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第三十一章



八月半ば。

容赦のない真夏の太陽が、神龍寺邸の広大な日本庭園を白く焦がすように照りつけていた。

しかし、完璧な空調管理が施されたダイニングルームには、まるで軽井沢の別荘にでもいるかのような、心地よく涼やかな風が静かに流れている。


「……はぁ。どうしてこう、アメリカの連中というのは、契約の土壇場になって要求を吊り上げてくるんだ……」


美しいクリスタルのグラスに注がれたアイスコーヒーを前に、次期社長である兄の貴哉が、深く、ひどく重い溜め息をついた。

普段の自信に満ちた若きエリートの面影はすっかり薄れ、その頬は、過酷なヨーロッパ旅行から帰国した直後の山田添乗員のように、ゲッソリとこけている。


「お兄様、あまり無理をなさらないで。冷たいものばかり召し上がっていると、胃を痛めますわよ?」


雅由美は、涼しげな薄水色のサマードレス姿で、優雅にミントティーのカップを傾けながらふわりと微笑んだ。


「……すでに胃薬は主食になっているさ。ニューヨーク支社の設立が、現地の地主やエージェントの嫌がらせに近い交渉のせいで、完全に暗礁に乗り上げているんだ」


貴哉は、ネクタイを少し緩めながら、痛む眉間を指で揉みほぐした。


「現地の優秀な弁護士や通訳も雇っているんだが、どうにも頼りない。相手の強気で高圧的な態度に押されて、交渉が全く進まないんだ。……このままでは、父さんの肝煎りであるアメリカ進出計画が頓挫してしまう」


切羽詰まった様子の貴哉は、ふと、目の前で優雅に微笑む妹の美しい姿を見つめ、そしてゴクリと息を呑んだ。


(……そうだ。目の前にいるじゃないか。イタリア首相と談笑し、欧州マフィアのサミットをたった一人で平定してしまった、最強にして最恐の令嬢が……!)


貴哉の心の中で、激しい葛藤が渦巻いた。

妹をビジネスの場に引きずり込めば、また国家を揺るがすようなとんでもない事態に巻き込まれるのではないかという、本能的な恐怖。

しかし、彼女の圧倒的な語学力と交渉力(と底知れぬ覇気)があれば、ニューヨークの意地悪なエージェントなど一捻りだろうという、甘い期待。


「……雅由美。頼む。俺と一緒に、ニューヨークへ行ってくれないか」


貴哉は、ついにプライドを捨ててテーブルに両手をつき、妹に向かって深々と頭を下げた。


「通訳として、いや、最高顧問として同行してほしい。お前のその……ヨーロッパの『お散歩』で培った恐るべき交渉力で、俺たち神龍寺グループのアメリカ進出を助けてくれ……!」


悲痛なまでの兄の叫びに、雅由美は静かにミントティーのカップをソーサーに置いた。


(……ちょうど良い口実ができましたわね)


雅由美の鳶色の瞳の奥で、密かに楽しげな光が揺れた。

実は彼女も、数日後に裏の仕事でニューヨークへ飛ぶ予定だったのだ。アメリカ東海岸を支配する巨大マフィアとの、極秘の会合である。

兄の出張に同行するという表向きの理由があれば、家族に一切怪しまれることなく、堂々とアメリカへ渡ることができる。


「……お兄様の頼みとあれば、無下に断るわけにはいきませんわね」


雅由美が優雅に扇子を広げると、貴哉はパッと顔を輝かせた。


「ほ、本当か!? ありがとう、雅由美! これでお前がいれば、アメリカの連中にも目に物見せてやれるぞ!」


「ただし、いくつか条件がございますの」


雅由美は、扇子の向こう側で小悪魔のように微笑んだ。


「まず一つ。今回の出張には、私の香港の友人を同行させますわ。ちょうど日本へ遊びに来る予定でしたから、せっかくですし、一緒にニューヨーク観光を楽しみたいのです」


「香港の友人? ああ、もちろん構わないとも。ファーストクラスも最高級のスイートも、全て会社の経費で手配させよう!」


貴哉は、通訳(最強の用心棒)が手に入るならと二つ返事で快諾した。

彼が想像している「香港の友人」とは、どこかの財閥の令嬢だろう。

まさかそれが、香港の裏社会を牛耳るマフィアのドンの孫娘であり、さらにそのドン本人も、恐ろしい護衛と共にゾロゾロとついてくるなど、この時の貴哉は知る由もなかったのである。


「それから二つ目。お兄様の交渉の席にはもちろん同席いたしますが、それ以外の時間は、私たちにたっぷりと『自由行動』をくださること。……女の子のショッピングを邪魔してはダメですわよ?」


「分かっている。観光の時間は十分に取れるようスケジュールを組む。警護として、竜也たちも連れて行ってくれ」


「ふふっ、交渉成立ですわね。では、準備に取り掛かりましょうか」


雅由美は、完璧な令嬢の笑みを浮かべて立ち上がった。

表向きは、愛する兄を助けるためのニューヨーク出張と、友人との優雅なショッピング旅行。

しかしその裏では、日本、アメリカ、そして香港の裏社会が交差する巨大な会合が、静かに幕を開けようとしていた。



数日後。

アメリカ合衆国、ニューヨーク・ジョン・F・ケネディ国際空港。

一般客の喧騒から完全に切り離されたVIP専用の到着ロビーに、神龍寺グループの誇る漆黒のプライベートジェットが降り立った。


「いやぁ、やはりお前たちと一緒だと、フライトの快適さが違うな。到着後の入国審査も完全に顔パスだなんて、どんな魔法を使ったんだ?」


貴哉が、ビシッと決めたオーダースーツの襟を正しながら、長旅の疲れも感じさせない様子で上機嫌に笑うその後ろで。


姐姐ジェジェ! ミヤユミお姉様!」


銀の鈴を転がすような、愛らしい中国語の歓声がロビーに響いた。

パタパタと駆け寄ってきたのは、豪奢なチャイナドレスを現代風に美しくアレンジした装いの、十九歳になる美しい少女、美玲メイリンである。


「美玲。長旅ご苦労様。香港から直接ニューヨーク入りするなんて、少しお疲れではないかしら?」


雅由美が優しく抱きしめると、美玲は花が咲いたように笑った。


「全然疲れてないわ! お姉様と一緒にニューヨークでお買い物なんて、とっても楽しみで眠れなかったの!」


美玲の背後から、重厚な足音を響かせて近づいてくる集団があった。

仕立ての良いシルクの中国服を着こなした、鋭い眼光の老人と、その周囲を固める、一目で「その筋のプロ」と分かる屈強な男たちである。

香港の裏社会を束ねる巨大シンジケートのドンと、その直属の護衛たちだ。


「おお、ミヤユミ嬢。日本の若き龍にまた会えて光栄だ。今回は孫娘の我が儘に付き合っていただき、感謝する」


「ごきげんよう、閣下。遠路はるばるようこそ。こちらこそ、アメリカでの『ビジネス』にご同席いただける事、心強く思っておりますわ」


雅由美は、老ドンと静かに、しかし力強く握手を交わした。

その威圧感と貫禄は、周囲の空気をピリッと引き締めるほどである。


「……雅由美。そちらの方々が、例の香港のご友人かい?」


何も知らない貴哉が、最上級の営業スマイルを浮かべて歩み寄ってきた。

老ドンから放たれる凄まじいオーラに一瞬だけ気圧されたものの、相手は香港の超巨大財閥のトップに違いないと、勝手に解釈している。


「初めまして。神龍寺雅由美の兄、貴哉と申します。妹がいつもお世話になっております。本日は、ニューヨークでのご滞在を心ゆくまでお楽しみください」


貴哉が深々と頭を下げて流暢な英語で挨拶すると、老ドンは面白そうに顎髭を撫でた。


「かっかっかっ。丁寧にどうも、若社長。妹君には、我々『組織』の若手どもがいつも世話になっている。彼女の『お掃除』の腕前は、我が香港でも語り草でな」


「お、お掃除、ですか。ははは……。雅由美は昔から綺麗好きでして。あちこちの家事を手伝っているのですね」


完全に噛み合っていない会話。

貴哉は、マフィアの抗争の事など微塵も疑わず、ただのボランティア活動か何かだと勘違いして爽やかに笑っている。


背後に控える竜也と黒田は、(……若、あとで真実を知ったら、絶対に胃に穴が開くぞ……)と、密かに同情の視線を送っていた。



一行は、手配されていた複数の超高級ストレッチ・リムジンに分乗し、摩天楼がそびえ立つマンハッタンの中心部へと向かった。

宿泊先は、セントラルパークを見下ろす五つ星ホテルの、最上階を全て貸し切ったペントハウスである。





兄である貴哉が、意気揚々とビジネスの交渉へと出かけてから、わずか三時間後のことであった。


「……はぁっ、はぁっ……。水、水をくれ……っ」


重厚なオーク材の扉が開き、幽鬼のような顔色になった貴哉が、ネクタイを乱し、肩で息をしながらリビングへと転がり込んできた。

同行していた数名の部下たちも、一様に顔面蒼白になり、スーツの背中にはびっしょりと冷や汗が滲んでいる。


「あら、お兄様。随分とお早いお帰りですこと」


優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいた雅由美が、銀のティーポットを置き、小首を傾げて微笑んだ。


「お、お早いどころの騒ぎじゃない……っ! 殺される……! あんな場所でビジネスの話などできるか!」


貴哉は、震える手でミネラルウォーターのグラスを掴み、一気に喉の奥へと流し込んだ。


「どうなさいましたの? 不動産エージェントとの交渉は」


「エージェントだと思っていた男は、ただのダミーだったんだ。案内された進出予定地のビルには、全身にタトゥーを入れた、どう見ても地元のギャングとしか思えない大男たちがたむろしていて……。『ここに出店したければ、ショバ代として毎月数百万ドル払え』と、拳銃のグリップを見せつけながら脅してきたんだぞ!?」


貴哉の言葉に、雅由美は「まあ」と小さく口元を手で覆った。


「アメリカのビジネスは、随分と野性的ですのね」


「野性的すぎる! あれはビジネスマンじゃない、本物の犯罪者だ! 警察に駆け込もうにも、地元警察すら買収されているという噂で……。くそっ、これではニューヨーク支社どころの話じゃないぞ……っ!」


頭を抱え、絶望的な声で呻く兄の姿を見下ろし、雅由美は、鳶色の瞳の奥で静かに、そして冷酷に光を瞬かせた。

彼女の愛する家族を脅かし、神龍寺の威信に泥を塗る愚か者たち。

そのお行儀の悪い振る舞いは、決して看過できるものではない。


「……お兄様。どうかご安心なさって。そのような無作法な方々には、適切な『お話し合い』が必要ですわ。私が必ず、事態を綺麗に解決して差し上げますから」


「み、雅由美……。だが、相手は本物のギャングだぞ!? いくらお前が語学に堪能でも、言葉が通じる相手じゃない!」


「ふふっ。私、言葉の通じない猛犬を躾けるのは得意ですのよ。……ですが、その前に」


雅由美は、すっきりと立ち上がり、サマードレスの裾を優雅に払った。


「私、香港のご友人たちと、少しばかり『お茶会』の約束がございますの。お兄様の問題は、私が帰ってきてから、ゆっくりとお片付けましょうね」


「お、お茶会……? こんな時に?」


「ええ。とても大切な、ご挨拶ですので」


何も知らない貴哉を残し、雅由美は美玲と香港マフィアのドン、そして護衛の竜也たちを伴って、ペントハウスを後にした。



一行が向かったのは、華やかな五番街ではなく、ブルックリン地区の裏路地にひっそりと佇む、会員制の高級シガーバーであった。

分厚い防音扉の奥、薄暗い照明と紫煙に包まれたVIPルームには、すでにアメリカ東海岸の裏社会を牛耳る、巨大マフィアの幹部たちが円卓を囲んで待ち構えていた。


「……よく来たな、香港の老龍よ。わざわざニューヨークまでご足労いただき、感謝するぜ」


上座で深々とソファに腰を沈め、極太の葉巻を燻らせているのは、アメリカン・マフィアのドン、ファルコーネであった。

鋭い鷲のような鼻梁と、全てを射抜くような冷酷な眼差しを持つ男だ。


「かっかっかっ。挨拶は抜きだ、ファルコーネ。今日は、お前に紹介したい『特別なお客人』を連れてきている」


香港のドンが横に退くと、その後ろから、小柄で美しい東洋の令嬢が、静かな足取りで進み出た。


「……初めまして、ファルコーネ閣下。神龍寺雅由美と申します。以後、お見知りおきを」


流暢な、しかしどこか絶対的な冷たさを孕んだ英語。

ファルコーネは、訝しげに眉をひそめ、葉巻の煙を吐き出した。


「……おいおい、香港の旦那。いくらなんでも、こんな子供のお守りを俺にさせる気か? ここは、血と金で世界を回す男たちの席だぜ」


周囲のアメリカ人幹部たちが、嘲笑うように肩を揺らす。

だが、雅由美は全く動じることなく、極上の微笑みを浮かべたまま、スッと、その鳶色の瞳を細めた。


「……血と金で世界を回す、ですか」


次の瞬間。

薄暗いVIPルームの空気が、物理的な重さを持って軋んだ。


「ッ……!?」


雅由美の小柄な身体から放たれた、歴戦の修羅たちをも沈黙させる絶対的な『龍の覇気』。

幹部たちの嘲笑は一瞬で凍りつき、彼らは目に見えない巨大な手で首の骨を掴まれたかのように、呼吸を止めて硬直した。


「あなたがたが喉から手が出るほど欲している、アジアの新しい密輸ルート。その全ての鍵を握り、欧州のヴィンチェンツォ様とも協定を結んでいるのが、この『子供』である私ですわ」


雅由美は、ファルコーネの目の前まで歩み寄り、テーブルの上に、小さな扇子をカタン、と音を立てて置いた。


「……私と手を結ぶか、それとも、この部屋ごと私に『お掃除』されるか。……お選びになって?」


「…………」


ファルコーネの額から、タラリと一筋の冷や汗が流れ落ちた。

欧州の裏社会から届いていた、「極東の若き龍には絶対に逆らうな」という恐ろしい噂。それが決して誇張ではないことを、本能が理解したのだ。


「……なるほど。ヴィンチェンツォの爺さんが惚れ込むわけだ。無礼を詫びよう、ミヤユミ嬢。……いや、八代目」


ファルコーネが葉巻を置き、敬意を持って頭を下げた、その時である。


「わぁっ! すごい、すごいわ!」


部屋の隅、薄暗いバーカウンターの陰から、パンパンッ、と場違いなほど軽快な拍手が鳴り響いた。


「パパのあんなビビった顔、初めて見たわ! あなた、すっごくクールね!」


現れたのは、タイトなレザージャケットに身を包んだ、金髪で勝気な瞳を持つ十九歳のアメリカ人少女だった。


「ステラ! お前、なぜこんな所にいる! 部下たちに、部屋から出るなと言っておいたはずだぞ!」


ファルコーネが慌てて立ち上がるが、少女は全く意に介さず、雅由美と、その後ろにいた美玲の元へとズンズン歩み寄ってきた。


「私はステラ。パパの退屈なマフィアごっこにはウンザリしてたの。あなたたち、名前は? 私と同い年くらいよね?」


「私は雅由美。こちらは香港から来た親友の、美玲よ」


美玲メイリンアル! よろしくね、ステラ!」


美玲が人懐っこく笑いかけると、ステラはパッと顔を輝かせた。


「ねえ、こんな葉巻臭いオジサンたちの秘密会議なんて放っておいて、私たちだけで遊びに行きましょうよ! ニューヨークの最高のショッピングに、私が案内してあげる!」


「こら、ステラ! 大切なお客様になんてことを……」


「あら、素敵なご提案ですわね」


雅由美は、慌てるファルコーネをよそに、優雅に扇子を広げた。


「裏の細かい利権の調整は、大人の方々にお任せいたしましょう。美玲も、五番街のショッピングを楽しみにしておりましたし」


「やった! 決まりね! さあ、行くわよ!」


ステラは雅由美と美玲の腕を強引に取り、嵐のようにVIPルームから飛び出していった。

「お、お待ちください、お嬢!」と、竜也や黒田たち護衛も慌てて三人の後を追って部屋を出ていく。


残されたのは、アメリカン・マフィアのドンであるファルコーネと、香港マフィアの老ドンの二人。

彼らは、日米の奔放な少女たちに完全にペースを握られ、顔を見合わせて、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。



数時間後。

マンハッタンの中心部、五番街フィフス・アベニュー

世界中のハイブランドが立ち並ぶ、煌びやかな大通りを、三人の美少女が、山のようなショッピングバッグを抱えて歩いていた。


「このシャネルの新作、美玲にとっても似合ってたわ!」


「ステラが選んでくれたサングラスも、最高にクールね!」


育った国も環境も違う三人だが、「裏社会のボスの令嬢」という共通の特殊な境遇のせいか、あっという間に意気投合し、普通の女の子たちのように、キャッキャと笑い声を上げている。


「ふふっ。二人とも、とても楽しそうですわね」


雅由美が、少し離れた後ろから、二人の様子を微笑ましく見守っていた。

そのさらに後方では、竜也と黒田、そしてステラの護衛であるアメリカマフィアの巨漢たちが、完全に荷物持ちと化して「あ、あの……ティファニーの袋、落とさないでくださいよ……」「お、おう、任せとけ……」と、奇妙な国際交流を図っていた。


「ねえ、次はあそこのサックス・フィフス・アベニューに行きましょう! 限定のコスメが……」


ステラが、高級デパートの入り口を指差して振り返ろうとした、まさにその瞬間である。


「あーっ!! ミヤユミーーッ!!」


通りを歩いていた人々が振り返るほど、明るく甲高い歓声が響いた。

高級デパートのエントランスから、金髪をツインテールにした十四歳くらいの愛らしい白人少女が、雅由美めがけて猛然と突進してきたのだ。


「まあ。……キャシー?」


雅由美が驚いて足を止めたところに、少女はドンッと勢いよく抱きついた。


「会いたかったわ、ミヤユミ! 日本へ遊びに行った時は、暴漢から助けてくれて本当にありがとう! パパもママも、あなたにずっとお礼が言いたいって言ってたのよ!」


「お久しぶりですわね、キャシー。ご無事で何よりです。……奥様も、ごきげんよう」


少女の後ろから、上品なスーツ姿の母親が、満面の笑みで歩み寄り、雅由美の手を固く握りしめた。


「ああ、雅由美さん! こんな所で偶然お会いできるなんて! 娘の命の恩人であるあなたに、神の祝福がありますように。夫も、あなたへの恩義は一生忘れないと申しておりましたのよ」


「もったいないお言葉ですわ。当然のことをしたまでです」


雅由美が優雅にカーテシー(挨拶)を返す中。

少し離れた場所でその光景を見ていたステラの顔から、サーッと、文字通り全ての血の気が失われていた。


(う、嘘でしょ……!? あの金髪の女の子……ウィリアムズ上院議員の娘の、キャシー!?)


ステラの心臓が、恐怖で早鐘のように激しく打ち鳴らされる。

昨日、彼女は父親であるファルコーネの書斎で、恐ろしい密談を偶然耳にしてしまっていたのだ。


『ウィリアムズ上院議員の政治活動を妨害するため、ヤツの娘であるキャシーを誘拐し、脅迫材料に使え』という、対立する政治家からの、裏の依頼を。


(パ、パパは……あの娘を誘拐して、裏社会の駆け引きに使う気よ。でも、そのターゲットの娘は……)


ステラは、ガタガタと震える視線を、雅由美へと向けた。


数時間前、歴戦の幹部たちをたった一睨みで沈黙させ、欧州のトップとも対等に渡り合う、あの恐るべき『日本の龍』。

その最強にして最恐の令嬢が、今、ターゲットの少女と親しげにハグを交わし、『命の恩人』として家族ぐるみの深い絆で結ばれている。


(終わった……! もしパパが、あの娘の髪の毛一本でも傷つけようものなら……! この『龍』は、私たちファミリーを、ニューヨークの街ごと灰になるまで焼き尽くす気だわ……っ!!)


真夏の茹だるような暑さの中、五番街の華やかな喧騒に取り残され、ステラは一人、絶望と恐怖の冷や汗に全身を濡らして、ガクガクと膝を震わせるのであった。




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