちの視線が一斉に雅由美へと集まる。
「はい、教授。フランス民法における動産占有の効力と、日本の即時取得の要件には、盗難品に関する特則に違いがございますわ」
雅由美は、美しい姿勢でスッと立ち上がり、涼やかな声で完璧な法的解釈をスラスラと述べ始めた。
「ですが、実務的な観点から申し上げますと……。パリのホテルで宝石を狙うような国際窃盗団は、大抵の場合、深夜に窓から侵入してまいります。ですので、所有権が第三者に移転する前に、物理的に制圧して警察の玄関前に『お届け』するのが、最も迅速かつ確実な権利保全の手法かと存じますわ」
「……ん? ぶ、物理的に制圧?」
「はい。その際、ホテルの調度品を壊さないよう、合気道と扇子を用いて無音でお掃除するのが、国際的なマナーとして美しいかと」
老教授がポカンと口を開け、他の優秀な東大生たちが「フランスの法律って、そんなアグレッシブなんだ……」と真顔でメモを取り始めた。
「あ、いや、神龍寺君。我々は今、裁判上の法理の話をしていてだな……」
「あら、申し訳ございません。少しばかり『実体験』が混ざってしまいましたわ」
雅由美がペロリと舌を出して愛らしく微笑むと、教室中の男子学生たちが顔を真っ赤にして俯いた。
パリで国際窃盗団を素手で壊滅させた令嬢の、生々しすぎる「実務経験」である。
三年次から四年次にかけては、憲法、民法、刑法、政治学などの必修科目に加え、自分の関心に沿ったゼミでの小論文やリサーチペーパーの執筆が求められる。
雅由美は、膨大な文献の精読やレポート作成を、龍神の会頭としての裏の仕事をこなしながらも、涼しい顔で完璧に仕上げていった。
「お嬢、お夜食のフォンダンショコラをお持ちしました」
「ありがとう、竜也さん。この政治経済のレポートが終わったら、明日のイタリアン・マフィアとのオンライン会議の資料に目を通しますわ。準備をしておいてちょうだい」
「はっ。承知いたしました」
深夜の私室。パソコンに向かって東大の高度な学術論文を執筆しながら、マフィアのドンとの交渉準備を並行して行う。
コメディのように規格外な日常は、しかし、確実に時間の針を進め、やがて雅由美を四年次へと導いていった。




