第三十四章
九月も末に近づき、秋の長雨が街を静かに濡らしていた夜。
龍神連合会本部を兼ねる、祖父の広大な邸宅。
そのさらに奥深く、地下に極秘裏に建造された要塞のような『電脳室』は、
無数のサーバーが発する低い駆動音と、モニターの青白い光、
そして……山のように積まれた、エナジードリンクの空き缶に支配されていた。
「あーっ、もうダメだ! 目が、目がぁっ! 数字がゲシュタルト崩壊してきた!」
「耐えろ! お嬢からの至上命令だぞ! このダミー企業の口座の裏を引け!」
国内最高峰のハッカー集団である『電脳組』の精鋭たちは、
何日も徹夜を続け、髪を振り乱しながらキーボードを叩き続けている。
そのむさい男たちの熱気と疲労が充満する地下室の重厚な扉が、
音もなく、静かに開いた。
「皆様、夜遅くまで本当にお疲れ様ですわ」
涼やかな秋草が描かれた美しい訪問着に身を包んだ雅由美が、
ふわりと、地下室には場違いなほどの極上の百合の香りを漂わせて、
優雅な足取りで足を踏み入れたのである。
「お、お嬢!?」
電脳組のトップである結城が、血走った目を限界まで見開いて立ち上がった。
「こ、こんな埃っぽくてむさい地下室に、わざわざ足を運ばれるなんて……!
お声がけいただければ、私がお部屋までデータをお持ちしましたのに!」
「ふふっ。結城たちにこれほど大変なお仕事を任せておいて、
私だけが上で温かいお茶を飲んでいるわけにはいきませんもの」
雅由美は、労うような優しい微笑みを浮かべると、
背後に控えていた竜也と黒田に、軽く目配せをした。
「皆様、ずっとモニターと睨み合って、お食事もろくに摂っていらっしゃらないでしょう?
少し、休憩になさいな。頭を使うお仕事には、美味しい栄養が必要ですわ」
竜也と黒田が、両手に抱えていた巨大な風呂敷包みを、
空いている長机の上へとドスン、ドスンと置いていく。
包みが解かれると、そこから現れたのは、
銀座の超高級寿司店の、大トロやウニがこれでもかと乗った特上桶が五つ。
さらに、疲労回復に効くという、老舗料亭特製の熱々スッポンスープの鍋であった。
「うおおおおおっ!! ス、スシだぁぁっ!!」
「お嬢……っ! お嬢は天使だ……いや、女神様だぁっ!!」
限界を迎えていたハッカーたちは、涙と鼻水を流しながら歓声を上げ、
一斉に机へと群がった。
「ゆっくり召し上がってね。喉を詰まらせてはダメですわよ」
雅由美は、母親のような、あるいは優しい女性上司のような慈愛の眼差しで、
猛然と寿司を頬張るむさい男たちを見守っている。
「……結城。頼んでいた件、どうなりました?」
雅由美は、寿司のトロを頬張って昇天しかけている結城の傍らに歩み寄り、
極めて静かな声で問いかけた。
「はっ、モグモグ……! お嬢の御言葉通り、全て洗い出しました」
結城は慌ててお茶で寿司を飲み込み、居住まいを正して
メインモニターの前に立った。
「まずは、現在の総理派閥。そして総理ご自身。
次に、総理と敵対している派閥の議員たち。
最後に、野党も含めたその他の全ての議員たち……。
我が電脳組の総力を挙げ、スイスのプライベートバンクから、
カリブ海のタックスヘイブン、国内の複雑なダミー企業に至るまで。
文字通り『一円の単位』まで、完全に掌握いたしました」
結城がキーボードを叩くと、巨大なモニターに、
無数のリストと、信じられないような金額の羅列が映し出された。
「……完璧ですわ。それにしても、随分と景気の良い数字が並んでおりますのね」
「正直、調べていて吐き気がするほどの数字でしたよ。
我々が徹夜で食べているこの特上寿司が、一千万個は買える金額です。
彼らが裏でどれほどの金を脱税し、隠し持っているか……。
全て、派閥と政党別に分類し、誰が、どこに、いくらの隠し資金を持っているか、
一目で分かる『真っ黒な名簿と内訳書』としてデータ化してあります」
「本当に、素晴らしいお仕事ぶりですわ。
我が龍神の電脳組は、世界一優秀な『お掃除係』ですこと」
雅由美が扇子を口元に当ててクスクスと笑うと、
結城は照れくさそうに頭を掻いた。
「そのデータを紙に出力して、一部だけ私の手元に頂戴。
……他のデータは、絶対に外部に漏れないよう、
最厳重のプロテクトをかけて完全に封印なさい」
「承知いたしました」
出力された分厚い書類の束を、雅由美は傍らに置いていた
上質なレザーのショルダーバッグのホルダーへと、音もなく滑り込ませた。
「結城、それに皆様。このプロジェクトが終わりましたら、
全員に特別ボーナスと、一週間の有給休暇を差し上げますわ。
ハワイにでも行って、ゆっくり羽を伸ばしていらっしゃいな」
「うおおおおおっ!! 一生、お嬢についていきますぅぅっ!!」
地下室に、男たちの歓喜の雄叫びが響き渡る。
国家の舵取りを担う者たちの、醜い欲望の結晶。
その全てを掌握した若き龍は、忠実な部下たちに優しく微笑みながらも、
その鳶色の瞳の奥に、底知れぬ冷酷な光を静かに瞬かせていたのであった。
数日後の夜。
永田町からほど近い、政治家たちが密談に用いることで知られる、
一見さんお断りの最高級料亭。
雨上がりのしっとりとした空気に、庭石を打つ鹿威しの
「コーン」という澄んだ音が、静寂を際立たせていた。
「……本日は、護衛の方々は外でお待ちいただいておりますの」
一番奥の、最も警備が厳重な離れの座敷。
上座に座る内閣総理大臣を前に、雅由美は三つ指をついて静かにお辞儀をした。
部屋の外には、総理のSPも、雅由美の護衛である竜也たちもいない。
完全なる、一対一の密室である。
「いやはや、雅由美嬢。君とこうして二人きりで酒を飲む日が来るとはね。
今日は一体、どのような『ご相談』かな?」
総理は、柔和な笑みを浮かべながら、リラックスした様子で熱いお茶を啜った。
彼にとって雅由美は、底知れぬ力を持つ令嬢であり、頼もしい存在ではあるが、
所詮は自分の方が『国家のトップ』であるという、無意識の驕りがあった。
「ご相談、というほど大袈裟なものではございませんわ。
ただ、総理に少しばかり『読み物』をお持ちいたしましたの」
雅由美は、傍らに置いていたショルダーバッグを引き寄せた。
その中のホルダーから、数枚の分厚い書類の束を抜き取る。
「まずは、こちらをご覧くださいませ」
雅由美の両手によって、白木の座卓の上を滑るように差し出された書類。
それは、総理の属する政党、そして総理自身の派閥に所属する議員たちの
『黒となる名簿と、隠し資金の完全な内訳』であった。
「……ん? なんだね、これは」
総理は、湯呑みを持ったままの片手で書類を受け取り、
胸ポケットから老眼鏡を取り出して鼻眼鏡にずらし、
何気なくその文面に目を落とした。
「…………」
数秒の沈黙。
鹿威しの音が、再び遠くで響いた。
「……なっ」
総理の顔から、文字通り、一瞬にして全ての血の気が失われた。
手にした湯呑みがガタガタと震え、熱いお茶が畳の上に数滴こぼれ落ちる。
「こ、これは……!! な、なぜ、君がこの数字を……!
この口座の存在は、私の金庫番ですら……っ!」
「お気に召しまして? 我が家の優秀な『お掃除係』たちが、
少しばかり念入りに埃を払いましたら、
このような美しい数字が次々と出てまいりましてよ」
雅由美は、全く表情を変えることなく、
極上の微笑みを浮かべたまま言葉を継いだ。
「因みに……。こちらも、併せてお持ちいたしましたの」
雅由美がさらにバッグから抜き出し、総理の目の前に積み上げた書類の山。
そこには、敵対派閥、さらには野党に至るまで、
永田町に巣食うあらゆる議員たちの、おぞましい隠し資産の全てが
網羅されていた。
「ひっ……!」
総理の顔は、もはや恐怖を通り越し、完全な土気色に変わっていた。
額からは脂汗が吹き出し、呼吸が浅く乱れている。
目の前に座っているのは、可憐な女子大生ではない。
国家の中枢を完全に丸裸にし、その首根っこを一本の絹糸で締め上げている、
冷酷無比な化け物である。
もしこの書類が、マスコミや特捜部に一枚でも流れれば、
内閣はおろか、日本の政界そのものが完全に崩壊する。
「み、雅由美嬢……。君は、これをどうするつもりだ……?
私を、我々を、脅迫する気か……っ!」
総理が、掠れた声で呻くように尋ねた。
「脅迫だなんて、人聞きの悪い。
私はただ、総理に『ご提案』を差し上げたいだけですわ」
雅由美は、扇子を静かに開き、口元を隠してふわりと微笑んだ。
「これほどまでに莫大な資金。ただ眠らせておくのは、国家の損失ですわ。
ですから……この議員たちの資産を、彼ら本人が『知らない内』に、
国のための有益な費用として、私が綺麗に
『クリーニング(資金洗浄・没収)』して差し上げましょうか、と」
「く、クリーニング……だと……!?」
それはつまり、裏金を全て雅由美(龍神)の管理下に置き、
政治家たちの命綱である資金を完全に骨抜きにするという、
恐るべき提案であった。
「もちろん、ご不満であれば、お断りいただいても構いませんわ。
……ですが」
雅由美の鳶色の瞳が、スッと細められ、絶対零度の光を放った。
「その場合、ここに名のある議員たちの『明日』は、永遠に来ませんわよ?」
「ッ……!!」
総理は、息を呑み、全身の震えを止めることができなかった。
社会的な抹殺か、それとも、物理的な抹殺か。
どちらにせよ、逆らえば全てが終わる。
雅由美は、和紙でできた一枚の重厚な『契約の念書』を、
すっと総理の前に差し出した。
そこには、裏金の処理を一任する旨が、法的な隙を一切与えない
完璧な文言で記されている。
「……総理。ご決断を。
すでにこの件は、『御堂筋翁』にはご報告し、
ご快諾をいただいておりますわ」
「……み、御堂筋翁に、だと……!?」
その名前が出た瞬間、総理は完全に項垂れた。
政財界の奥の院に鎮座し、総理でさえ頭の上がらない
「日本の真の黒幕」とも言えるフィクサー。
その翁までもが、すでにこの若き龍の掌の上にあるというのか。
「……負けだ。私の、いや……我々の、完全な敗北だよ」
総理は、深い絶望と、そしてある種の諦観の混じった溜め息を吐き出すと、
震える手で懐から万年筆を取り出した。
そして、腹を決め、差し出された念書に、力強く署名し、実印を捺印した。
「ありがとうございます、総理。
……これからの日本の未来が、とても楽しみですわね」
雅由美もまた、流れるような美しい筆致で自らの名を記し、
小さく、しかし絶対的な効力を持つ印を捺した。
秋の夜長。
静寂に包まれた料亭の密室で。
忠実な部下たちを労う優しい女性上司の顔と、
国家権力を平然と飲み込む冷酷な龍の顔。
その二つの顔を完璧に使い分ける一人の若き令嬢の手によって、
日本の裏面史に刻まれる恐るべき密約が、
静かに、そして優雅に成立したのである。




