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第三十三章



九月上旬。

長く厳しかった真夏の猛暑もようやく影を潜め、朝夕には微かに秋の涼風が混じるようになった頃。


龍神連合会・七代目会頭である祖父の広大な邸宅は、百名を超える屈強な男たちの放つ、異様なまでの熱気と重苦しい静寂に包まれていた。


庭先に響く蝉時雨さえも掻き消すほどの、濃密な空気。

百畳敷きの広大な大広間には、全国から集結した龍神連合会の最高幹部たちが、身動き一つせずに居並んでいる。


五人の副会頭。

十人の専務理事。

二十人の常議員。

そして、三十人の理事と監事。


大広間の襖を開け放ち、縁側や廊下にまでズラリと控えているのは、大幹部たちの直属の護衛や、各組の若頭たちである。


年に一度、龍神連合会の最高意思決定機関として開かれる『年次総会』。

それは、極道社会の頂点に立つ組織の、一年間の歩みと未来を決定する、極めて重要で神聖な儀式であった。


「……現在、都市部における我々の『シノギ(資金源)』は、かつてないほどの厳しい状況に立たされております」


重苦しい静寂を破り、上座の少し手前に座る筆頭副会頭が、低くしゃがれた声で報告を始めた。


「新法の施行や、警察当局の締め付けは年々厳しさを増し、昔ながらの縄張りや利権だけでは、若い衆を食わせていくことすら困難になりつつあります」


「左様。さらに、他組織との境界線では、些細なトラブルから小競り合いが頻発しており、このままでは無用な血が流れるばかりです」


別の専務理事も、苦渋に満ちた表情で言葉を継ぐ。


「我々が生き残るためには、他組織との在り方を根本から見直し、国内の限られたパイをどう確保していくか……。その一点にかかっていると言っても過言ではございません」


幹部たちの口から語られるのは、縮小していく国内の利権を巡る、焦燥と閉塞感であった。

年老いた組長たちが、深く溜め息をつき、扇子で膝を叩く音が、重苦しい広間にポツリポツリと響く。


誰もが、時代の波に取り残されまいと必死にもがいていた。


その、泥沼のような議論が小一時間ほど続いた、その時である。


「……皆様、少しよろしいかしら」


凛とした、しかしどこまでも涼やかな、銀の鈴を転がすような声。


大広間の最上座。

七代目である祖父の隣で、ただ静かに議論の行方を見守っていた八代目会頭・雅由美が、ゆっくりと口を開いた。


その一声だけで。

百名を超える荒くれ者たちが、弾かれたように背筋を伸ばし、一斉に口を閉ざした。

百畳の広間が、水を打ったような完全な静寂に包まれる。


雅由美は、濃紺の地に可憐な桔梗が描かれた、美しい秋単衣あきひとえの着物姿であった。

その可憐な容姿からは想像もつかないほどの、圧倒的で、そして静謐な『龍の覇気』が、大広間の隅々にまで満ちていく。


「皆様の組織を思うお気持ち、そして現状への危機感、痛いほどに伝わってまいりました」


雅由美は、並み居る幹部たちをゆっくりと見渡し、極上の微笑みを浮かべた。


「ですが、どうかご安心なさい。私たち龍神連合会が、国内の小さなパイを巡って、他組織と血を流して争うような時代は、すでに終わっておりますの」


「お、終わっている、とは……?」


筆頭副会頭が、戸惑ったように顔を上げる。

雅由美は、扇子を静かに膝の上に置き、鳶色の瞳に強い光を宿して告げた。


「この夏。私は個人的な『ご旅行』を利用して、世界のいくつかの組織にご挨拶をしてまいりました」


雅由美の口から紡がれる言葉に、幹部たちがゴクリと固唾を飲む。


「欧州の裏社会を統べる、ヴィンチェンツォ家。

香港を拠点とする、巨大シンジケート、王龍。

そして、アメリカ東海岸を支配する、ファルコーネ・ファミリー」


「……なっ!?」


「彼らとは、すでに極秘裏に会談を済ませ、我が龍神連合会との間に、強固で絶対的な『同盟関係』を結ぶことで合意いたしました」


百名を超える幹部たちの間に、衝撃の波が走った。


「これにより、アジアにおける最新の物流ルート、そして欧米との新たなビジネスの窓口は、全て我が龍神が掌握いたしました。皆様には今後、国内の小さな縄張りに固執することなく、この世界規模の新たな利権の管理と運営を、大いに担っていただきたく存じます」


雅由美がふわりと微笑み、言葉を終えた瞬間。


「…………おおおおおっ!!」


大広間から、地鳴りのような、割れんばかりの称賛の歓声とどよめきが沸き起こった。


「お、欧州と、香港と、アメリカのトップと同盟だと!?」


「たった一夏の間に、これほどまでの世界規模のシノギを切り開いてこられたというのか……!!」


「これでもう、国内の小さな揉め事にかまけている場合ではないぞ!」


老練な幹部たちが、顔を真っ赤にして興奮し、互いの肩を叩き合っている。

国内の行き詰まりを嘆いていた彼らの目の前に、八代目は突然、無限に広がる世界への扉を開いてみせたのだ。


「……八代目! この度の議題、全て会頭の御手にお預けいたします!」


筆頭副会頭が、感極まった声で深く畳に額を擦りつけた。


「どうか我らを、龍神の新たな未来へと導いてくだされ!!」


「「「八代目!! どうか、よろしくお頼み申します!!」」」


百名を超える幹部たちが、一糸乱れぬ動きで、一斉に雅由美に向かって平伏した。

それは、恐怖による支配ではなく、絶対的なカリスマと実力に対する、心からの心酔と忠誠の証であった。


「ええ。皆様、共に新しい時代を歩んでまいりましょう」


雅由美の涼やかな声が大広間に響き渡り、龍神連合会の歴史的な年次総会は、かつてないほどの熱気と希望に包まれたまま、幕を閉じたのである。



総会の後。

緊張から解き放たれた大広間では、老舗の高級料亭から取り寄せられた、豪奢な仕出し弁当による和やかな食事の席が設けられていた。


「いやぁ、八代目。今日の総会は、我々年寄りにとって、寿命が十年は延びるような素晴らしいものでございました」


「ええ、本当です。これで若い衆にも、胸を張って大きなシノギを任せられます」


幹部たちが次々と上座に訪れ、雅由美に杯を捧げていく。

雅由美も、一人一人の労をねぎらい、優雅に微笑んで杯を返していた。


そんな喧騒の中。

雅由美の幼い頃から後ろ盾となり、最も信頼の厚い大幹部の一人が、静かに彼女の背後に控え、その耳元で周囲に聞こえないように囁いた。


「……お嬢」


「どうなさいました?」


「……夕刻。五人の親父さんたちが、お嬢をお待ちでございます」


その言葉を聞いた瞬間。

雅由美の鳶色の瞳から、先ほどの華やかな熱気がスッと消え、深く、静かな色が宿った。


「……そう。分かりました」



秋の陽は釣瓶落とし。

夕刻の街を、大幹部が運転する漆黒の高級セダンが、音もなく滑るように走っていた。


後部座席で、雅由美は窓の外を流れる景色を見つめていた。

ビルの隙間から見える空は、燃えるような茜色から、深い藍色へと、静かに、しかし確実にその色を変えようとしている。


「……お嬢」


運転席から、大幹部が重々しい声で語りかけた。


「あの方々は、先代の頃から、我が龍神のために泥水をすすり、血の滲むような思いで代紋を守り抜いてきた、真の極道たちです」


「ええ、分かっておりますわ」


「ですが……老いと、時代の波には勝てません。これ以上、若い衆を抱えて組織を維持していくのは限界だと、そうご決断なさいました」


雅由美は、膝の上でそっと両手を重ねた。

華やかな世界進出の裏側で、静かに幕を下ろそうとしている、古い時代。

極道という過酷な生き方を選び、その重責を背負い続けてきた男たちの、最後のケジメ。


(その重み……私がしっかりと、受け止めなければいけませんわね)


雅由美の胸の中に、深い寂寥感と、八代目としての確かな覚悟が満ちていく。



やがてセダンは、都内の閑静な裏通りに佇む、一見さんお断りの高級料亭の前に到着した。


案内された一番奥の広間。

しんと静まり返ったその部屋には、すでに五人の男たちが、静かに正座して控えていた。

皆、紋付羽織袴の正装に身を包み、その顔には深い皺が刻まれた、白髪の老組長たちである。


「……お待ちしておりました、八代目」


雅由美が静かに上座に座ると、五人を代表する、最も年老いた組長が深く頭を下げた。

そのシワだらけの手には、真っ白な奉書紙が握られている。


「本日、八代目がお示しになられた龍神の新しい未来……。我ら老骨も、末席にて拝聴し、感涙にむせびました。龍神の未来は、盤石でございます」


老組長は、震える手でその奉書紙を、雅由美の御前にそっと差し出した。


「ですが、我らの役目は、すでに終わりました」


開かれた奉書紙。

そこには、墨で力強く認められた『組解散の願い』と、五つの組の名称。

そして、その下には、彼らの覚悟と血の滲むような思いが込められた、鮮やかな赤い『血判』が、五つ、静かに押されていた。


「これ以上、龍神の代紋を背負い続けることは、我らの老いた肩には余る重荷にございます。どうか、八代目の御手で、我らの親子の縁を、お切り捨ていただきたく……」


老組長が、声を詰まらせながら、深く畳に顔を伏せる。

他の四人の組長たちも、無言のまま、それに続いた。


人生の全てを極道に捧げ、組のために命を削ってきた男たち。

その最期の願いに、同席していた大幹部も、部屋の隅で警護に当たっていた竜也たちも、皆、奥歯を噛み締めて俯いた。


雅由美は、その血判状を静かに見つめ、ゆっくりと頷いた。


「……皆様の長年にわたるご忠誠と、代紋を守り抜いてくださったご苦労。この八代目・神龍寺雅由美、確かに受け取らせていただきました」


雅由美の静かな声が、広間に響く。

そして、極道社会の掟に従い、親子の縁を切るための『儀式』が始まった。


大幹部の手によって、白木の三方に乗せられた素焼きの杯と、御神酒が運ばれてくる。


雅由美は、その杯を手に取った。

本来であれば、縁を切る証として、この杯を床に叩きつけて粉々に割るのが、極道の作法である。


だが。

雅由美は、杯を床に落とすことはなかった。


彼女は、素焼きの杯を両手で包み込むように持ち、極めて静かに、そして丁寧な所作で。


パキン、と。


杯を、綺麗に半分に割ったのである。


「八代目……?」


老組長たちが、驚いて顔を上げる。

雅由美は、割れた杯の欠片を、懐紙に丁寧に包み込むと、自らの秋単衣の胸元、その深い懐へと、そっと静かに沈めた。


「あなた方が背負ってこられた歴史と、流してきた汗と血の重み。……粉々に砕いて捨てることなど、私にはできません」


雅由美の鳶色の瞳が、慈愛に満ちた光で老組長たちを包み込む。


「その半分は、私がこの懐で、一生涯大切にお預かりいたします。……皆様は、もう重い荷を下ろして、ご自分のために、穏やかな日々をお過ごしなさい」


「お嬢……っ!!」


雅由美のその言葉と所作に、老組長たちの目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。

彼らは、子供のように肩を震わせ、声にならない声で咽び泣きながら、畳をかきむしるようにして深く頭を下げた。


雅由美は、静かに上座を立ち、彼らの元へと歩み寄った。


「本当に、長い間、ご苦労様でございました」


雅由美は、一番端の老組長の前で膝をつき、その皺だらけで、節くれだった手を、自らの白く柔らかな両手で、温かく包み込むように握りしめた。


「これは、私からのささやかな気持ちです。奥様や、ご家族の皆様と、美味しいものでも召し上がってくださいな」


傍らの大幹部から受け取った、分厚い封筒。

一人につき二千万円という、破格の労い金である。

雅由美は、五人の組長一人一人の手をしっかりと握り、その目を見つめ、心からの感謝の言葉と共に、封筒を直接手渡していった。


「あ、ありがとうございます……っ! もったいのうございます、八代目……っ!」


五人全員に渡し終えた後。

雅由美は、静かに一歩下がり、居住まいを正した。


そして。

代紋を背負い、組織のために命を張り続けた男たちの、その壮絶な生き様に対する最大の敬意と情愛を込めて。


世界を統べる無敵の令嬢は、畳に手をつき、誰よりも深く、深く頭を下げたのである。


「皆様の残されたご功績は、この龍神の歴史に、永遠に語り継がれます。……どうか、お達者で」


その、あまりにも美しく、そして重厚な八代目の所作。

部屋の隅で控えていた大幹部も、屈強な護衛たちも、もはや堪えきれずに嗚咽を漏らし、老組長たちと共に、涙で顔を濡らしながら深く畳に額を擦りつけた。


日が完全に落ちた、秋の夜の静寂の中。

高級料亭の奥座敷には、一つの時代を生き抜いた男たちの誇りと、彼らを優しく包み込む若き龍の情愛が、いつまでも静かに、そして温かく満ちていくのであった。





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