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第三十章



八月下旬。

三週間にわたる、表と裏が極限のレベルで交差したヨーロッパ周遊旅行を終え、

神龍寺家の一行を乗せたプライベート・ジェットは、

夏の終わりの気配が漂う、日本の国際空港へと静かに降り立とうとしていた。


「はぁ……。本当に、夢のように素晴らしい三週間でしたわね」


親友の瑞希が、機内のふかふかのシートに深く身を預け、

ハロッズで購入したテディベアを抱きしめながら、幸せそうにため息をつく。


「ええ。イタリアの首相との晩餐会に、フランス大統領とのシークレット・ランチ。

そしてイギリス首相とのアフタヌーンティー……。

私、もう日本の普通のレストランのフルコースでは、満足できない体になってしまったかもしれませんわ」


「お姉様のお知り合いのヴィンチェンツォ様たちも、

マフィアの映画俳優みたいで、とってもダンディーで素敵でしたしね!」


麗華と彩美が、もはや「国家元首との会食」や「マフィアの歓迎」を、

『少しばかり豪華なオプショナルツアー』程度にしか感じていない、

完全に麻痺した笑顔で語り合っている。

無敵の令嬢の側に居続けた結果、少女たちの常識のハードルは、

大気圏を突破して宇宙空間へと到達してしまっていた。


「皆様に喜んでいただけて、私も本当に嬉しいですわ。

父の会社の旅行部門にも、良いフィードバックができそうですわね」


雅由美は、機内の窓から見える懐かしい日本の景色を眺めながら、

優雅にアイスティーのグラスを傾けた。


その数メートル後ろの座席。

神龍寺グループの超エリートプロ添乗員である山田は、

まるで何百年も砂漠を彷徨ったミイラのように、頬をゲッソリとこけさせ、

完全に焦点の合わない虚ろな瞳で、虚空を見つめていた。

手には、水筒に入れた白湯が力なく握られている。


(……終わった……。私の、長く、そして恐ろしい夏が終わった……。

私は……生きて、日本の土を踏むことができるのか……?)


「おう、山田さんよ。三週間、色々とお世話になったな。

お前さんの手配のおかげで、俺たちもスムーズに『仕事』ができたぜ」


「全くだ。現地の警察や裏の連中の処理に、少しばかり手間取ったが、

まぁ、良いバカンスになった」


完璧なサマースーツを着た竜也と黒田が、極道スマイルで労いの言葉をかける。

彼らの言う『仕事』とは、窃盗団の物理的排除や、詐欺師の連行、

そして欧州マフィアのサミットでの威圧のことである。


「ヒッ……! ア、アリガトウゴザイマシタァ……ッ!」


山田は、ビクッと肩を震わせ、壊れた機械のようにうわ言を繰り返した。



数日後。

東京都心にそびえ立つ、神龍寺グループ本社ビルの最上階。

社長室の重厚なマホガニーのデスクでは、父と、次期社長の兄・貴哉が、

上機嫌でコーヒーを飲んでいた。


「いやぁ、雅由美たちも無事に帰国したし、今回は平和な旅行だったようだな。

女の子たちだけで、さぞかし楽しいヨーロッパの思い出が作れただろう」


「ええ、父さん。現地の美術館やショッピングを満喫したと、

彩美も嬉しそうに話していましたよ。……おや、山田君が報告に来たようです」


ノックの音と共に、社長室の扉が開いた。

そこに入ってきたのは、ヨーロッパへ発つ前の自信に満ちたエリートの姿は

見る影もなく、まるで地獄の釜の底を覗き込んできたかのように

憔悴しきった、山田の姿であった。

その手には、辞書のように分厚い『旅行報告書』が抱えられている。


「……し、社長。……帰還、いたしました……っ」


「お、おい山田!? 一体どうしたんだその顔は!

まるで三週間、戦場の最前線にでも送り込まれていたような顔じゃないか!」


父が驚いて立ち上がる中、山田はフラフラとした足取りでデスクに近づき、

ドンッ、と重い報告書を置いた。


「社長……。今回のVIPツアーのモニター報告で、ございます……」


「あ、ああ、ご苦労だったな。……それで、どうだった?

うちの娘たちは、花のヨーロッパを楽しんでいたか?」


山田は、虚ろな瞳のまま、一切の感情を排したロボットのような声で

報告を読み上げ始めた。


「……はい。初日、ローマの空港にて、

イタリアン・マフィアの巨大シンジケートのドンと、

数十人の完全武装した構成員による、国賓級のお出迎えを受けました」


「…………はい?」


「その夜。現役のイタリア首相が極秘に主催する晩餐会に招待され、

雅由美様は、南部の港の利権を巡る血生臭いマフィアの抗争について、

首相と楽しげに談笑なさいました」


「ま、待て、山田。今、首相とマフィアって……」


「数日後、ヴェネツィアにて。

雅由美様を狙った凄腕の国際結婚詐欺師を、わずか一分で論破し、

背後に控えていた竜也様たちが、路地裏で『物理的』に連行いたしました」


父と兄の顔から、スッと血の気が引いていく。

山田の報告は、さらにエスカレートしていった。


「パリの超高級ホテルにて。

深夜に侵入してきた、数億円の宝石を狙う武装した国際窃盗団5名を、

雅由美様はシルクのネグリジェ姿のまま、完全無音で、

素手による格闘戦で制圧なさいました」


「なっ……!? ね、ネグリジェで素手!?」


「翌日。その功績を讃えられ、フランス共和国大統領から

エリゼ宮でのシークレット・ランチに招待され、

『我が国の警察長官になってくれないか』と直々にスカウトされました」


「だ、大統領から警察長官のスカウトォォッ!?」


兄の貴哉が、コーヒーを盛大に噴き出してデスクに突っ伏す。


「さらにロンドンにて。

雅由美様は『お散歩』と称して郊外の古城へ向かい、

欧州の裏社会を牛耳る各国のドンたちが集まる極秘サミットに乱入。

彼らを力と恐怖で完全に屈服させ、アジアの物流ルートを掌握いたしました」


「…………」


「その直後、イギリス首相から官邸でのアフタヌーンティーに招かれ、

『君に大英帝国勲章を授与したい』と絶賛されました。

……以上が、ただの女子大生の、平和な夏休み旅行の全貌でございます」


報告を終えた山田は、カクンッと膝から崩れ落ち、

そのまま社長室の最高級絨毯の上で、真っ白な灰となって燃え尽きた。


「…………」


父と兄は、もはや言葉を発することすらできなかった。

ただの卒業旅行の視察のはずが、イタリア、フランス、イギリスの

国家権力のトップを完全制覇し、さらには裏社会の巨大シンジケートまで

完全に手中に収めて帰ってきたのである。


「……父さん。俺の妹は……ついにヨーロッパを征服してしまいました……」


「……ああ。……山田。よく生きて帰ってきてくれた……。

お前には、特別ボーナスと……一ヶ月の有給休暇をやろう。

ゆっくり、温泉にでも浸かって……傷ついた心を癒やしてくれ……」


父が震える手で胃薬の瓶を逆さにし、大量の錠剤を口に流し込んだ、その時。


「お父様、お兄様。ごきげんよう」


社長室の扉が開き、初秋の風のような爽やかで完璧な微笑みを浮かべた

雅由美が、優雅な足取りで入ってきた。

手には、美しい銀のトレイに乗せられた、高級なティーセットが握られている。


「ロンドンのハロッズで、素晴らしい茶葉を手に入れましたの。

お仕事の合間に、皆様で召し上がっていただこうと思いまして」


雅由美は、床で気絶している山田や、真っ青な顔で硬直している

父と兄の様子に全く気づかないふりをして、

極上の香りを放つ紅茶を、優雅にカップへと注いでいく。


「本当に、とっても楽しくて、リラックスできるご旅行でしたわ。

親友たちも、ヨーロッパの美しい景色に大満足してくれましたのよ」


「ヒィィィィィッ!!」


「こ、来ないでくれぇっ! 国家の支配者めぇっ!!」


完璧な令嬢の、天使のような微笑み。

それが、裏社会の頂点に立つ無敵の龍の顔であることを嫌というほど知らされた

神龍寺の男たちは、ついに悲鳴を上げて社長室の隅へと逃げ惑った。


「あら。皆様、どうなさいましたの? 紅茶が冷めてしまいますわよ?」


小首を傾げ、可憐に微笑む雅由美。


窓の外には、抜けるような日本の青空が広がっている。

表の超VIP待遇と、裏の絶対的な権力が交差した、

規格外のヨーロッパ三週間・極上ドタバタ旅行。

それは、胃薬の消費量と共に、神龍寺の男たちの寿命を大きく削りながらも、

雅由美の完璧な令嬢としての日常へと、優雅に収束していくのであった。



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