第二十八章
イタリアの陽気で濃密な日々を経て、雅由美たち一行は次なる目的地、
芸術とファッションが息づく花の都、フランス・パリへと降り立っていた。
真夏のパリは、どこまでも澄み渡る青空の下、セーヌ川のきらめきと
歴史ある石造りの街並みが、息を呑むような美しいコントラストを描いている。
「はぁ……。ルーヴル美術館を貸し切りで見学できるなんて、
本当に夢のようでしたわ。あの『モナ・リザ』を独り占めできるなんて」
「ええ。それに、シャンゼリゼ通りでのショッピングも最高ね!」
シャンゼリゼ通りに面したオープンカフェで、親友の麗華と瑞希が、
色鮮やかなマカロンと紅茶を楽しみながら、興奮冷めやらぬ様子で語り合っている。
その足元には、エルメス、シャネル、カルティエといった
世界最高峰のハイブランドの紙袋が、文字通り「山のよう」に積まれていた。
「山田さん。こちらの領収書も、後でまとめて処理をお願いいたしますね」
「……は、はい。かしこまりました、雅由美様」
雅由美から優雅に手渡された、一枚の小さなレシート。
そこに印字された『五千万ユーロ(数億円相当)』という、
カルティエの特注ハイジュエリーの金額を見た瞬間、
プロ添乗員の山田は、完全に白目を剥いて昇天しかけていた。
(い、一日のショッピングの総額が、国家予算レベルに達している……!
この領収書を本社に提出したら、経理部長が泡を吹いて倒れるぞ……!!)
すでに胃薬の許容量を限界まで超えている山田は、
震える手で領収書を専用のジュラルミンケースへと厳重に仕舞い込んだ。
その夜。
一行が宿泊しているのは、ヴァンドーム広場に位置する
世界最高峰の宮殿ホテル『ホテル・リッツ・パリ』の、最も格式高い
プレジデンシャル・スイートルームである。
日付が変わり、深夜二時。
親友たちと妹の彩美は、遊び疲れてそれぞれのベッドルームで
深い眠りについていた。
広大なリビングルームでは、雅由美が一人、
真珠のような光沢を放つ、最高級シルクのネグリジェ姿で、
アンティークのソファに深く腰掛け、静かに原書でフランス文学を読んでいた。
金糸の刺繍が施されたガウンをふわりと羽織ったその姿は、
まるで夜の闇に咲く、一輪の白百合のように気高く美しい。
カチャリ……。
ふと、スイートルームの重厚なバルコニーの窓から、
微かな、本当に微かな金属音が響いた。
(……あら)
雅由美は、本から視線を上げることなく、鳶色の瞳を微かに細めた。
音もなく窓が開き、暗闇に溶け込むような黒装束に身を包んだ男たちが、
猫のようにしなやかな動きで、次々とリビングルームへと侵入してくる。
その数、五人。
彼らは、パリの裏社会でも名を馳せる、凄腕の国際窃盗団であった。
昼間、一行が購入した数億円相当の宝石類が、この部屋の金庫に
保管されているという情報を嗅ぎつけ、潜入してきたのである。
男の一人が、暗視ゴーグル越しに、ソファで本を読んでいる
雅由美の姿を認め、手にした特殊警棒を無言で振り上げた。
眠らせるための麻酔ガスを使うまでもない。
ただの無防備な令嬢だと判断し、一撃で気絶させようとしたのだ。
だが。
「……Shh. S'il vous plaît, soyez silencieux.」
(……しっ。お静かに願えますか)
雅由美が、本を閉じてパタンとテーブルに置いた。
その極めて静かで、しかし絶対零度のフランス語が響いた瞬間。
「!?」
男が警棒を振り下ろすより早く、ソファに座っていたはずの雅由美の姿が、
ふわりと、まるで幻のようにブレた。
「我が家の可愛い妹と友人たちが、隣の部屋で眠っておりますの」
甘い香りと共に、男の背後に滑り込んだ雅由美は、
シルクのネグリジェの袖口から、夜闇に溶け込む漆黒の鉄扇を滑らせた。
一切の無駄がない、舞うような合気道の体捌き。
トンッ、と。
鉄扇の柄が、男の首筋の頸動脈に寸分違わず打ち込まれる。
声を発する間もなく、男の意識は刈り取られ、糸の切れた傀儡のように
膝から崩れ落ちた。
「なっ……!?」
残りの四人が驚愕し、懐からナイフやサイレンサー付きの拳銃を
抜こうとした、その時である。
「……お嬢の静かな夜の読書を邪魔するたぁ、
お前ら、命知らずにも程があるぜ」
「全くだ。フランスの泥棒は、随分とマナーが悪いらしい」
リビングの陰から、音もなく現れた二つの巨大な影。
完璧なダークスーツに身を包んだ、竜也と黒田である。
「ガッ……!?」
「グェッ!」
極道の中でもトップクラスの戦闘力を持つ二人が、
あっという間に残りの男たちを無音で締め上げ、
手足の関節を外してカーペットの上に転がしていく。
それは、戦闘というよりも、完全に「一方的な作業」であった。
「お疲れ様です、竜也さん、黒田さん」
雅由美は、乱れ一つないシルクのガウンを優雅に引き合わせ、
床で気絶している男たちを見下ろした。
「……お行儀の悪いネズミさんたちですこと。
ホテルの格式が下がってしまいますわね」
「お嬢、こいつらどうします? セーヌ川の底に、
『フランスのお友達』の隣に沈めてきましょうか?」
竜也が物騒すぎる提案をすると、雅由美はクスリと笑った。
「いいえ。せっかくの美しいパリの川を、これ以上汚すのは無作法ですわ。
綺麗にラッピングして、警察の玄関前に置いてきて差し上げなさい。
……くれぐれも、彩美たちが起きる前に、静かにね」
「はっ。承知いたしました」
翌日のお昼過ぎ。
パリの中心部に位置する、フランス共和国大統領官邸『エリゼ宮』。
その豪奢なシークレット・ダイニングには、信じられない光景が広がっていた。
「……まさか。まさか、お姉様……」
「フランス大統領とお食事なんて……っ!!」
親友たちと妹の彩美は、完全に思考が停止し、
目の前に並べられた最高級のフレンチのコース料理にも手をつけられず、
ただガクガクと震えながら座っていた。
「いやはや、驚きましたよ。マドモアゼル・ミヤユミ」
テーブルの最上座で、ワイングラスを傾けながら気さくに笑いかけてきたのは、
現役の『フランス共和国大統領』その人であった。
「昨夜、我が国の警察が血眼になって追っていた国際窃盗団のメンバーが、
全員綺麗に縛り上げられて、警察署の前に『配達』されていたのですからね。
あなたが彼らを捕らえてくれたと聞いて、急遽このランチを設定した次第です」
大統領は、敬意と、そして微かな恐れを込めた眼差しを雅由美に向けた。
「ふふっ。私はただ、お部屋に迷い込んだ小さなネズミを、
少しばかり『お掃除』しただけですわ。大統領閣下」
雅由美は、シャネルの美しいツイードのセットアップ姿で、
フォアグラのテリーヌを優雅に口に運びながら、涼やかに微笑んだ。
「お掃除、ですか。ハッハッハ! 先日、我が国のマフィアを
セーヌ川の底へ『お掃除』してくださったのも、確かあなたでしたね。
いっそのこと、大学を卒業したら、我が国の警察長官に就任してくれませんか?
あなたがいれば、パリの治安は世界一になるだろう」
大統領の冗談交じりの、しかし半分本気とも取れる提案に、
背後に控えていた山田添乗員は、ついに魂の緒が切れかけていた。
(だ、大統領から警察長官へのスカウト……!?
ただの女子大生旅行の二カ国目で、なぜ国家権力のトップから
直々にオファーを受けているんだ……っ!!)
「まあ。光栄なご提案ですけれど、私は日本の美しい四季を愛しておりますの。
それに、我が家の『優秀な清掃員たち』が、少し手荒なものですから」
雅由美がチラリと背後を見ると、SPとして控えている竜也たちが、
大統領に向かって「いつでも殺れますよ」と言わんばかりの、
殺気立った極道スマイルを向けていた。
大統領の専属SPたちが、一斉に冷や汗を流して銃に手をかけている。
「ハ、ハハハ……それは残念だ。……皆さんも、どうか食事を楽しんでくれたまえ。
マドモアゼル・ミヤユミの素晴らしい友人たちを、我が国は歓迎するよ」
「は、はい……っ! メ、メルシー・ボークー……っ!」
親友たちは、白目を剥きそうになりながらも、
震える手でカトラリーを握りしめた。
(お姉様……イタリアの首相の次は、フランス大統領とランチ……!?
もう、この旅行のスケールが大きすぎて、何が現実なのか分からないわ……っ)
彩美に至っては、「お姉様、すごすぎる……!」と、
完全に感覚が麻痺し、目を輝かせて大統領の顔と雅由美を交互に見つめていた。
華の都パリでの、秘密のランチタイムは優雅に過ぎていく。
山田添乗員が、完全に透明な幽霊のような姿になっていくのを尻目に、
無敵の令嬢のヨーロッパ旅行は、いよいよ霧の都ロンドンへと
その舞台を移そうとしていた。




