第二十九章
真夏の陽光が降り注いでいたイタリアやフランスから一転。
ドーバー海峡を越えた一行を迎えたのは、しっとりとした薄曇りの空と、
テムズ川を撫でる涼やかな風。歴史と伝統が息づく霧の都、
イギリス・ロンドンであった。
「わぁ……! ビッグベンに、ウェストミンスター宮殿!
本当に、ハリー・ポッターやシャーロック・ホームズの世界ですわ!」
「街を走る真っ赤な二階建てバス(ダブルデッカー)も可愛らしいわね!」
ロンドンの由緒ある高級ホテルに荷物を置いた後、
親友たちと妹の彩美は、世界的に有名な高級百貨店『ハロッズ』で、
目を輝かせながらショッピングを楽しんでいた。
有名なハロッズ・ベアのぬいぐるみや、王室御用達の紅茶の缶を
次々と買い物かごへと入れていく。
「皆様、とても楽しそうですわね。……山田さん」
雅由美は、深いグリーンのシックなテーラード・ワンピースに、
上品なトレンチコートを羽織った完璧な英国淑女の装いで、
同行しているプロ添乗員の山田に優しく声をかけた。
「は、はいっ! 雅由美様、何なりと!」
「私はこれから、少しばかり『お散歩』に行ってまいります。
彩美たちの護衛とご案内は、山田さんと黒田さんにお任せしてよろしいかしら?
……竜也さん、あなたは私についてきなさい」
「はっ。承知いたしました」
雅由美が優雅に微笑むと、山田は「お散歩」という言葉の裏にある
底知れぬプレッシャーを感じ取り、直立不動で頷いた。
(お、お散歩……! これまでの流れからして、絶対にただの散歩じゃない!
またどこかの国家元首か、裏社会のドンと密会する気だ……っ!!)
山田が胃を押さえて震える中、雅由美は竜也を伴い、
密かに用意させていた漆黒のジャガーの後部座席へと乗り込んだ。
ロンドン郊外。
鬱蒼とした深い森の奥にひっそりと佇む、中世の古城。
外界から完全に隔絶されたその城の、重厚な石造りの地下広間には、
紫煙と、ヒリつくような殺気が立ち込めていた。
「……ふざけるな、ヴィンチェンツォ!
アジアの物流ルートの五割を、極東の組織に明け渡すだと!?
我々ロシアン・マフィアや、地元のシンジケートを舐めているのか!」
巨大なマホガニーの円卓を囲むのは、欧州各国の裏社会を牛耳る
ドンたちであった。
顔に傷のある巨漢のロシア人ボスが、葉巻を灰皿に叩きつけて咆哮する。
「かっかっかっ。落ち着け、イワン。
これは提案ではない。決定事項だと言っているのだ」
上座に座るヴィンチェンツォが、余裕の笑みでステッキを弄んだ、その時。
ギィィ……ッ。
重厚なオーク材の扉が開き、薄暗い広間に、
一人の小柄で美しい東洋の令嬢が、静かな足取りで足を踏み入れた。
「……随分と、賑やかなお茶会のようですわね」
完璧な英語で紡がれた、鈴を転がすような涼やかな声。
しかし、その声が響いた瞬間、広間の温度が数度下がったかのように、
歴戦のドンたちが一斉に息を呑んだ。
「お待たせいたしました、ヴィンチェンツォ様」
「おお、ミヤユミ! よく来てくれた。さあ、私の隣へ」
ヴィンチェンツォに促され、雅由美は円卓の上座へと優雅に腰を下ろした。
背後には、巨大な彫像のように竜也が控えている。
「ヴィンチェンツォ! この小娘はなんだ!
神聖な我々のサミットに、なぜこんな子供を……!」
英国の地元シンジケートのボスが、侮蔑の眼差しを向けて立ち上がった。
だが、雅由美は全く動じることなく、スッと鳶色の瞳を細めた。
「初めまして、紳士の皆様。私は神龍寺雅由美。
極東の『龍神』の、八代目でございます」
「なに……!? この小娘が、あの『龍神』のトップだと!?」
「……お黙りなさい」
雅由美の口から放たれた、絶対的な冷酷さを孕んだ低い声。
同時に、小柄な身体から爆発的に膨れ上がった『龍の覇気』が、
円卓を囲む大男たちの首を、目に見えない巨大な手で締め上げた。
「ッ……!?」
「あなた方が欲しているアジアの港、そして最新の兵器の密輸ルート。
その全ての鍵を握っているのは、私ですわ」
雅由美は、トレンチコートのポケットから一枚のマイクロチップを取り出し、
テーブルの中央へ、カタンと音を立てて置いた。
「文句があるなら、全て引き上げさせていただきます。
……あなた方の組織が、明日から完全に『干上がる』ことになっても、
よろしいのかしら?」
極上の微笑みと、逆らう者全てを消し去るという絶対の自信。
ロシアの巨漢も、英国のボスも、背筋に氷柱を突き立てられたような
圧倒的な恐怖に縛られ、誰一人として言葉を発することができなかった。
「……み、見事な采配だ、ミヤユミ殿。
我々は、あなたの決定に従おう……」
数分後。
欧州の裏社会を支配するドンたちは、揃って冷や汗を流しながら、
一人の女子大生に向かって深く頭を垂れていた。
「かっかっかっ! これにて閉会だな。
皆、極東の若き龍の逆鱗に触れぬよう、せいぜい長生きすることだ」
老獅子の高笑いが響く中、雅由美は「有意義な会議でしたわ」と微笑み、
何事もなかったかのように古城を後にした。
その日の午後四時。
ハロッズで買い物を終え、大荷物を抱えた親友たちと合流した雅由美は、
ロンドン市内の中心部、ウェストミンスター区へと向かっていた。
「お姉様、お散歩はいかがでしたか? 少し霧が出てきましたわね」
「ええ、彩美。古いお城を見てきたのだけれど、
少しばかり『カビ臭いネズミ』が多かったから、お掃除をしてきたのよ」
「まあ。お姉様はお掃除がお好きですものね」
姉妹が微笑ましく会話していると、一行の乗ったハイヤーは、
厳重な警備が敷かれた『ダウニング街10番地』の前で停車した。
イギリスの政治の中枢、首相官邸である。
「ようこそ、神龍寺雅由美お嬢様。お待ちしておりました」
出迎えたのは、現役の『イギリス・首相』であった。
「…………」
親友の瑞希、麗華、栞、そして彩美は。
イタリア首相、フランス大統領に続き、またしても登場した国家元首を前に、
ついに驚くことすらやめ、悟りを開いたような凪の表情になっていた。
「あ、麗華。イギリスの首相よ」
「ええ、そうね瑞希。今日は火曜日だから、首相の日なのかしらね」
「お姉様、次はどこの国の王様とお茶をするのでしょうね」
完全に感覚が麻痺し、非日常を日常として受け入れ始めた少女たち。
だが、一人だけ、まだ現実を受け止めきれない男がいた。
(あ、ああ……っ! 首相官邸でアフタヌーンティー!?
裏社会のサミットから帰ってきたと思ったら、今度は表のトップとスコーン!?
もうダメだ、私の精神がゲシュタルト崩壊を起こしている……っ!!)
山田添乗員は、官邸の豪奢な応接室の隅で、
ついに白目を剥いて、立ったまま気絶という神業を披露していた。
「さあ、ミヤユミ嬢。我が国が誇る最高級のアールグレイと、
焼きたてのスコーンだ。クロテッドクリームをたっぷり塗ってくれたまえ」
首相が気さくに勧める中、雅由美は優雅にティーカップを傾けた。
「ありがとうございます、首相閣下。……そういえば、
最近郊外で蠢いていた『裏の組織のトラブル』は、
先ほど綺麗に片付けておきましたわ。これでロンドンの治安も、
しばらくは安泰でしてよ?」
「オーマイゴッド! 我が国のスコットランドヤード(ロンドン警視庁)が
何年も手こずっていた案件を、お散歩のついでに解決してしまったのか!?
君には大英帝国勲章を授与しなければならないな!」
首相がティーカップを置いて大笑いする。
「ふふっ。勲章よりも、この美味しいスコーンのレシピを
教えていただければ十分ですわ」
上品に口元を拭う令嬢の、底知れぬ実力と人脈。
霧の都ロンドンでの、優雅で、そして恐ろしいティータイムは、
紅茶の芳醇な香りとともに、穏やかに過ぎていくのであった。
山田添乗員が、魂の次元上昇を果たし、
完全に仏のような微笑みを浮かべていることなど、
誰も気に留める者はいなかった。




