第二十七章
二十歳までに飲んでいるのは全てはノンアルコール物です。あしからず。
七月下旬。
抜けるような青空に、真っ白な入道雲が巨大な城郭のように湧き上がる、夏休みの始まり。
国際空港の最奥に位置する、一般客の立ち入りが厳しく制限されたVIP専用のプライベートラウンジでは、少女たちの華やいだ笑い声が、高級なクリスタルグラスの触れ合う音と共に心地よく響いていた。
「はぁ……。まさか、ただの夏休みの旅行でヨーロッパへ、しかもファーストクラスの貸し切りで行けるなんて……!」
親友の瑞希が、搾りたてのブラッドオレンジジュースを両手で包み込みながら、夢でも見ているかのようにうっとりとしたため息を漏らす。
「本当ですわね。雅由美様のお父様には、いくら感謝しても足りませんわ。わたくし、トレビの泉でコインを投げるのが夢でしたの」
「ええ。最高の夏休みの幕開けね。ルーヴル美術館にも行けるのかしら」
麗華と栞も、それぞれ極上のスイーツを楽しみながら目を輝かせている。
妹の彩美は、旅行案内の分厚いパンフレットを広げて、早くもローマでのジェラート巡りや、スペイン広場でのショッピングの計画に夢中になっていた。
「もう、皆様ったら。父の会社の旅行部門が、新しい欧州VIPツアーの視察を兼ねているだけですから、どうぞお気になさらないでね。同世代の女子大生の率直な意見が聞きたいと、父も申しておりましたし」
雅由美は、涼やかなサマードレスの裾を上品に払いながら、アイスティーのグラスを傾けてふわりと微笑んだ。
表向きは『神龍寺グループの旅行事業部による、欧州VIPツアーのテストフライト兼モニター旅行』である。
しかしその実態は、欧州の裏社会を統べる老獅子、ヴィンチェンツォからの「ぜひ夏休みを利用して、可愛い孫娘たちと遊びに来てくれ」という、絶対に断ることの許されない、最上級の国賓級招待旅行であった。
「……あの。雅由美お嬢様、皆様。そろそろ搭乗のお時間でございます」
ラウンジの隅から、胃の辺りを押さえながら控えめに、そして悲痛な面持ちで声をかけてきたのは、神龍寺グループの旅行部門から選りすぐられた超エリートプロ添乗員、山田であった。
数々の世界的VIPのアテンドを経験してきた百戦錬磨の彼だが、今日の彼の顔色は、今にも倒れそうなほどに青白い。
無理もない。彼の背後には、『旅行会社のサポートスタッフ』という名目で随行している、竜也と黒田が控えているのだ。
二人は完璧なサマースーツに身を包み、必死に「爽やかな添乗員スマイル」を作ろうと努力しているのだが、顔に刻まれた本物の極道の凄みと、隠しきれない修羅場のオーラのせいで、どう見ても『国際指名手配中の冷酷なヒットマン』にしか見えないのである。
(お、俺は……なぜこんな恐ろしい男たちを部下として引き連れて、花のヨーロッパへ向かわなければならないんだ……っ! 空港のセキュリティを顔パスで抜けてきた時点で、もう嫌な予感しかしない!)
山田が心の中で血の涙を流していると、雅由美が優しく声をかけた。
「ええ、山田さん。三週間、どうぞよろしくお願いいたしますね。竜也さんたちも、荷物の運搬や現地の警護など、色々と頼りにしておりますわ」
「へっ……あっ、はい! お嬢……いや、雅由美様! この竜也、皆様の楽しいご旅行のため、粉骨砕身、命に代えましても障害を排除いたします!」
竜也が直角九十度の美しいお辞儀を繰り出すと、ラウンジの専属コンシェルジュたちが「ヒッ……!」と小さく悲鳴を上げて壁際に後ずさった。
やがて一行は、貸し切り状態となったファーストクラスのキャビンへと優雅に案内された。
完全個室型の広々としたシートに、最高級のヴィンテージ・シャンパンとキャビア。雲の上とは思えない極上のサービスに、親友たちと彩美は「お城みたい!」「映画の世界だわ!」と大はしゃぎである。
しかし、ここでも悲劇は起きていた。
美しい客室乗務員(CA)が、震える手で竜也にウェルカムドリンクを差し出そうとして、銀のトレイからおしぼりを落としそうになったのだ。
「あっ、も、申し訳ございません……!」
「……気にするな。嬢ちゃんも仕事で疲れてるんだろう。ほら、拾ってやるから、そんなに怯えなくていい。今日は『金属製の道具』は一切持ち込んじゃいねえ、ただの旅行カバンだけだからな」
竜也が「極道なりの最大限の優しさ」を込めて、安心させようとニッコリと笑いかけた瞬間、CAは「ひぃっ! 命だけは……っ!」と涙目になりながらギャレー(厨房)へと逃げてしまった。
「……お嬢。俺はただ、安心させようと優しく声をかけただけなのですが……なぜ泣かれるのでしょうか」
「ふふっ。竜也さん、笑顔が少しばかり『獲物を狩る直前』みたいでしたわよ。それに『金属製の道具』という表現は、少しばかり想像力を掻き立ててしまいますわ。もう少し、口角の力を抜いてみてくださいな」
機内の奥で、雅由美はクスクスと笑いながら扇子を口元に当ててアドバイスを送る。
山田添乗員は、すでに自席で三錠目の胃薬を水で流し込みながら、毛布を被って震えていた。
日本からローマまでの、十数時間の長いフライト。
親友たちと映画を見たり、フルコースの機内食を楽しんだりしながら、雅由美は窓の外に広がる、どこまでも青い空と雲海を見つめていた。
(ヴィンチェンツォ様、ソフィア様。……いよいよですね)
表の女子大生としての華やかな旅行と、裏の会頭としての顔。
その二つが交差するヨーロッパの地で、どのようなドラマが待っているのか。
雅由美の胸には、静かな高揚感が満ちていた。
やがて飛行機は、地中海の眩しい太陽が照りつける永遠の都、ローマ・フィウミチーノ空港へと降り立った。
一般の入国審査ゲートとは完全に隔離された、要人専用のVIPターミナル。
タラップを降り、専用の高級カートで大理石のロビーへと案内された一行の前に、想像を絶する光景が広がっていた。
「……Benvenuta in Italia, mia bellissima nipote!」
(イタリアへようこそ、私の最高に美しい孫娘よ!)
ロビーの中央。
そこには、純白の高級麻スーツを完璧に着こなした老獅子、ヴィンチェンツォと、寄り添う優雅な妻ソフィアの姿があった。
そして彼らの背後には、黒塗りの最高級装甲セダンが十台以上連なり、完全武装したイタリアン・マフィアの屈強な男たちが、ピシッと整列して深々と頭を下げているのである。
「まあ……! ヴィンチェンツォ様、ソフィア様! お久しぶりでございます。お迎え、ありがとうございますわ」
雅由美が流暢なイタリア語で微笑みながら歩み寄ると、老夫婦は満面の笑みで雅由美を強く抱きしめた。
「アイミも、よく来てくれたね! そしてミヤユミの美しい友人たちも、我が国への訪問を心から歓迎しよう! 最高の夏休みを約束するよ」
「わぁ……! お姉様のお知り合いの方、ダンディーでまるで映画の俳優さんみたい! その後ろの方たちも、ハリウッドのアクション映画のエキストラですか!?」
彩美や親友たちが、マフィアのドンとその配下たちを「セレブな俳優と撮影スタッフ」だと完全に勘違いして目を輝かせている。
一方、背後に控えていた山田添乗員は、本物のマフィアが放つ圧倒的な血の匂いと暴力のオーラに当てられ、立ったまま白目を剥いて意識を失いかけていた。
(だ、ダメだ……! この旅行、絶対に普通の夏休みツアーじゃない……っ! 出迎えが現地マフィアのドンなんて、旅行業法に載ってない……!!)
「山田さん、お顔色が優れませんわ。ローマの熱気で少しお疲れかしら?」
「ひっ、い、いえっ! この山田、絶好調でございますぅっ!!」
雅由美の天然な気遣いに、山田は引き攣った笑顔で必死に答えるのが精一杯だ。
一行は、ヴィンチェンツォの手配した、かつての宮殿を改装したという最高級の五つ星ホテルへと案内された。
スイートルームで旅の疲れを少し癒やし、ローマの夜に相応しい美しいドレスに着替えた後。
「さて、ミヤユミ。今夜は君たちの歓迎会を用意してあるんだが……少しばかり、参加者が増えてしまってね」
ホテルのロビーで待っていたヴィンチェンツォが、少し困ったような、しかし面白がるような笑顔でウィンクをした。
「まあ。どなたがいらっしゃるの?」
「いやなに。私が『日本の若き龍がローマに来る』と少し自慢したら、どうしても会いたいという物好きがいてね。……行くよ」
ヴィンチェンツォのエスコートで案内されたのは、ローマ市内にひっそりと佇む、一般には公開されていない歴史ある迎賓館。
石畳の通りを抜け、厳重なセキュリティと多数のSPに守られた重厚な扉が開かれると。
「ようこそ、イタリアへ。神龍寺雅由美お嬢様。あなたの美貌と知性についての噂は、地中海の風に乗って私の耳にも届いておりますよ」
そこに立っていたのは、テレビの国際ニュースで毎日のように目にする、現役の『イタリア共和国・首相』その人であった。
国家の元首たる大統領ではないが、政治の実権を握り、イタリアという国家を動かす最高権力者である。
「…………」
親友の瑞希、麗華、栞、そして妹の彩美は、あまりの事態に完全に思考が停止し、口を半開きにして石像のようにフリーズした。
山田添乗員に至っては、もはや「ヒュッ……」と微かな呼吸音を漏らし、膝から崩れ落ちて絨毯に両手をついている。
(な、なぜ……ただの女子大生の夏休みの初日が、マフィアのドンからの出迎えの後に、現役首相主催の極秘晩餐会につながっているんだ……!? 私の知っている旅行業務の範疇を、光の速さで超えている……!)
山田が魂を口から吐き出しかける中、雅由美だけは、全く動じることなく、完璧な令嬢のカーテシー(挨拶)を流麗なイタリア語と共に披露した。
「初めまして、首相閣下。お招きいただき、光栄の至りに存じますわ。ですが、私のようなただの学生には、いささか過ぎたる名誉かと存じます」
「ハッハッハ! 謙遜なさるな。我が国の大使を心酔させ、ヴィンチェンツォ氏をここまで骨抜きにするレディが、ただの学生であるはずがない」
首相は面白そうに笑い、一行を豪奢なダイニングテーブルへと案内した。
「さあ、ご友人の皆さんも、どうかリラックスしてくれたまえ。今夜は堅苦しい政治の話は抜きだ。美しいローマの夜と、極上のワインを楽しもう」
「は、はい……っ! グ、グラッチェ……!」
ガチガチに緊張しながらも、親友たちは震える手で席に着く。
最高級のイタリア料理が運ばれてくる中、雅由美は首相やヴィンチェンツォと、まるで旧知の仲のように、文化や芸術、そして時折、「経済の深い部分」に関するブラックユーモアを交えながら、大人の会話を優雅に楽しんでいく。
「いやはや、最近は南部の港の利権を狙う新興の組織が鬱陶しくてね。私の政治的手腕だけでは、どうにも彼らの『不作法』を正しきれなくて困っているのですよ」
首相がワイングラスを回しながら、冗談めかして溜め息をつく。
「あら。それはお困りですわね、首相。ですが、不作法な方々には、適切な『教育』が必要ですわ」
雅由美は、仔牛のソテーを優雅に切り分けながら、ふわりと微笑んだ。
「もしよろしければ、私の背後に控えている『優秀な添乗員たち』を、数日ほど南部の港へ派遣いたしましょうか? 彼ら、こう見えて海風に当たるのが好きですし、お掃除も得意ですので、きっと港がピカピカになりますわよ」
背後に立つ竜也が、「お任せください。チリ一つ残さず沈めてご覧に入れます」と無言の殺気を放ち、首相は冷や汗を流しながら大笑いした。
「ハッハッハ! オーマイゴッド! 日本の若き龍の提案は、あまりにも過激で魅力的すぎるな。ヴィンチェンツォ、君が彼女を溺愛する理由がよく分かったよ」
「かっかっかっ! そうだろう。私の自慢の孫娘だからな」
(お、お姉様……いつから一国のトップと、あんなマフィア映画みたいな会話で盛り上がれるようになったの……!? 港のお掃除って、絶対に普通のお掃除じゃないわよね!?)
親友たちは、目の前で繰り広げられる信じられない光景に、ただただ圧倒されながらも、あまりに非日常的な空間のせいか、徐々に感覚が麻痺し始めていた。
ローマの夜は更けていく。
星降る永遠の都で幕を開けた、表の女子大生と裏の龍が交差する規格外のヨーロッパ旅行は、まだ、ほんの序章に過ぎないのであった。
永遠の都ローマでの、現役首相とのスリリングな極秘晩餐会から数日。
雅由美たち一行は、特急列車に揺られてイタリア北部へと移動し、水の都・ヴェネツィアへと足を踏み入れていた。
アドリア海の真珠と称されるこの街は、網の目のように入り組んだ運河と、中世から変わらぬ美しいレンガ造りの街並みで旅人たちを迎えてくれる。
頭上には抜けるような青空が広がり、水面に反射した陽光が、歴史ある建物の壁面をキラキラと照らし出していた。
「わぁ……! なんて綺麗なの! 本当に街中が水路で繋がっているのね!」
親友の栞が、ゴンドラの縁から身を乗り出すようにして歓声を上げた。
黒塗りの細長い伝統的なゴンドラは、カンツォーネを口ずさむゴンドリエーレ(船頭)の巧みなオール捌きによって、狭い運河を滑るように進んでいく。
「お姉様、あちらの橋もとても素敵ですわ! 絵本の世界に迷い込んだみたい!」
妹の彩美も、日傘を傾けながら瞳を輝かせている。
「ええ、本当に。溜め息橋ですわね。昔の囚人たちが、あの橋の窓から美しいヴェネツィアの景色を最後に見て、溜め息をついたという言い伝えがありますのよ」
雅由美は、涼やかなレースのワンピース姿で、優雅にヴェネツィアの歴史を語る。
まるで上流階級の令嬢の、完璧で優雅な休日そのものの光景であった。
ただ一つ、その後ろのゴンドラに乗っている『サポートスタッフ』たちの異様さを除けば、だが。
「……おう、黒田。あの橋は囚人が溜め息をついた橋らしいぞ。俺たちも、もしムショにぶち込まれる時は、ああいう洒落た橋を渡りたいもんだな」
「そうですね、竜也の兄貴。網走の寒空の下よりは、イタリアの陽気な水路の方が、まだ腹も据わるってもんです」
完璧なサマースーツを着こなした屈強な極道二人が、サングラスの奥から鋭い眼光を光らせながら、物騒すぎる感想を述べていた。
すれ違う他のゴンドラの観光客たちが、「ヒッ……マフィアのボスとヒットマン……!?」と震え上がり、ゴンドリエーレたちも無言で猛烈にオールを漕いで逃げていく。
「……お二方。ここは花のヴェネツィアです。どうか、ムショだの腹が据わるだの、日本の裏社会を連想させるワードは封印してください……っ!」
同乗しているプロ添乗員の山田が、涙目で懇願していた。
彼はローマでの極秘晩餐会以来、ストレスで体重が二キロほど落ち、今では胃薬だけでなく、精神安定のためのハーブティーを水筒に入れて常備するようになっていた。
ゴンドラでの優雅な遊覧を終えた一行は、ヴェネツィアの中心部であるサン・マルコ広場へとやってきた。
広大な石畳の広場は、歴史的な大聖堂や鐘楼に囲まれ、世界中から集まった観光客と、名物の鳩たちで賑わっている。
「素晴らしい広場ね! ナポレオンが『世界で最も美しい客間』と呼んだのも頷けるわ」
瑞希がカメラを構えて、次々とシャッターを切る。
一行は広場の一角にあるジェラテリア(アイスクリーム店)で、色鮮やかなピスタチオやレモンのジェラートを購入し、広場のベンチで優雅な休憩の時間を楽しんでいた。
「ふふっ、冷たくて美味しいですわね。彩美、口元に少しクリームがついていますわよ」
「あっ、本当ですか? お恥ずかしい……」
雅由美が妹の口元をハンカチで優しく拭ってやっていると。
「……Oh, Mamma mia!(おお、マンマ・ミーア!)」
突如として、大げさな感嘆の声と共に、一人の男が雅由美の前に進み出てきた。
年齢は二十代後半から三十代前半。仕立ての良いリネンのスーツをだらしなく、しかし色気たっぷりに着崩し、まるでファッション雑誌から抜け出してきたような、甘いマスクのイタリア人男性である。
「美しい……。アドリア海の女神が、人間の姿に身を借りて舞い降りたのかと思いましたよ。シニョリーナ、あなたのその鳶色の瞳は、ヴェネツィアの夜空よりも深く私を魅了してしまった」
男は流暢なイタリア語(少しばかり英語を交えて)で甘い言葉を紡ぎながら、ひざまずいて雅由美の白い手を取り、その手の甲に情熱的なキスを落とした。
「きゃっ……! な、なに!?」
「イタリアの男の人って、本当にこんな映画みたいなアプローチをするのね……!」
突然のロマンチックな展開に、純粋な彩美や親友の麗華たちが、顔を真っ赤にしてときめいている。
少し離れた場所で警護していた竜也が、ピクッと眉を顰めてスーツの懐に手を入れようとしたが、雅由美は扇子でそれを小さく制した。
「初めまして、シニョリーナ。私の名前はマッテオ。しがない貿易商をしております。……突然で驚かれたでしょう。ですが、これは運命なのです。どうか、私とディナーをご一緒していただけませんか? そしてゆくゆくは、私の永遠の愛を受け取っていただきたい」
マッテオと名乗った男は、甘い瞳で雅由美を見つめ上げてプロポーズまがいの言葉を口にした。
端正な顔立ちと、情熱的な言葉。普通の旅行者の女性であれば、異国のロマンスに浮かれて、つい誘いに乗ってしまってもおかしくないほどの手練手管である。
(……ほう)
だが、雅由美の鳶色の瞳の奥に、一瞬だけ、全てを見透かすような冷たい光が宿ったのを、男は気づかなかった。
「まあ……。とても情熱的な愛の告白、ありがとうございます、マッテオ様」
雅由美は、全く動じることなく、完璧な発音のイタリア語で優雅に微笑み返した。
「ですが、あなたのその『永遠の愛』とやらは、一体どれほどの重さがあるのかしら?」
「え……?」
マッテオが少しだけ戸惑った表情を見せると、雅由美は扇子を口元に当て、クスクスと小鳥が囀るように笑った。
「例えば……あなたの愛は、スイス銀行の隠し口座にある『結婚詐欺で騙し取った三百万ユーロ』よりも、重くていらっしゃいますの?」
ピシッ、と。
マッテオの甘い笑顔が、見事に凍りついた。
「なっ……! あ、何を仰っているのか、私にはさっぱり……」
「あら。シチリアの未亡人から巻き上げた五十万ユーロや、ミラノの資産家の令嬢から投資名目で騙し取った百万ユーロ……。ああ、先月はパリの老婦人にも声をかけていらっしゃいましたわね。あなたのその甘いマスクは、とても高く売れるようですこと」
「!!」
マッテオの顔から、完全に血の気が引いた。
彼こそは、欧州の高級リゾート地を渡り歩き、裕福な女性観光客を狙っては財産を巻き上げる、凄腕の国際的結婚詐欺師であった。
今回も、一目で『極東の超大富豪の令嬢』と見抜いた雅由美をターゲットに定めたのだが、相手が悪すぎた。
「な、なぜそれを……!? 君は一体、何者なんだ……っ!?」
「私はただの、少しお耳が早いだけの女子大生ですわ」
雅由美は極上の微笑みを浮かべたまま、冷酷なブラックユーモアを続けた。
「あなたのような熱烈な方は、少しばかり火遊びが過ぎるようですわね。……その情熱は、冷たい鉄格子の向こう側で、たっぷりと冷ましていただくのがよろしいかと」
「くそっ……! ふざけるな!」
詐欺だと見破られ、さらに自分の余罪まで完璧に把握されていることに恐怖を覚えたマッテオは、舌打ちをすると、雅由美の手を振り払って逃亡しようと身を翻した。
しかし。
「……おっと。どこへ行くつもりだ、色男」
逃げ出そうとしたマッテオの肩を、巨大な万力のような手がガシッと掴んだ。
「ひぃっ!?」
振り返ると、そこにはサングラスの奥から「地獄の底から這い上がってきた悪鬼」のような殺気を放つ、竜也と黒田が立ち塞がっていた。
「お嬢に気安く触れやがって……。その甘い顔面、運河の底でカニの餌にしてやろうか?」
「それとも、俺たちが手厚く『物理的』に愛を語ってやろうか、あぁ?」
「ヒィィィィィッ!! た、助けてくれぇっ!!」
屈強な極道二人に両脇を抱えられ、完全に足が宙に浮いたマッテオは、情けない悲鳴を上げながら、路地裏の暗がりへと連行されていった。
数分後。
「……現地のカラビニエリ(警察)に、丁寧にご案内しておきました」と、スーツの袖を直しながら爽やかに戻ってきた竜也たちに、親友たちはポカンと口を開けていた。
「ええと……雅由美様。今の男の人は、一体……?」
麗華が恐る恐る尋ねると、雅由美はジェラートの最後の一口を上品に食べ終え、何事もなかったかのように微笑んだ。
「ただの、少し熱心すぎる絵画のセールスマンでしたわ。竜也さんたちが、道案内をしてくださったのよ」
「そ、そうなのですね。イタリアの方は、本当に情熱的なのですね……」
純粋な友人たちは、詐欺師だとは夢にも思わず、その言葉を信じて感心している。
「さて、皆様。少し歩き疲れてしまいましたわね。あちらの『カフェ・フローリアン』で、優雅にティータイムにいたしましょうか」
雅由美は、世界最古のカフェとして知られる老舗へと、優雅な足取りで一行を案内していく。
その背後で、一部始終を見ていた山田添乗員は、ただ一人、ガクガクと震えながらハーブティーのボトルを抱きしめていた。
(す、凄腕の国際結婚詐欺師を、一瞬で論破して警察送りにした……!? しかも、あんな極上の笑顔で……っ!!)
ヴェネツィアの美しい運河には、今日も平和なカンツォーネの歌声が響き渡っている。
だが、山田の胃袋の運河には、ストレスという名の濁流が絶え間なく流れ込み続けていた。
華麗なるヨーロッパ旅行は、まだまだ先が長い。




