第三十二章
その日の夕刻。
ブルックリンの裏路地にある、アメリカン・マフィアのアジト。
重厚なマホガニーのデスクで、ドンのファルコーネが、
先ほどの『日本の若き龍』の恐るべき威圧感を思い出しながら、
渋い顔でバーボンのグラスを傾けていた。
バンッ!!
突如として、頑丈なオーク材の扉が蹴り破られるような勢いで開いた。
「パ、パパッ!! 大変よ、一大事よ!!」
顔面を真っ白にしたステラが、息を乱して飛び込んできた。
いつもは勝気な娘の、尋常ではないパニック状態に、
ファルコーネは驚いて葉巻を灰皿に置いた。
「どうした、ステラ。ショッピングで何かトラブルか?
まさか、あの日本の令嬢の機嫌を損ねるようなマネを……」
「違うの! あのね、パパ!
昨日、パパの部屋で密談しているのを偶然聞いちゃったんだけど……
ウィリアムズ上院議員の娘の、キャシーを誘拐する計画!
あれ、絶対に、今すぐ、一秒でも早く中止して!!」
「……お前、なぜその話を……。いや、アレは重要なビジネスだ。
対立議員からの多額の報酬と、政治的バックアップが約束されている。
お前が口出しする問題じゃ……」
「そのキャシーが、あのミヤユミの『大親友』なのよ!!」
「…………は?」
ファルコーネの動きが、ピタリと止まった。
「さっき五番街で偶然会ったんだけど、キャシーがミヤユミに泣きついて、
『命の恩人』だって言って、家族ぐるみで抱き合ってたの!
もしパパが、あのキャシーの髪の毛一本でも傷つけようものなら……っ」
ステラは、ガタガタと震えながら、絶望的な予測を口にした。
「私たちファミリーは、ミヤユミに……『お掃除』されるわ!!
欧州のヴィンチェンツォの爺さんの組織と、香港の巨大シンジケート、
それに日本の『龍神』の武闘派たちが、全部束になって
ニューヨークに押し寄せてきて、私たち、ミンチにされちゃう!!」
カラン……ッ。
ファルコーネの手から、高級なクリスタルグラスが滑り落ち、
琥珀色のバーボンが絨毯に染み込んでいった。
(……お、欧州と、香港と、日本のトップを……
同時に敵に回す、だと……!?)
ファルコーネの脳裏に、数時間前、たった一睨みで
屈強な幹部たちを完全沈黙させた、雅由美の底知れぬ眼光が蘇った。
「ば、馬鹿な……っ! なぜそんな所に、あんなバケモノ級の繋がりが……っ!
おい、誰かある!!」
ファルコーネは、文字通り顔面を青ざめさせ、絶叫した。
部屋の外から、屈強な部下たちが慌てて飛び込んでくる。
「ボ、ボス! いかがなさいました!?」
「今すぐ、〇〇議員(対立議員)に電話を繋げ!!
ウィリアムズ上院議員の件は、たった今、白紙撤回だ!
もしウチの若い衆がキャシー嬢の半径一マイル以内に近づいたら、
俺が直接、そいつの頭をブチ抜くとな!!
ああクソッ、俺たちを地獄に道連れにする気か、あのクソ議員め!!」
アメリカ東海岸の裏社会を支配する巨大マフィアのドンは、
日本の女子大生が、ただ五番街で笑顔でハグをしたという事実だけで、
震え上がりながら、国家を揺るがす誘拐計画を自ら完全に粉砕したのである。
一方、その頃。
マンハッタンの五つ星ホテル、最上階のペントハウス。
「……ダメだ。あの地上げ屋の背後にいるギャングども、
今度は進出予定地のビルの前で、あからさまなデモ活動を始めやがった……」
兄の貴哉が、すっかり頬をこけさせ、リビングのソファに深く沈み込んでいた。
その手には、最新の胃薬のボトルが握りしめられている。
「警察に被害届を出しても、『民事不介入』だの『証拠不十分』だのと
全く動いてくれない。……やはり、地元警察の上層部まで、
完全に奴らの息がかかっているんだ……っ」
「お兄様、お疲れのようですわね」
ショッピングを終えて帰還した雅由美が、
優雅に紅茶のカップをソーサーに置き、心配そうに兄を見つめた。
「雅由美……。すまない、せっかくのニューヨークだというのに、
俺が不甲斐ないばかりに、お前にも心配をかけてしまって……」
「そんなことありませんわ。お兄様は、神龍寺の誇りですもの」
雅由美は、ふわりと微笑むと、手元のスマートフォンの画面を開いた。
「せっかくのニューヨークですもの。お兄様には、
いつものような自信に満ちた笑顔でいていただきたいわ。
……少しだけ、お電話をお借りしてもよろしいかしら?」
「え? ああ、構わないが……どこにかけるんだ?」
「今日、五番街で偶然、日本でお世話になった方とお会いしましてね。
その方が、『ニューヨークで困ったことがあれば、何でも言ってくれ』と、
プライベートの番号を教えてくださったのです」
雅由美は、流れるような動作で番号をタップし、耳にスマートフォンを当てた。
『……ハロー。こちらはウィリアムズだ。この番号を知っているのは……』
「夜分遅くに申し訳ありません、ウィリアムズ上院議員。
神龍寺雅由美でございます。本日は奥様とキャシーお嬢様に、
大変よくしていただきまして」
『おお! 雅由美さんか! 妻から話は聞いているよ!
娘の恩人であるあなたから連絡をもらえるとは、光栄の至りだ!
どうしたんだね、何か私にできることがあれば、何でも言ってくれ!』
電話の向こうから、アメリカ政界の超大物であるウィリアムズ上院議員の、
弾むような、そして絶対的な権力を感じさせる声が響く。
「実は、少しばかり困ったことがございまして。
私と兄は今、神龍寺グループのニューヨーク支社設立のために
こちらへ参っているのですが……」
雅由美は、極めて上品に、そしてほんの少しだけ悲しそうな声色を作った。
「進出予定地のビルの周囲で、地元の『お行儀の悪い方々』が、
少しばかり乱暴な振る舞いをされているようなのです。
兄もすっかり疲弊してしまって……。
このままでは、アメリカでのビジネスは諦めて、
撤退するしかないかと悩んでおりますの」
『……なんだと!?』
電話の向こうの空気が、一瞬にして冷たく、鋭いものに変わった。
『我が国の顔とも言うべきニューヨークで、娘の命の恩人であり、
大切な客人である神龍寺グループに対し、そのような無礼を働く輩がいると!?
しかも、警察が動かないだと……!?』
「ええ。どうやら、地元との癒着があるようですわ」
『……許せん。我が合衆国の法と秩序に対する、重大な挑戦だ。
雅由美さん、どうかご安心いただきたい。
このウィリアムズ、命の恩人へのご恩返しとして、
その愚か者どもを、明日の朝までに完全に一掃してみせよう!』
「まあ。大変心強いですわ。よろしくお願いいたしますね」
雅由美が優雅に電話を切ると、ソファで丸くなっていた貴哉が、
不思議そうな顔で顔を上げた。
「……雅由美? 今、誰と話していたんだ?
上院議員とか、警察とか、物騒な単語が聞こえた気がしたんだが……」
「気のせいですわ、お兄様。
さあ、今日はもう遅いですから、ゆっくりお休みになって。
明日の朝には、きっと全てが綺麗に片付いていますわよ」
雅由美の完璧な天使の微笑みに、貴哉は首を傾げながらも、
疲労のあまり、そのまま深い眠りへと落ちていった。
翌朝。
ペントハウスの静寂を破るように、貴哉のスマートフォンがけたたましく鳴った。
「ん……? こんな朝早くから、誰だ……」
眠い目をこすりながら電話に出た貴哉は、次の瞬間、
ベッドから文字通り跳ね起きた。
「なっ……! ほ、本当か!?
ビルを占拠していた地上げ屋とギャングの連中が、全員逮捕された!?」
電話の主は、現地の弁護士であった。
『ええ! 今朝未明、FBIと州警察の合同特別捜査班が、
数十台の装甲車と共に突入し、奴らの組織を根こそぎ摘発したんです!
裏で手を引いていた悪徳警官たちも、一網打尽ですよ!
さらに、ニューヨーク市長から直々に、神龍寺グループへの謝罪と、
進出を全面的にバックアップするという公式声明が発表されました!』
「……………………は?」
貴哉は、完全に思考が停止し、スマートフォンを持ったまま硬直した。
昨日まで、何をしてもビクともしなかった地元マフィアの強固な癒着が。
たった一晩で、国家権力の最高レベルの暴力によって、
文字通り『物理的に更地』にされてしまったのだ。
「一体、何が起きたんだ……!?
神が……ニューヨークの神が、俺たちに微笑んだとでも言うのか……!?」
「おはようございます、お兄様」
そこへ、焼きたてのクロワッサンとコーヒーの香りを漂わせながら、
優雅な朝の装いの雅由美が、ダイニングから姿を現した。
「とっても良いお天気ですわね。
お顔色もすっかり良くなられたようで、安心いたしましたわ。
今日は、気持ちよくビジネスの契約が進みそうですわね」
「み、雅由美……。お前、昨日の夜、電話で……」
「さあ、コーヒーが冷めないうちに、朝食にいたしましょう?」
ふわりと微笑む妹の背後に、底知れぬ巨大なドラゴンの幻影を見た気がして、
貴哉はゴクリと唾を飲み込み、ただ無言で頷くことしかできなかった。
そして、数日後。
表のビジネスの契約を大成功させ、裏の利権交渉も完璧に完遂した、
ニューヨーク滞在の最後の夜。
マンハッタンの夜景を360度見渡せる、ロックフェラー・センターの
最上階にある超高級レストランのVIPフロアは、
完全に貸し切り状態となっていた。
「いやぁ! 雅由美さん、そして美玲さんにステラさん!
娘のキャシーが、素晴らしい友人たちに恵まれて、私も妻も鼻が高いよ!」
最高級のシャンパングラスを掲げて上機嫌に笑うのは、
アメリカ政界の重鎮、ウィリアムズ上院議員である。
「お招きいただき、光栄ですわ、上院議員」
「パパったら、大げさなんだから!」
雅由美とキャシーが、楽しげに笑い合っている。
しかし、その同じ円卓を囲んでいる面々は、どう考えても
『同じ空間に存在してはいけない』者たちであった。
「……上院議員殿。我が合衆国の未来のため、
共に素晴らしい関係を築いていきたいものですな……(冷や汗)」
アメリカン・マフィアのドンであるファルコーネが、
国家権力のトップである上院議員を前に、極度に緊張した面持ちで、
ガチガチに震えながらワインを注いでいる。
「かっかっかっ。ファルコーネよ、手が震えているぞ。
もっとリラックスせんか、極東の龍神の前だぞ」
香港マフィアの老ドンが、愉快そうに笑いながら北京ダックをつついている。
国家の法を司る上院議員。
その法を掻い潜るアメリカン・マフィアのボス。
そして、香港の巨大シンジケートのドン。
絶対に交わるはずのない、表と裏の絶対権力者たちが、
たった一人の『日本の女子大生』を中心として、
なぜか和やかに、フルコースのディナーを共にしているという、
あまりにも異常で、シュールすぎる光景であった。
「ステラ、このオマール海老、とっても美味しいアルよ!」
「本当ね、美玲! ミヤユミ、あなたも食べる?」
少女たちの無邪気な笑い声が、大物たちの冷や汗を拭っていく。
その異様すぎる光景を。
少し離れた一般席のテーブルから、貴哉と部下たちが、
完全に虚ろな瞳で見つめていた。
「……社長。あのテーブルに座っているの、
ウィリアムズ上院議員と……もしかして、裏社会を牛耳るファルコーネ氏と、
香港マフィアのトップじゃありませんか……?」
部下が、震える手でフォークを落としながら呟く。
「……ああ。そうだな。見間違いじゃない」
「な、なぜ、あの世界の支配者たちの中に、
お嬢様が、さも当然のようにセンターに座って、
皆様からご機嫌を窺われているのでしょうか……?」
「……深く考えるな。狂うぞ」
貴哉は、美しいニューヨークの夜景を遠い目で見つめながら、
懐からおもむろに胃薬の瓶を取り出した。
「俺の可愛い妹は……ヨーロッパの次は、ついに
アメリカ合衆国まで、裏から支配し始めたようだ……」
バリボリと、錠剤を噛み砕く音が、虚しく響き渡る。
「……乾杯」
摩天楼の頂で、最強にして最恐の令嬢は、
表と裏の世界を優雅に手玉に取りながら、
完璧な微笑みと共に、極上のシャンパンを傾けるのであった。




